みちのくの山野草

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「石灰岩抹といわぬ日はなかった」

2024-05-02 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《コマクサ》(平成27年7月7日、岩手山)

 どうも、これでは宮澤賢治は羅須地人協会時代東北採石工場技師時代もそれほど農民のために献身したとは言えなさそうだ。私は、賢治と農業についてどうやら勘違いをしていたのかもしれない。となれば、賢治が農業に関わった時代は花巻農学校勤務時代があるから、一度この時代を振り返ってみることが必要なようだ。

 そもそも農家出身でもなかった賢治はなぜ石灰(石灰岩抹)に興味・関心を持つようになったのだろうか。このことに関しては、森荘已池が、 
 宮沢さんは三十年以上も前に、粒状の石灰岩抹を考えたのです。大学者に近い人で、このへんにざらにある農業指導者ではありません。…筆者略…当時花巻農学校の生徒などは、先生は石灰岩抹と耳にタコがよるほどいうといっていたものです。〈『野の教師 宮沢賢治』(森荘已池著、昭和三十五年十一月)182p~〉
と紹介していた。また、実証的賢治研究家であった菊池忠二氏も「肥料展覧会と石灰工場の技師」という論考において、
 当時の在校生たちは「カラスの鳴かない日はあっても、宮沢先生が石灰岩抹といわぬ日はなかった」と語っており、口の悪い生徒は「また先生の岩抹か」とさえ言うほどだったといわれている。〈『私の賢治散歩 下巻』(菊池忠二著)215p~〉
と述べていたから、花巻農学校に勤めていた頃の賢治は、「石灰岩抹といわぬ日はなかった」という蓋然性が極めて高い。
 また、菊池氏は続けて同論考において、大正十三年五月に行われた修学旅行の「復命書」に賢治は、「(石灰岩抹を)我が荒涼たる洪積不良土に施与し、草地に自らなるクローバーとチモシーの波を作り、耕地に油々漸々たる禾穀を成ぜん」と書いていると紹介し、「石灰岩抹の効果と、その施用についてつよい願望が記されている」、と菊池氏は評していた。そこで同復命書の内容(『新校本宮澤賢治全集第十四巻 雑纂 本文篇』(筑摩書房)66p)を実際に見たところ、私は同氏のこの評に納得させられた。
 一方で、昭和六年三月五日に盛岡高等農林時代の恩師関豊太郎博士から賢治に返信が届き、東北砕石工場の嘱託についての問合せに対して恩師は、
 「引き受けるべからず」を棒線で消し、「小生の宿年の希望が実現しかゝったのを喜びます」と書かれていた。〈『新校本宮澤賢治全集 第十六巻 下 補遺・資料 年譜篇』419p〉
と対応したということは周知のとおりである。したがって、賢治が石灰岩抹に興味・関心を持つようになった下地は、高等農林時代に形成されたのであろう。そしてこのことに関しては、伊藤良治も同様な見方をしている(『宮澤賢治と東北砕石工場の人々』(伊藤良治著、国文社)140p)。
 よってここまでのことなどから、
 賢治は大正四年に盛岡高等農林に入学し、恩師関豊太郎から強い影響を受けて石灰岩抹に関心を持ち始めた。爾後、洪積不良土に石灰岩抹を施与することによって、酸えたる土壌の中和に努めようとしていた。
と判断してよさそうだ。

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