《コマクサ》(平成27年7月7日、岩手山)
前回、
賢治は大正四年に盛岡高等農林に入学し、恩師関豊太郎から強い影響を受けて石灰岩抹に関心を持ち始めた。爾後、洪積不良土に石灰岩抹を施与することによって、酸えたる土壌の中和に努めようとしていた。
と判断してよさそうだということを知った。ところが、あれっなんか変だぞと違和感を感じた。「石灰岩抹といわぬ日はなかった」という賢治だがあの一連の〔施肥表A〕〔一〕~〔二三〕はそうなっていたかな、とおぼろげな記憶が蘇ったからだ。そこで、この23枚について実際に石灰岩抹等の記載を拾ってみると、下掲のよう表、
《表〔施肥表A〕〔一〕~〔二三〕中の石灰岩抹の記載》
〈『新校本宮澤賢治全集第十四巻 雑纂 本文篇』103p~より〉
となった。 よってやはり、羅須人協会時代の賢治は肥料設計の際にいつでも石灰岩抹を使っていたわけではなかったのだった。これが私の違和感を生んだようだ。
ちなみに、このリストに従えば、石灰岩抹使用例は七件(〔一〕は括弧書きだから除いた)だから、 7÷23≒0.30 ということで、その実態は約三割の割合でしか石灰岩抹を使っていなかったと言える。はてさて、「石灰岩抹といわぬ日はなかった」という賢治だが、実際は石灰岩抹を使わなかったり、使用量もまちまちだったりしたのはなぜだったのだろうか。私はさらに不安が増してきた。
ところがその不安はある意味では、ある程度解消できた。実は、羅須地人協会時代に用いた資料『土壌要務一覧』の中で、賢治は、
耕土ノ反応ハ中性ヲ望ム。洪積台地ハ、殆ド酸性デアル……投稿者略…尤モ水稲陸稲小麦蕎麦ハ酸性ニモ耐ヘル。〈『新校本宮澤賢治全集第十四巻 雑纂 本文篇』(筑摩書房)84p〉………②
と書いていたことも私は知ったからである。なんと、「水稲陸稲小麦蕎麦ハ酸性ニモ耐ヘル」と書いているわけだから、賢治もまた「稲は酸性に耐性がある」と認識していたということになる。よって、稲の場合にはあえて石灰岩抹を施与する必要はないと賢治は判断していたので、「賢治は、石灰岩抹を使わなかったり、使用量もまちまちだったりした」ということは当然あり得ることだと、私なりには納得できたからだ。羅須地人協会時代の賢治の石灰岩抹施用の実際はこうであったのだ、と。
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『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))
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