みちのくの山野草

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第一章 本統の宮澤賢治 (テキスト形式)中編

2024-03-27 08:00:00 | 本統の賢治と本当の露
☆『本統の賢治と本当の露』(テキスト形式タイプ)

 ㈢「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」賢治
 さて、生前全国的にはほぼ無名だった宮澤賢治及びその作品を初めて全国規模で世に知らしめた最大の功労者はと言えば、今では殆ど忘れ去られてしまっている松田甚次郎だ。まさに「賢治精神」を実践したとも言える彼は、その実践報告書を『土に叫ぶ』と題して昭和13年に出版すると一躍大ベストセラーに、それに続いて翌年に松田甚次郎編『宮澤賢治名作選』を出版すると、これまたロングセラーになった事が切っ掛けだった。その『土に叫ぶ』の巻頭「恩師宮澤賢治先生」を甚次郎は次のように書き始めている。
 先生の訓へ 昭和二年三月盛岡高農を卒業して歸鄕する喜びにひたつてゐる頃、每日の新聞は、旱魃に苦悶する赤石村のことを書き立てゝゐた。或る日私は友人と二人で、この村の子供達をなぐさめようと、南部せんべいを一杯買ひ込んで、この村を見舞つた。道々會ふ子供に與へていつた。その日の午後、御禮と御暇乞ひに恩師宮澤賢治先生をお宅に訪問した。    〈『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)1p〉
 そこで私は思った、この旱魃による被害はさぞかし相当深刻なものであったであろうと。早速、大正15年の旱害に関する新聞報道を実際に調べてみた。するとやはり、この年の『岩手日報』には早い時点から旱魃に関する報道が目立っていて、12月に入ると、赤石村を始めとする紫波郡の旱魃による惨状がますます明らかとなり、
◇大正15年12月7日付『岩手日報』には、
 村の子供達にやつて下さい 紫波の旱害罹災地へ人情味豐かな贈物
という見出しの、仙台市の女生徒からの援助の記事や、
◇同年12月15日付『岩手日報』には、
 赤石村民に同情集まる 東京の小學生からやさしい寄附
本年未曾有の旱害に遭遇した紫波郡赤石村地方の農民は日を経るに随ひ生活のどん底におちいつてゐるがその後各地方からぞくぞく同情あつまり世の情に罹災者はいづれも感涙してゐる數日前東京浅草区森下町濟美小學校高等二年生高井政五郎(一四)君から河村赤石小學校長宛一通の書面が到達した文面に依ると
わたし達のお友だちが今年お米が取れぬのでこまってゐることをお母から聞きました、わたし達の學校で今度修學旅行をするのでしたがわたしは行けなかったので、お小使の内から僅か三円だけお送り致します、不幸な人々のため、少しでも爲になつたらわたしの幸福です
と涙ぐましいほど眞心をこめた手紙だった。
というような記事が連日のように載っていた。地元からはもちろんのこと、陸続と救援の手が遠く東京の
小学生からのものも含め、他県等からも「未曾有の旱害に遭遇した紫波郡赤石村地方」へ差し伸べられていたということがよく分かる。ちなみに、下掲のように大正15年12月22日付『岩手日報』には、
米の御飯をくはぬ赤石の小學生
 大根めしをとる哀れな人たち
という見出しの記事が載っていたから、甚次郎が(本人の『大正15年の日記』によれば、赤石村慰問日は)同年12月25日に赤石村を慰問したのはおそらくこの新聞報道を見たからに違いない。
 さらに、この旱害の惨状等は年が明けて昭和2年になってからも連日のように報道されていて、例えば同年1月9日付『岩手日報』には次頁のように、トップ一面をほぼ使っての大旱害報道があり、その惨状が如実に伝わるものであった。しかもそれは、紫波郡の赤石村だけにとどまらず、同郡の不動村、志和村等も同様であることが分かるものだった。
 ではこの時、稗貫郡ではどうだったのだろうか。まず、教え子の菊池信一が追想「石鳥谷肥料相談所の思ひ出」で、
 旱魃に惱まされつゞけた田植もやつと終つた六月の末頃と記憶する。先生の宅を訪ねるのを何よりの樂しみに待つてゐた日が酬ひられた。
 〈『宮澤賢治硏究』(草野心平編、     十字屋書店、昭14)417p〉
と述べていることから、菊池の家がある稗貫郡好地村でも旱魃がかなり酷かったということが導かれる。となればあの賢治のことだ、この年の旱魃は稗貫郡内でも早い時点から起こっていることを当然把握していたはずだ。
 その他にも、例えば大正15年10月27日付『岩手日報』は、
 (花巻)稗和両郡下本年度のかん害反別は可成り広範囲にわたる模樣
ということを報じていたから、賢治は稗貫郡下の旱害による稲作農家の被害の深刻さもよく知っていたはずだ。あるいは収穫高については、9月末時点で既に、大正15年の県米の収穫高は「最凶年の大正十(ママ)二年に近い収穫らしい」と、そして11月上旬になると前年に比しそれは「二割二分二十五萬石の夥しい減少となり」そうだという予想がそれぞれ大正15年9月26日付、同年11月9日付『岩手日報』で報じられていた。
 よって、巷間伝えられているような賢治であったならばこんな時には上京などせずに故郷花巻に居て、地元稗貫郡内のみならず、未曾有の旱害罹災で多くの農家が苦悶している隣の紫波郡内の農民救援のためなどに、それこそ「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」、徹宵東奔西走の日々を送っていたであろうことが充分に考えられる。しかしながら少し調べてみただけでも実際はそうではなかったことが直ぐ判る。なぜならば、12月中はほぼまるまる賢治は滞京していたからだ。しかも、上京以前も賢治はこの時の「ヒデリ」にあまり関心は示していなかったようだが、上京中もそのことをあまり気に掛けていなかったということが、当時の書簡等から導けるからだ。するとここで、次のような
  〈仮説3〉大正15年の賢治は「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たとは言えない。
が定立できることに気付くし、ここまで述べてきたことの中にはこれに対する明らかな反例はない。
 では、大正15年の岩手県産米の実際の作柄はどうだったのだろうか。そこで、『岩手県災異年表』(昭和13年)から、不作と凶作年の場合の稗貫郡及びその周辺郡の、当該年の前後五ヶ年の米の反当収量に対する偏差量を拾って表にしてみると、下掲のような《表4 当時の米の反当収量》となった。よって同表より、赤石村の属する紫波郡の大正15年の旱害は相当深刻なものだったということが改めて判るし、稗貫郡でも確かに米の出来が悪かったということもまた同様に判る。当時の平均反当収量は二石弱(〈註四〉)であったからだ。
 そこで、「下根子桜」に移り住んだ最初の年のこの大旱害に際して賢治はどのように対応し、どんな救援活動をしたのだろうかと思って、「旧校本年譜」や『新校本年譜』等を始めとして他の賢治関連資料も更に詳しく渉猟してみたのだが、そのことを示すものを私は何一つ見つけられなかった。逆に見つかったのは、羅須地人協会員でもあった伊藤克己の次のような証言だった。
 その頃の冬は樂しい集りの日が多かつた。近村の篤農家や、農學校を卒業して實際家で農業をやつてゐる眞面目な人々などが、木炭を擔いできたり、餅を背負つてきたりしてお互先生に迷惑をかけまいとして、熱心に遠い雪道を歩いてきたものである。短い期間ではあつたが、そこで農民講座が開講されたのである。…(筆者略)…
 そしてその前に私達にも悲しい日がきてゐた。それはこのオーケストラを一時解散すると云ふ事だつた。私達ヴアイオリンは先生の斡旋で木村淸さんの指導を受ける事になり、フリユートとクラリネツトは當分獨習すると云ふ事だつた。そして集りも不定期になつた。それは或日の岩手日報の三面の中段に寫眞入りで宮澤賢治が地方の靑年を集めて農業を指導して居ると報じたからである。その當時は思想問題はやかましかつたのである。           
〈『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)395p~〉
 ところで、伊藤が語るところの「その頃の冬は樂しい集りの日が多かつた」とは、何年のいつ頃のことだろうか。まずは、「悲しい日がきてゐた」というその日とは昭和2年2月1日であることが知られているから、「樂しい集り」が行われたのは昭和2年の2月1日以降はあり得ない。それ以降の賢治は、農民に対しては肥料設計等の稲作指導しかほぼ行っていなかったと言われているからなおさらにである。
 となれば、「その頃の冬は樂しい集りの日が多かつた」というところの「冬」とは、まずは大正15年12月頃~昭和2年1月末の間となろう。ところが、大正15年12月中の賢治はほぼ滞京していたわけだから、伊藤が「その頃の冬は樂しい集りの日が多かつた」という期間は結局、実質的には昭和2年1月の約1ヶ月間のこととなってしまう。
 したがって、トップ一面を使って隣の紫波郡一帯の大旱害の惨状が大々的に報道されていた昭和2年1月に、賢治と羅須地人協会員は協会の建物の中でしばしば「樂しい集りの日」を持ってはいたが、彼等がこの大旱害の惨状を話し合ったり、こぞって隣の村々に出かけて行って何らかの救援活動を行っていたりしたとはどうも言い難い。それは伊藤等協会員はそのようなことに関しては一言も触れていないからだ。しかも、もし当時の賢治がそのために徹宵東奔西走していたとすれば、それは農聖とも云われている賢治にまさにふさわしい献身だから、当然そのような献身は多くの人々が褒め称え語り継いでいたはずだがいくら探してみても、残念ながらそのような証言等を誰一人として残していないからだ。のみならず、「下根子桜」に移り住んでからの一年間の間に、この時の大旱害について詠んだ一篇の詩も見つからない(昭和2年4月1日付〔一昨年四月来たときは〕の中に、「そしてその夏あの恐ろしい旱魃が来た」が唯一見つかるが、「一昨年」とは大正15年ではなくて14年だ。しかも同年の岩手は豊作だったので「恐ろしい旱魃」とは言えない)。
 つまるところ、大正15年の「ヒデリ」による、とりわけ隣の紫波郡内の赤石村・不動村・志和村等の未曾有の大旱害に対して、賢治が救援活動等をしたという証言も、その大旱害の惨状を気に懸けていたということを示唆する詩篇も何一つ見つからないということであり、先ほど(47p)の
  〈仮説3〉大正15年の賢治は「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たとは言えない。
は、米の作柄や「樂しい集りの日」の実態等を知ったことによってさらにその妥当性が裏付けられた。そしてもちろん、この仮説に対する反例は今のところ見つかっていないから、検証ができたということになり、〈仮説3〉は今後この反例が見つからない限りはという限定付きの「真実」となる。
 どうやら、この当時の賢治も羅須地人協会もそしてその活動も、地域社会とはあまりリンクしていなかったという、思いもよらぬ結論を導かざるを得なくなってしまった(当然、この時の無関心と社会性の欠如は後々賢治の良心を苛む大きな要因になっていき、その慚愧が〔雨ニモマケズ〕に繋がっていったのではなかろうかということを、私は今考えている)。
 ところで、「羅須地人協会時代」にヒデリの夏だった年は大正15年だけではなく、周知のように昭和3年もそうであり、同年の夏の花巻一帯では約40日間ほども雨が一切降らなかったと云われている。そしてこのことは次のようなことなどから裏付けられる。
 例えば、昭和3年8月25日付『岩手日報』には次のような記事、
 四十日以上打ち續く日照りに陸稻始め野菜類全滅!! 大根などは全然發芽しない 悲慘な農村
續く日照に盛岡を中心とする一帶の地方の陸稻は生育殆と停止の狀態にあり兩三日中に雨を見なければ陸稻作は全滅するものと縣農事試験場に於いて観測してゐる。
が載っている。また、昭和3年の『阿部晁の家政日誌』には、
・昭和3年7月5日:本日ヨリ暫ク天気快晴
・同年9月18日:七月十八日以来六十日有二日間殆ント雨ラシキ雨フラズ土用後温度却ッテ下ラズ
 今朝初メテノ雨今度ハ晴レ相モナシ
 稲作モ畑作モ大弱リ
という記述があり、さらには、『宮野目小史』(花巻市宮野目地域振興協議会)20pには、
   昭和3年 7月18日~8月25日(39日間) 晴
という記録がある。
 よって、昭和3年は7月半ば頃から約40日以上もの間、少なくとも稗貫郡ではヒデリが続いたことはまず間違いだろうし、盛岡だけでなく、花巻一帯も同様に「陸稻始め野菜類全滅!!」であったであろうことはほぼ自明だ。そしてもちろん、これだけ雨が降らなけば水稲が心配だと思う人もあるかもしれないが、この時期のそれであれば、田植時及びその直後の水不足とは違って水稲の被害はあまり心配なかったであろう。それどころか逆に、この地方の言い伝えにあるように「日照りに不作なし」ということで農民はひとまず安堵し、稔りの秋を楽しみにしていたと言えよう(大正15年の大干魃被害というのはこの年と違って、梅雨時に、本来ならば降るはずの雨が全く降らなかったから田植ができなかったことや、田植をしたものの田圃に用水が確保できなくて干からびてしまったことによるものだ)。そして実際に、この昭和3年にヒデリによって稗貫郡の水稲が不作だったという資料も証言も共に見つからない。
 ちなみに昭和3年の稗貫郡内の米の予想収穫高については、同年10月3日付『岩手日報』に、
     県の第一回予想収穫高
   稗貫郡 作付け反別 収穫予想高  前年比較
   水稲  6,326町   113,267石   2,130石
   陸稲   195町    1,117石  △1,169石
   合計  6,521町   114,384石    961石(0.8%)
というデータが載っている。懸念されていたように陸稲の収穫予想高は前年比較1,169石減であり、予想収穫高は前年の半分以下ということで確かに激減しているが、当時の稗貫郡の稲作における陸稲の作付け面積はほんの僅かにすぎない。具体的には、195÷6,521=0.03=3% だから、同郡内の陸稲作付け割合は稲作全体のわずか3%にしか過ぎないこともわかるし、水稲と陸稲をトータルすればその予想収穫高は前年の昭和2年よりも961石(0.8%)の増だった。したがって、水稲と陸稲を併せて考えれば稗貫郡内の米は不作だったというわけではやはりなさそうだ。一方県全体としては、同紙によれば次の通りだった。
    昭和3年は、水稲と陸稲を合わせて、前年比35,951石の減収予想である。
 それから、この年に賢治は「イモチ病になった稲の対策に走りまわり」と時に云われているようだが、この病気は「低温・多湿・日照不足」の場合に蔓延するものであり、仮に稲熱病に罹った水稲があったにしても、この年の夏の稗貫郡内は約40日間ほども雨が一切降らなかったということだから「多湿・日照不足」であったとは言えないので、稲熱病が蔓延する条件は成立しない。したがって、理屈としては昭和3年に稲熱病による不作ということは稗貫郡では起こり得ないはずだ。すると、このことと先の新聞報道から、
 昭和3年の夏に稗貫郡は確かにヒデリではあったが、米の作柄は平年作以上であった。
と推測できる。よってこの推測と、先の検証された〈仮説3〉(47p)から、次のような新たな仮説が定立できるということに気付く。
〈仮説4〉「羅須地人協会時代」の賢治が「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たとは言えない。
 では、実際には米の出来はどうであったのであろうか。昭和4年1月23日付『岩手日報』によれば、
     昭和3年岩手県米実収高
   水稲の反当収量は1.988石で前年比3.6%増収
   陸稲の反当収量は0.984石  〃 13.7(?)%減収
   全体の反当収量は1.970石  〃  3.3%増収
ということであった。さらには、
   岩手県産米の実収高は、最近五ヶ年平均収穫高(平年作)比 43,474石(4.1%) の増収である。
ということも報じていた。そして、同記事の中には昭和3年の岩手県の天気概況等について、
 …七月中旬に及び天候一時囘復し氣溫漸次上昂して生育著しく促進し、分けつ數も相當多きを加へたり、然るに七月下旬に至り気溫再び低下し出穂亦約一週間を遅延したり殊に二百十日以後の天候は稍降雨量多く縣南地方一般に稻熱病発生し被害甚大なるが如くに豫想せられたものの登熟期に入り、天候全く囘復して間もなく稻熱病も終息し結實□(?)合に完全に行はれ豫想以上の収穫を見又陸稻は生育期に於いて縣下各地に旱害をこほむり、作況一般に不良にして作附段別の增加に反し前述の如き著しき減収を見るに至つた、今郡市別に米實収成績を示せば左の如し
岩手県米實収穫高
前五ヶ年平均  一、〇五二、九四〇石
昭和二年   一、〇六一、五七八石
大正十五年     九四七、四七二石
ということも報じられていた(なお、このデータから昭和2年も平年作以上だったことも分かる)。
 ということは、「縣南地方一般に稻熱病発生し被害甚大なるが如くに豫想せられたものの登熟期に入り、天候全く囘復して間もなく稻熱病も終息し…豫想以上の収穫を見」と記事にあるので、まず「豫想以上の収穫を見」たということが、そしてもう一つ、稗貫郡は「縣南」に位置していることから、「豫想せられた」稲熱病は稗貫郡でも猖獗しなかったということもわかった。よってこれらの二つのことから、先に私は、
 この年の夏の稗貫地方は雨の日が殆どなかったわけだから「多湿・日照不足」であったとは言えず、稲熱病が蔓延する条件が成立しないから、理屈としては昭和3年の稲熱病による不作ということは稗貫地方では起こり得ない。
というようなことを推測したが、その推測どおりだったということが導かれる。当然、この年に賢治が「イモチ病になった稲の対策に走りまわり」というようなことは現実的にはあり得なかったとなる。
 なお、前掲の昭和4年1月23日付『岩手日報』は、「郡市別に米實収成績を示せば左の如し」と述べておきながら、実はその記載がなかったので残念ながら稗貫郡の詳細はわからなかった。
 とはいえ、前述したように、昭和3年の岩手県全体としての予想収穫高は当初、前年比35,951石もの減だったのだが、実際の収穫高は「減収」の予想とは逆に、何と
 昭和3年の岩手県産米の実収高は平年作比 4.1%増(反収でも3.3%増、作柄はやや良)。
もの「増収」で、作柄はやや良、平年作以上だった。となれば、稗貫郡以外がとてつもなく予想収穫高よりも増えたということは考えられない(実際、そのような報道も見つからない)から、まず間違いなく稗貫郡も予想より増えたであろう。仮に百歩譲ったとしても、前掲の「昭和3年の稗貫郡の米の予想収穫高は前年比961石増(52p)」と「昭和2年も平年作以上だった(54p)」 ということから、少なくとも前掲の推測(53p)、
 昭和3年の夏に稗貫郡は確かにヒデリではあったが、米の作柄は平年作以上であった。
の「平年作以上」を下回ることはないと推断できるから、このことは単なる推測ではなくて、事実だったと断定しても構わないだろう。
 おのずから、
 客観的には、昭和3年の場合、稲作の心配や米の出来を心配して賢治が「ヒデリノトキニ涙ヲ流」す必然性はなかった。
ということになる。同年の稗貫地方では稲熱病は猖獗しなかったし、不作でもなかったからである。よって、少なくとも客観的には、昭和3年の賢治が「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たというようなことはなかったはずだ、ということがはっきりした。さりながら、稲作指導者という立場から賢治が同年の「ヒデリ」を心配して「涙ヲ流シ」たということはあり得るので、次はそのことを考察してみたい。

 さて、昭和3年の「ヒデリノトキ」は流石に賢治も、今度こそは田植時のヒデリをとても心配していたはずだ。それは、大正15年の大旱害の際に賢治は何一つ救援活動等をしていなかったと言えるからその悔いがあったであろうことと、同年の大旱害被害の最大の原因の一つに田植時に用水を確保できなかったことがあったからである。
 ところが昭和3年の田植時に賢治は何をしていたのかというと、周知のように、
六月七日(木) 水産物調査、浮世絵展鑑賞、伊豆大島行きの目的をもって花巻駅発。仙台にて「東北産業博覧会」見学。東北大学見学、古本屋で浮世絵を漁る。書簡(235)。
六月八日(金) 早朝水戸着。偕楽園見学。夕方東京着、上州屋に宿泊。書簡(236)。
六月一〇日(日) <高架線>
六月一二日(火) 書簡(237)。この日大島へ出発、 伊藤七雄宅訪問?
六月一三日(水) <三原三部>
六月一四日(木) <三原三部> 東京へ戻る。
六月一五日(金) <浮世絵展覧会印象> メモ「図書館、浮展、新演」。 
六月一六日(土) 書簡(238)。メモ「図書館、浮展、築地」「図、浮、P」。  
六月一七日(日) メモ「図書館」「築」。
六月一八日(月) メモ「図書館」「新、」。
六月一九日(火) <神田の夜> メモ「農商ム省」「新、」
六月二〇日(水) メモ「農商ム省」「市、」
六月二一日(木) メモ「図書館、浮展」「図、浮、本、明」。
六月二四日(日) 帰花。   〈『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)補遺・資料 年譜篇』(筑摩書房)〉
ということである。よってこの年譜に従うと、この時期のヒデリに対して、
・大正15年の時とは違って、今年はしっかりと田植はできるのだろうか。
・田植はしたものの今年は雨がしっかりと降ってくれるだろうか、はたまた、用水は確保できるだろうか。
などということを賢治が真剣に心配していた、とはどうも言い切れない。なにしろ、農繁期のその時期に賢治は故郷にはしばらくいなかったからである。
 それでは賢治がしばしの滞京を終えて帰花した直後はどうであったであろうか。同じく『新校本年譜』によれば、
六月二四日(日) 帰花。
六月下旬〔推定〕〈〔澱った光の澱の底〕〉
七月三日(火) 菊池信一あて(書簡239)に、「約三週間ほど先進地の技術者たちといっしょに働いて来ました。」とあり、また「約束の村をまはる方は却って七月下旬乃至八月中旬すっかり稲の形が定まってからのことにして」という。…(筆者略)…村をまはる方は七月下旬その通り行われる。
七月初め 伊藤七雄にあてた礼状の下書四通(書簡240と下書㈡~㈣)
七月五日(木) あて先不明の書簡下書(書簡241)
七月一八日(水) 農学校へ斑点の出た稲を持参し、ゴマハガレ病でないか調べるよう、堀籠へ依頼。イモチ病とわかる。
七月二〇日(金) <停留所にてスヰトンを喫す>
七月二四日(火) <穂孕期>
七月 平来作の記述によると、「又或る七月の大暑当時非常に稲熱病が発生した為、先生を招き色々と駆除予防法などを教へられた事がある。…(筆者略)…」とあるが、これは七月一八日の項に述べたことやこの七、八月旱魃四〇日以上に及んだことと併せ、この年のことと推定する。
とある。そこで私は、2週間以上も農繁期の故郷を留守にしていた賢治はその長期の不在を悔い、帰花すると直ぐに、
    〔澱った光の澱の底〕
   澱った光の澱の底
   夜ひるのあの騒音のなかから
   わたくしはいますきとほってうすらつめたく
   シトリンの天と浅黄の山と
   青々つづく稲の氈
   わが岩手県へ帰って来た
…(筆者略)…
   眠りのたらぬこの二週間
   瘠せて青ざめて眼ばかりひかって帰って来たが
   さああしたからわたくしは
   あの古い麦わらの帽子をかぶり
   黄いろな木綿の寛衣をつけて
   南は二子の沖積地から
   飯豊 太田 湯口 宮の目
   湯本と好地 八幡 矢沢とまはって行かう
   ぬるんでコロイダルな稲田の水に手をあらひ
   しかもつめたい秋の分子をふくんだ風に
   稲葉といっしょに夕方の汗を吹かせながら
   みんなのところをつぎつぎあしたはまはって行かう 〈『校本宮澤賢治全集第六巻』(筑摩書房)283p~〉
と〔澱った光の澱の底〕に詠んだのだと推測できたから、帰花後の賢治はさぞかし稲作指導に意気込んでいたであろうとばかり思っていた。というのは、田植やそれが終わったこの時期はあの賢治ならばあちこち飛び回って稲作指導をしていたであろう時期であり、一方で肥料設計をしてもらった農民達は特にその巡回指導を首を長くして待っていた時期であるはずだからでもある。それ故にこそ、賢治は〔澱った光の澱の底〕を昭和3年6月下旬に詠んだという『新校本年譜』の推定は妥当だと以前の私は納得していた。
 ところが、伊藤七雄に宛てたというこの年の〔七月初め〕伊藤七雄あて書簡(240)下書㈡に、
 …こちらへは二十四日に帰りましたが、畑も庭も草ぼうぼうでおまけに少し眼を患ったりいたしましてしばらくぼんやりして居りました。いまはやっと勢いもつきあちこちはねあるいて居ります。
<『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡・校異篇』(筑摩書房)>
ということが書かれているということをある時知った。それまでは、当時眼を患っていたと賢治が言っていたことは知っていたのだが、「しばらくぼんやりして居りました」ということを全く知らずにいたので吃驚した。そしてもしそうであったとするならば、この下書の「しばらく」とか「やっと」という表現からしても、賢治が帰花直後の24日や25日にこの〔澱った光の澱の底〕を詠んだということはなかったと言えそうだ。このような「勢い」を帰花直後の賢治は持ち合わせていなかったであろうと判断できるからだ。これらの表現からは、帰花後の数日は何もせぬままに賢治ぼーっと過ごしていたという蓋然性が高い。しかも7月3日付書簡(239)には、
 約束の村をまはる方は却って七月下旬乃至八月中旬すっかり稲の形が定まってからのことにして
としたためていることから、約束でさえも後回しにしていることが知れるので、7月初め頃もまだ賢治のやる気はあまり起きていなかったと言えそうだから、賢治は「しばらくぼんやりして居りました」ということがこのことからも裏付けられそうだ。
 それはまた、賢治は、
   さああしたからわたくしは
   あの古い麦わらの帽子をかぶり
   黄いろな木綿の寛衣をつけて
   南は二子の沖積地から
   飯豊 太田 湯口 宮の目
   湯本と好地 八幡 矢沢とまはって行かう
        …(筆者略)…
   みんなのところをつぎつぎあしたはまはって行かう
と詠んではいるものの、「みんなのところをつぎつぎあしたはまはって行かう」ということであれば、ざっと見積もってみても、賢治にとってはかなり無茶な行程となってしまうことからも裏付けられそうだ。
 そこでそのことを次に検証してみる。まずはそのために、この行程を当時の『巖手縣全圖』(大正7年、東京雄文館藏版)を用いて、地図上で巡回地点間の直線距離を測ってみると、おおよそ、 
「下根子桜」→8㎞→二子→6㎞→飯豊→6㎞→太田→4㎞→湯口→8㎞→宮野目→6㎞→湯本→
8㎞→好地→2㎞→八幡→8㎞→矢沢→7㎞→「下根子桜」
となる。つまり、
   全行程最短距離=(8+6+6+4+8+6+8+2+8+7)㎞=63㎞
となる。
 では、この全行程を賢治ならば何時間ほどで廻り切れるだろうか。一般には1時間で歩ける距離は4㎞が標準だろうが、賢治は健脚だったと云われているようだから仮に1時間に5㎞歩けるとしても、
    最短歩行時間=63÷5=12.6時間
となり、歩くだけでも半日以上はかかる(賢治は自転車には乗らなかったし乗れなかったと聞くから、歩くしかなかったはずだ)。しかも、これはあくまでも移動に要する最短時間である。道は曲がりくねっているだろうし、橋のない川を渡る訳にもいかなかっただろう。その上に、稲作指導のための時間を加味すればとても「みんなのところをつぎつぎあしたはまはって」しまえそうにはない。
 まして、前掲の詩〔澱った光の澱の底〕において次のように、
    眠りのたらぬこの二週間
    瘠せて青ざめて眼ばかりひかって帰って来た
と詠んでいる賢治には、このような行程を一日で廻り切るのはちょっと無理であろうことはほぼ自明である。だからこの〔澱った光の澱の底〕はあくまでも詩であり、賢治がその通りに行動したと安易に還元はできないし、その通りにはもともと行動することがまずできなかったということである。
 最後に、同年の8月の賢治の営為を『新校本年譜』によって見てみれば、
八月八日(水) 佐々木喜善あて(書簡242)
八月一〇日(金) 「文語詩」ノートに、「八月疾ム」とあり。〔下根子桜から豊沢町の実家に戻り病臥〕
八月中旬 菊池武雄が藤原嘉藤治の案内で下根子桜の別宅を訪れる(賢治不在)。
ということだから、8月10日以降は賢治が稲作指導をしようにも体がそれを許さなくなってしまったということになってしまう。
 さて、稲作指導者という立場から賢治が昭和3年のヒデリを心配して「涙ヲ流シ」たということはあり得るかということでここまで考察してきた。たしかに、この年の夏は稗貫郡でもヒデリが続き、約40日以上もそれが続いていたのだが、賢治は農繁期である6月にも拘わらず、上京・滞京していてしばらく故郷を留守にしていたことや、帰花後は体調不良でしばらくぼんやりしていたこと、そして8月10日以降は実家に戻って病臥していたことなどからして、昭和3年の夏のヒデリやそれによる農民の苦労を賢治がそれほど気に掛けたり心配したりして奮闘していたとはとても思えない。言い換えれば、稲作指導者という立場から、賢治が昭和3年のヒデリを心配して農民のためにいろいろと手立てを講じたのだが何の役にも立たなかった、ということなどで「涙ヲ流シ」たというようなことはあったとは言えない。
 だからもし、この年に賢治が仮に「涙ヲ流シ」たとすればそれは稲作指導者という立場からではなくて、自分自身の無為無策に対してだったとなるだろう。そして実際、当時の賢治は稲作指導を殆ど放棄していたから、己のその情けなさに対して「涙ヲ流シ」たということは充分にあり得る。しかしそれでは、その「涙」は件の「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」の「ナミダ」とは性格が違ってしまい、単に己の不甲斐なさに対しての「涙」だったとなってしまう。
 ということで、稲作指導者としての立場から賢治が昭和3年の約40日以上もの「ヒデリノトキニナミダヲナガシ」たことなどはなかったとならざるを得ないので、結局、客観的にも稲作指導者としても、
   昭和3年の賢治が「ヒデリノトキハミダヲナガシ」たとは言えない。
という結果になってしまった。つまり、大正15年のヒデリの場合と同様な賢治がそこに居たということになるから、この結果と先の検証された〈仮説3〉(47p)とを併せることによって、
  〈仮説4〉「羅須地人協会時代」の賢治が「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たとは言えない。
が検証されたということになる。
 つまり、「羅須地人協会時代」の大正15年と昭和3年の稗貫郡等はヒデリの夏だったのだが、本当のところは、両年共に「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」賢治であったということにならざるを得ない。
(拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』を参照されたい)
 ㈣ 誤認「昭和二年は非常な寒い氣候…ひどい凶作」
 この節では、石井洋二郎氏が懸念している(詳しくは後程、〝3.「賢治研究」の更なる発展のために〟において論ずる)ように、検証もせず、まして裏付けさえも取らずに資料を使ってしまった場合に生じる怖さの実例について述べる。端的に言えば、福井規矩三の証言「昭和二年は非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であった」と雖も、無条件でそれは事実であるという保証はもちろんないのだから、検証も裏付けもないままに安易に典拠とすると間違った結果を招いてしまうことがある、という実例についてだ。

 不思議なことに、「昭和2年の賢治と稲作」に関しての論考等において、多くの賢治研究家等がその典拠等も明示せずに次のようなことを断定的な表現を用いてそれぞれ、
(a) その上、これもまた賢治が全く予期しなかったその年(昭和2年:筆者註)の冷夏が、東北地方に大きな被害を与えた。         〈『宮沢賢治 その独自性と時代性』(西田良子著、翰林書房)152p〉
 私たちにはすぐに、一九二七年の冷温多雨の夏と一九二八年の四〇日の旱魃で、陸稲や野菜類が殆ど全滅した夏の賢治の行動がうかんでくる。                    〈同、173p〉
(b) 昭和二年は、五月に旱魃や低温が続き、六月は日照不足や大雨に祟られ未曾有の大凶作となった。この悲惨を目の当たりにした賢治は、草花のことなど忘れたかのように水田の肥料設計を指導するため農村巡りを始める。          〈『イーハトーヴの植物学』(伊藤光弥著、洋々社)79p〉
(c) 一九二七(昭和二)年は、多雨冷温の天候不順の夏だった。   
〈『 宮沢賢治 第6号』(洋々社、1986年)78p〉
(d) (昭和2年の)五月から肥料設計・稲作指導。夏は天候不順のため東奔西走する。
〈『新編銀河鉄道の夜』(宮沢賢治著、新潮文庫)所収の年譜〉
(e) (昭和2年は)田植えの頃から、天候不順の夏にかけて、稲作指導や肥料設計は多忙をきわめた。
  〈『新潮日本文学アルバム 宮沢賢治』(新潮社)77p〉
(f) 一九二六年春、あれほど大きな意気込みで始めた農村改革運動であったが…(筆者略)…
 中でも、一九二七・八年と続いた、天候不順による大きな稲の被害は、精神的にも経済的にも更にまた肉体的にも、彼を打ちのめした。         〈『宮澤賢治論』(西田良子著、桜楓社)89p〉
(g) 昭和二年(1927年)は未曽(ママ)有の凶作に見舞われた。詩「ダリア品評会席上」には「西暦一千九百二十七年に於る/当イーハトーボ地方の夏は…(筆者略)…」とある。〈帝京平成大学石井竹夫准教授の論文〉
というような事を述べいる。つまり、「昭和二年は、多雨冷温の天候不順の夏だった」とか「未曾有の凶作だった」という断定にしばしば遭遇する。
 ところが、いわゆる『阿部晁の家政日誌』(巻末「資料一「羅須地人協会時代」の花巻の天候(稲作期間)」参照)によって当時の花巻の天気や気温を知ることができることに気付いた私は、そこに記載されている天候に基づけばこれらの断定〝(a)~(g)〟はおかしいと直感した。さりながら、このような断定に限ってその典拠を明らかにしていない。それゆえ、私はその「典拠」を推測するしかないのだが、『新校本年譜』には、
(昭和2年)七月一九日(火) 盛岡測候所福井規矩三へ礼状を出す(書簡231)。福井規矩三の「測候所と宮沢君」によると、次のようである。
「昭和二年は非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であった」
となっているし、確かに福井は「測候所と宮澤君」において、
 昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた。そのときもあの君はやつて來られていろいろと話しまた調べて歸られた。   〈『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)317p〉
と述べているから、これか、この引例が「典拠」と推測されるし、かつ「典拠」と言えるはず。それは、私が調べた限り、これ以外に前掲の「断定」の拠り所になるようなものは他に何一つ見当たらないからだ。しかも、福井は当時盛岡測候所長だったから、この、いわば証言を皆端から信じ切ってしまったのだろう。
 しかし残念ながら、先の『阿部晁の家政日誌』に記載されている花巻の天候みならず、それこそ福井自身が発行した『岩手県気象年報(〈註五〉)』(岩手県盛岡・宮古測候所)や『岩手日報』の県米実収高の記事(〈註六〉)、そして「昭和2年稻作期間豊凶氣溫(〈註七〉)」(盛岡測候所発表、昭和2年9月7日付『岩手日報』掲載)等によって、「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた」という事実は全くなかったということを容易に知ることができる。つまり、同測候所長のこの証言は事実誤認だったのだ。
 おのずから、『新校本年譜』はこの福井の証言の検証もせず裏付けも取っていなかったということになるし、先の断定表現の引用文〝(a)~(g)〟も同様だったということになってしまうだろう。
 畢竟、「羅須地人協会時代」である昭和2年に、賢治が「サムサノナツハオロオロアル」こうと思ってもこれは土台無理な話であり、本当はそんなことは実はできなかったという結論にならざるを得ない。
 よって、「羅須地人協会時代」の賢治が、大正15年及び昭和3年の「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たとは言えないことが先の〝㈢ 〟で解ったし、今回の〝㈣〟では、昭和2年の賢治が「サムサノナツハオロオロアル」こうと思ってもこれは土台無理な話であったということも解ったので、結局、同時代の賢治が「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たとか「サムサノナツハオロオロアルキ」ということはそれぞれ、そうしたとは言えないし、できなかったことであったということになってしまった。
 なお、農学博士卜藏建治氏の『ヤマセと冷害』によれば、大正2年(賢治17才)の大冷害以降しばらく「気温的稲作安定期」が続き、賢治が盛岡中学を卒業してから「下根子桜」撤退までの間に、稗貫郡が冷害だった年は全くなかったということであり、同博士は次のように、
 この物語(筆者註:「グスコーブドリの伝記」)が世に出るキッカケとなった一九三一年(昭和六年)までの一八年間は冷害らしいもの「サムサノナツハオロオロアルキ」はなく気温の面ではかなり安定していた。…(筆者略)…この物語にも挙げたように冷害年の天候の描写が何度かでてくるが、彼が体験した一八九〇年代後半から一九一三年までの冷害頻発期のものや江戸時代からの言い伝えなどを文章にしたものだろう。 
〈『ヤマセと冷害』(ト藏建治著、成山堂書店)15p~〉
と論じている。ただし、昭和六年は確かに岩手県全体ではかなりの冷害だったのだが、稗貫郡はそれどころか実は平年作以上であったことは先に掲げた《表4 当時の米の反当収量》から明らかである。それゆえ、少なくとも盛岡中学卒業後の賢治は身近に冷害を経験したことはなかった、ということになる。
(拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』を参照されたい)
 ㈤ 賢治の稲作指導法の限界と実態
 今から約一年ほど前、私は目から大きな鱗が落ちた。それは、かつての満蒙開拓青少年義勇軍の一人で、現在は滝沢市に住んでいる工藤留義氏(昭和2年生れ)に会うことができて、
   水稲は酸性に耐性がある。
ということを教わった(平成28年9月7日)からだ。
 私はそれまでは、水稲の場合酸性土壌は不適であり、少なくとも中性以上であるべきだとついつい思い込んでいた。そこで慌てて農林水産省のHPによって調べてみたところやはり工藤氏の言うとおりで、
 水稲の場合の耕土の最適なpH値は〝5.5~6.5〟の範囲の値であること、すなわち微酸性~弱酸性である。
ということが分かった。最適な土壌は中性でも、ましてアルカリ性でもなかたのだった。

 振り返ってみれば、今までの私は、
「羅須地人協会時代」の賢治は農民のため、とりわけ貧しい農民たちに対する稲作指導のために風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に病に倒れたが、彼の稗貫の土性や農芸化学に関する知見を生かした稲作指導法によって岩手の農業は大いに発展した。………①
と高く評価していた。
 例えば同時代の賢治は、食味もよく冷害にも稲熱病にも強いという陸羽一三二号を近隣の農家のみならず、岩手に広めたということで高く評価されていると私は思っていた。ところが、『水沢市史 四』(水沢市史編纂委員会編) 等によれば、同品種は大正13年には既に岩手県の奨励品種となっていたとある。また、堀尾青史が花巻農会を訪ねた際、
 賢治のやったことは、当時農会でもやってましたよ。陸羽一三二号だってとっくにやってました。何も特別なことはないですよ。          〈『年譜宮澤賢治伝』(堀尾青史著、中公文庫)338p~〉
と職員から言われたという。したがって、同品種の普及は賢治一人の力によってだったとは言えないだろう。おのずから、〝①〟のような高評価はできないので、どうやら私は今まで大分誤解していたようだ。
 あるいはまた、同時代の賢治は従来の人糞尿や厩肥等が使われる施肥法に代えて、化学肥料を推奨したことにより岩手の農業の発展に頗る寄与したと私は思っていた。ところが話は逆で、賢治の稲作経験は花巻農学校の先生になってからのものであり、豊富な実体験があった上での稲作指導というわけではなかったのだから、経験豊富な農民たちに対して賢治が指導できることは限定的なものであり、食味もよく冷害にも稲熱病にも強いといわれて普及し始めていた陸羽一三二号を推奨することだったとなるだろう。ただし同品種は金肥(化学肥料)に対応(〈註八〉)して開発された品種だったからそれには金肥が欠かせないので肥料設計までしてやる、というのが賢治の稲作指導法だったということにならざるを得ない。したがって、お金がなければ購入できない金肥を必要とするこの農法は、当時農家の大半を占めていた貧しい小作農や自小作農(『岩手県農業史』(森嘉兵衛監修、岩手県)の297pによれば、当時小作をしていた農家の割合は岩手では6割前後もあった)にとってはもともとふさわしいものではなかった(〈註九〉)ということは当然の帰結である。
 ちなみに、羅須地人協会の建物の直ぐ西隣の、協会員でもあった伊藤忠一は、
 私も肥料設計をしてもらったけれども、なにせその頃は化学肥料が高くて、わたしどもにはとても手が出なかった。                    〈『私の賢治散歩 下巻』(菊池忠二著)35p〉
と述懐している。つまり、賢治から金肥を施用すれば水稲の収量は増えると教わっても、大半の農家は金銭的な余裕がなかったので肥料が容易には買えないというのが実態だったと言えるだろう。まして、金肥を施用して多少の増収があったところで、その当時の小作料は五割強(『復刻「濁酒に関する調査(第一報」)』(センダート賢治の会)の113pによれば、普通収穫田の岩手県の小作料は大正10年の場合、54%)もあったから、小作をしている零細農家としてはそれほど意欲が湧くはずもない。それもあってか、「当時このあたりで陸羽一三二号は広く植えられた訳ではなく、物好きな人が植えたようだ」と、賢治の教え子である平來作の子息國友氏が証言していた(平成23年10月15日、平國友氏宅で聞き取り)が、宜なるかなだ。
 つまるところ、「羅須地人協会時代」に如何に賢治の熱心な指導があったとしても、陸羽一三二号を推奨する稲作指導法は、貧しかった大半の農家にとってふさわしいものではなかった。よって、賢治は化学肥料を推奨したことにより岩手の農業の発展に頗る寄与した、ということも私の誤解だったようだ。
 また、賢治の稲作指導で巷間評価されているものに石灰施用の推奨もあると思う。実際、彼の肥料設計書には「石灰岩抹」の項がある。そしてそれは、「岩手の酸性土壌を中和させるために石灰が必要」というのがその施用の理論であったと言えよう。それ故にであろう、賢治から指導を受けた協会員の高橋光一は、
「いまに磐になるぞ。」          〈『宮澤賢治研究』(草野心平編、筑摩書房、昭和44)285p〉
と呆れられる程の石灰を撒いたことがあった、と追想している。すると気になるのが本節の冒頭(69p)で述べた、水稲にとって最適な土壌は中性でも、ましてアルカリ性でもなく、弱酸性~微酸性(pH5.5~6.5)であるということである。
 と言うのは、私は地元花巻に住んでいるので、「賢治の言うとおりにやったならば稲が皆倒れてしまった、と語っている人も少なくない」ということを仄聞していたから、もしかするとそれは石灰のやり過ぎが原因の一つだったのではなかろうかとつい疑うようになってしまったからだ。つまり、高橋のように石灰を撒きすぎて最適なpH値を越えてしまったせいで倒伏してしまったこともあったのではなかろうか、と。ちなみに、「いまに磐になるぞ」と言われるほど撒いたということは、高橋は石灰を撒けば撒くほどよいと認識していたからだと解釈できる。だから逆に、賢治は水稲の最適なpH値を教えていなかったのではとか、はたして適性なpH値を知っていたのかとか、その土壌のpHを測った上で石灰を施用していたのだろうかという疑問が次々に湧いてくる。
 それは、花巻農学校で賢治の同僚でもあった阿部繁が、
 科学とか技術とかいうものは、日進月歩で変わってきますし、宮沢さんも神様でもなし人間ですから、時代と技術を越えることはできません。宮沢賢治の農業というのは、その肥料の設計でも、まちがいもあったし失敗もありました。人間のやることですから、完全でないのがほんとうなのです。
〈『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)82p~〉
という冷静で厳しい評価をしていたからなおさらにだ。もちろん、賢治と雖も時代を超えることはできない(もしかすると、土壌の最適なpHは5.5~6.5であることが当時は未だ知られていなかったかもしれない)。
 実際、今約89才(昭和3年生まれ)だが現役バリバリの篤農家岩渕信男氏(この方を見かけるのは殆どいつでも田圃を見廻っている姿であり、稲作について研究熱心な方である)から、平成29年10月5日、
   水田に石灰を撒くことはかつても、今でもない。また、畑に撒くと土が硬くなるので施用しない。
ということを教わった。つまり、経験豊富なこの篤農家は水田に石灰を施用していなかったのである。したがって、賢治の石灰施用についての高い評価が妥当か否かは、私には判断できなくなってしまった。
 よってここまでの考察によれば、先に述べた従前の私の認識〝①〟(69p)は正しいとは言えず、「貧しい農民たちに対する稲作指導のために風雨の中を徹宵東奔西走し」た賢治であったとは少なくとも断定できないので、どうやら、
 「羅須地人協会時代」の賢治の稲作指導法には始めから限界があり、当時の大半を占めた貧しい農民たちにとってはふさわしいものではなかったので、彼等のために献身できたとは言えない。
ということをそろそろ私は受け容れるべきかなと思い始めた。

 それにしても、私はこれまで同時代の賢治の稲作指導を高く評価してきたのは何故だったのか。それは、巷間流布している「賢治年譜」や賢治像を素直に信じてきたからだ。そして私のかつての賢治像は、まさに谷川徹三が昭和19年9月20日に東京女子大で行った講演で、
 賢治は大正十五年三十一歳の時、それまで勤めていた花巻農学校教諭の職を辞し、町外れの下根子桜という地に自炊をしながら、附近を開墾して半農耕生活を始めたのでありますが、やがてその地方一帯の農家のために数箇所の肥料設計事務所を設け、無料で相談に応じ、手弁当で農村を廻っては、稲作の実地指導をしていたのであります。昭和二年六月までに肥料設計書の枚数は二千枚に達していたそうで、その後もときに断続はありましたけれども、死ぬまで引続いてやつていたのであります。しかもそういう指導に当っては、自らその田畑の土を取って舐め、時に肥料も舐めた。昭和三年肺炎で倒れたのも、気候不順による稲作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走したための風邪がもとだったのでありまして、その農民のための仕事を竟に死の床まで持ちこんだのであります。
〈『宮沢賢治の世界』(谷川徹三著、法政大学出版局、昭和45年)16p~〉
と聴衆に熱く語った、まるで農聖のようなこの賢治像だった。
 しかしその実態は、ここ10年間程の私の検証結果によれば、同時代の賢治は農民たちに対して幾何かの熱心な稲作指導を確かにしたがそれは教え子等の限定された、比較的裕福な農家に対してのものであり、しかも、それ程徹底していたものでもなければ継続的なものでもなかった。まして貧しい農民たちに対してのものではあり得なかった。
 また、このことに関しては私が言うまでもなく、既に10年前(平成19年)に佐々木多喜雄氏が『北農』誌上で、6回に亘った論考『「宮沢賢治小私考―賢治「農聖伝説」考―』において徹底して検証しており、同氏は、
 1926年(大15)4月に羅須地人協会発足以来、農閑期に賢治の専門分野の土壌・肥料関係を中心とした農業講座…(筆者略)…。しかし、集まった人と言えば、主に農学校の教え子と近村の篤農家と言われる一部農民で、地域的には極く限られた人々のみであった。地域の生産協同体から程遠い内容のもので、周りからは趣味同好会と見られたのも当然であった。  〈『北農 第75巻第2号』(北農会2008.4)76p~〉
と評していた。あるいは、賢治には、
 農民へのそして農民からの汎い愛もなく、それ故に、農民の心の深奥に入って行けず、農村そのものにも深く入り込めず、賢治は農村・農民指導者たりえなかったと判断される。 
〈『北農 第75巻第4号』(北農会2008.10)73p〉
と論じていた。私の抱いていたかつての賢治像であったならば猛反発したであろうが、ここ10年間程の私の検証作業を通じて、佐々木氏のこの言説は肯うことがあっても反論できないことを私は知っている。
 さらに同氏は、同論考の最後の方で、
 賢治の「農聖」の呼称は全く根拠のない賢治の伝説化、神格化、神話化の一環からくる結果としての「農聖伝説」であって、賢治は「農聖」とは言えないと結論される。
〈『北農 第76巻第1号』(北農会2009.1)101p〉
と断定していた。同氏の論考は、徹底的に先行研究や資料等を調べ尽くした上での、しかも元北海道立上川農業試験場長でもあるが故に農業の専門家だから、専門的見地から論じているので、その説得力は圧倒的だ。まして、このようなことを冷静かつ客観的に論じた農業の専門家はかつていなかったはずだからなおさらにである。
 したがって、吉本隆明がある座談会で、
 日本の農本主義者というのは、あきらかにそれは、宮沢賢治が農民運動に手をふれかけてそしてへばって止めたという、そんなていどのものじゃなくて、もっと実践的にやったわけですし、また都会の思想的な知識人活動の面で言っても、宮沢賢治のやったことというのはいわば遊びごとみたいなものでしょう。「羅須地人協会」だって、やっては止めでおわってしまったし、彼の自給自足圏の構想というものはすぐアウトになってしまった。その点ではやはり単なる空想家の域を出ていないと言えますね。しかし、その思想圏は、どんな近代知識人よりもいいのです。           〈『現代詩手帖 '63・6』(思潮社)18p〉
と語っているような程度のものが賢治の稲作指導等の実態であったということを、私はそろそろ受け容れる覚悟をせねばならないようだ。
 それは当の賢治自身もしかりで、昭和5年3月10日付伊藤忠一宛書簡(258)における、
根子ではいろいろお世話になりました。
たびたび失礼なことも言ひましたが、殆んどあすこでははじめからおしまひまで病気(こころもからだも)みたいなもので何とも済みませんでした。       〈『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)〉
という記述から、いみじくも「羅須地人協会時代」における賢治の農民に対しての献身の実態が容易に窺えるし、「根子」における賢治の営為がほぼ失敗だったことを賢治は正直に吐露して恥じ、それを悔いて謝っていたのであろうことも窺える。
 するとそこから逆に、「羅須地人協会時代」の賢治は当時農家の大半を占めていた貧しい農家・農民のために徹宵東奔西走していたとは言えそうにないということが示唆される。もしそうしていたならば、これ程までの自嘲的な表現はしなかったであろうからだ。まさに、「宮沢賢治のやったことというのはいわば遊びごとみたいなもの」だったという吉本の先の言説とこの自嘲は見事に符合している。
 そこで私に閃いたことは、だからこそ、昭和6年の11月にあの手帳に書いたいわゆる「雨ニモマケズ」、
  雨ニモマケズ
  風ニモマケズ
  雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
  丈夫ナカラダヲモチ
  慾ハナク
  決シテ瞋ラズ
  イツモシヅカニワラッテヰル
  一日ニ玄米四合ト
  味噌ト少シノ野菜ヲタベ
  アラユルコトヲ
  ジブンヲカンジョウニ入レズニ
  ヨクミキキシワカリ
  ソシテワスレズ
  野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
  小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
  東ニ病気ノコドモアレバ
  行ッテ看病シテヤリ
  西ニツカレタ母アレバ
  行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
  南ニ死ニサウナ人アレバ
  行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
  北ニケンクヮヤソショウガアレバ
  ツマラナイカラヤメロトイヒ
  ヒデリノトキハナミダヲナガシ
  サムサノナツハオロオロアルキ
のここまでは、基本的には賢治とすれば「下根子桜」でできなかったり、はたまたそうしたりしなかったことばかりであり、それゆえ最後に、
  サウイフモノニ
  ワタシハナリタイ  〈共に『校本宮澤賢治全集 資料第五(復元版雨ニモマケズ手帳)』(筑摩書房)〉
と締め括って悔恨し、懺悔して願ったのだということだった。
 ちなみに、「羅須地人協会時代」の賢治が「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たとも言えなければ、はたまた「サムサノナツハオロオロアルキ」をしようと思っても土台無理だったことは前々節〝㈢〟と前節〝㈣〟でそれぞれ既に実証したところである。また、「小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ」については検証するまでもなく直ぐに納得できる(あの「羅須地人協会」の建物がどんなものであったかを思い浮かべればいともたやすく了解できる)。あるいは、「一日ニ玄米四合ト」についてもそうだ。それは、昭和7年6月1日付書簡下書が当時の賢治は玄米食などしていなかったということを端的に教えてくれる(〈註十〉)からだ。そして他の連も、よくよく考えてみると皆そうでなかったり、そうできなかったことばかりだ。それ故にこそ、賢治は「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」と願ったのだと私にはすんなりと了解できた。
 つまり、例えば、「羅須地人協会時代」の賢治は「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たとか「サムサノナツハオロオロアルキ」とかいうことはなかったから、彼はこれらのこのことを悔い、これからは「ヒデリノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハオロオロアルキ」たいと願ってこの連を認めたということになるはずだ、と了解できた。
 するとこれと同じ論理で、先に述べた(70p)ように賢治の稲作指導法はもともと貧しかった大半の農家にとってふさわしいものではなかったのだから、巷間言われているような賢治像からすれば、
「羅須地人協会時代」の賢治は貧しい農民たちのためにあまり献身できなかったからその悔いが残るので、「貧しい農民たちのために献身したい」という内容の連も詠み込まれて然るべきだ。………②
となるはずだが、その連がないという事実は一体何故なのかが私にとっては今までずっと疑問だった。
 ところが、その解答となり得るものが遅まきながら見つかった。それは賢治の場合はまさかこんなことはないだろうということで私は今までは端から除外していたのだが、そこは賢治だからといって特別扱いなどせずに推論すれば必然的に導かれるであろう次のような、
「本統の百姓になります」と教え子等に伝えて農学校を辞めた賢治だが、「羅須地人協会時代」の彼は、当時大半を占めていた貧しい農民たちのために献身しようとあまり思っていなかった。 ………③
という、今までの私であれば口が裂けても言えないような、しかし論理的には導かれる解答だ。そしてこの〝③〟に従えば、賢治には始めから前頁の〝②〟というようなことは埒外のことだったということになり、「雨ニモマケズ」の中にはそのような連が詠み込まれていないことは当然のことだったとなる。
 そして、こう覚悟を決めて受け止めてしまえば、賢治の稲作指導法はもともと貧しかった大半の農家にとってふさわしいものではなかったのだから、〝③〟であったことは何等不思議ではない。しかも、この〝③〟の妥当性を傍証する事実があったことに今頃になって気付く。それは実はとても単純かつ明らかなことであるのだが、「羅須地人協会時代」の賢治が貧しい農民たちと同じような苦労をしながら、主食となる米を自分自身で作ろうとしたかというと、菅谷規矩雄も『宮沢賢治序説』の中で、
 なによりも決定的なことは、二年数カ月に及ぶこの下根子桜での農耕生活のあいだに、ついに宮沢は〈米をつくる〉ことがなかったし、またつくろうとしていないことである。 〈『宮沢賢治序説』(大和書房)99p〉
と指摘しているように、賢治はそうしなかったという事実にだ。
 そして併せて思い出すことは次のことだ。賢治は昭和2年3月8日に松田甚次郎に対して、
 眞人間として生きるのに農業を選ぶことは宜しいが、農民として眞に生くるには、先づ眞の小作人たることだ。小作人となつて粗衣粗食、過勞と更に加はる社會的經濟的壓迫を體驗することが出來たら、必ず人間の真面目が顯現される。            〈『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)4p〉
と熱く「訓へ」たと松田自身が証言しているし、その「訓へ」に従って甚次郎は(父から田圃を借りて)小作人になって、しかも、いわば「賢治精神」を徹底して実践した。ところが当の賢治は「下根子桜」ではそうはせずに、そこでやったことは、そう「訓へ」たということが本当の事であったとするならば、それからは程遠いものであったという事実を、だ。
 ちなみに、同時代の賢治が下根子桜で作ったものは、前出の佐々木多喜雄氏等によれば、
 開墾した畑には、主に洋菜で当時まだ一般的でなく珍しかったチシャ、セロリ、アスパラガス、パセリ、ケール、ラディッシュ、白菜など、果菜ではトマト、メロンであった。庭の花では洋花を中心としたヒヤシンス、グラジオラス、チューリップなどであった。   〈『北農 第75巻第2号』(北農会、平成20年4月)72p〉
という。だから、論理的にはこれが賢治のいうところ「本統の百姓」になることだと言えそうだ。そして、ここには小作人らしい作物は何一つ見つからないから、甚次郎に「訓へ」た「農民として眞に生くるには、先づ眞の小作人たること」、すなわち多くの貧しい農民たちと同じような苦労をして米を自分で作ることを、賢治自身は当初から考えていなかったと言える。延いては、〝③〟だったと言える。そして私のこの解答がもし正解であったとするならば、私は合点がいく。賢治はダブルスタンダードだったのだと。
 したがっていよいよもって、先の吉本の「宮沢賢治が農民運動に手をふれかけてそしてへばって止めた」という賢治評を私は受け容れる覚悟をするしかない。それは下根子桜の宮澤家別宅の隣人で、羅須地人協会員でもあった伊藤忠一も、
 協会で実際にやったことは、それほどのことでもなかったが、賢治さんのあの「構想」だけは全く大したもんだと思う。                   〈『私の賢治散歩 下巻』(菊池忠二著)35p〉
というように、吉本と同様なことを語っていたし、下根子桜の宮澤家別宅で一緒に暮らしていた千葉恭も、
   賢治は泥田に入ってやったというほどのことではなかった。
と語っていた、と恭の三男が言っていた(平成22年12月15日聞き取り)からなおさらにである。
 とは思いつつもしかし、いやこれは私の考え方がどこかで根本的に間違っているせいかもしれない、と逡巡していた。ところが、やはりこれまた佐々木多喜雄氏の次のような鋭い指摘、
「農聖」と讃えられる程の人物であるなら、生前ないし没後に神社にまつられるとか、頌徳碑や顕彰碑などが建立されて、その事蹟をしのび後世に伝えられることなどが、一般的に行われることが多いと考えられる。…(筆者略)…
 一方賢治については、文学作品碑は各地に数多いが、農業の事蹟を記念した神社や祠および頌徳碑などは一つもない。これは、すでにみた様に、後世に残し伝える程の農業上の事蹟が無いことから当然のことと言えよう。           <『北農』第76巻第1号(北農会、平成21年1月1日発行)98p~>
を知ったことによって私は完全にこの逡巡が吹っ切れた。
 確かにそのとおりで、花巻に賢治の顕彰碑の類はない。だがその一方で例えば、田中縫次郎(宮野目地区の養蚕業に多大な貢献をした)の顕彰碑が花巻市宮野目の神社に、花巻出身で『リンゴ博士』とも呼ばれる島善鄰の顕彰碑が花巻市高木に建っている。なおかつ、島の顕彰式典は今年も行われ、それも何と、賢治の誕生日ともされている「8月27日」にであったからなおさらにだった。言い換えれば、これで次の
〈仮説5〉賢治が「羅須地人協会時代」に行った稲作指導はそれほどのものでもなかった。
が実質的に検証されたことに、そして、どうやらこれが本当のところだったのだということに気付く。
 よって、ここ10年間ほどの賢治に関する検証作業を通じて私は、
 「羅須地人協会時代」の賢治が、農繁期の稲作指導のために徹宵東奔西走したということの客観的な裏付け等があまり見つからない。何故なのだろうか、どうも不思議だ。
とずっと疑問に思っていたのだが、この検証された〈仮説5〉によってほぼすんなりと疑問が解消した。

 なお、以上が事の真相であったとしても、だからといって賢治作品の輝きが色褪せるということではもちろん全くない。賢治の多くの作品は相変わらず燦然と輝き続けるだろうし、今後も賢治ほどの作品を書けるような人物はそう簡単には現れないであろうことは私からすればほぼ明らかだ。ただし、今の時代はかつてとは違って賢治作品の素晴らしさは万人のほぼ認めるところなのだから、何も彼がそうでもないのに農聖や聖人・君子に祭り上げておく必要はもはやなかろう。もうそろそろ《創られた賢治から愛すべき本統の賢治に》戻してやることが賢治のためでもあるのではなかろうか。そしてそうすれば、これからの若者たちはもっともっと賢治及び賢治作品に惹かれるようになるのではなかろうか。

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