みちのくの山野草

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『山荘の高村光太郎』先生の環境順応

2024-01-25 14:00:00 | 独居自炊の光太郎
〈『山荘の高村光太郎』》(佐藤勝治著、現代社)

 では今回は「第二章 高村先生の思い出」からである。 その最初の項
    先生の環境順応(85p~)
にはこんなことが述べられていた。

 正直で質朴な地方ほど、えらい人といえば、すぐに聖人君子と思って神さまあつかいにする習慣があります。詩人とか美術家という、先生本来の立場を認めて接する人はごくまれで、多くは、「えらい詩人」というのを、「えらい人物」として、人格的にだけ、先生を眺めていた人の方が、この地方では多かったと思います。
 しかも宮沢賢治がすでに神格化されているところへおいでになったものですから、その賢治を世の中に紹介した人とか、その賢治と親交のあった人とか、その賢治の生家と特別の関係がある人とか、そういう方面から先生を知っていったことが、なおさら先生を賢治と同格――といいますか、似たような方だと思わせたのであります。
 この地方では、賢治といえば詩人としてよりは聖人君子として尊敬されているのであります。で、こんな目で見られるということは、先生の全く予想しなかったことで、かなり困惑したであろうと思います。
 そのため、終始、自分は賢治とは違うんだということを力説されていたのであります。 ある時私に向かって、
「日本人は何か特殊な技能に秀れていると、すぐにそれを倫理的に錯覚してしまう妙なくせがある。一芸に秀でた人をすぐに立派な人だとして神さま扱いをしてしまう…投稿者略…」 
 こんな意味のことをおっしゃったことがあります。

 そしてこの記述内容については、たしかにそうだよなと私は思いつつも、正直反発も感じた。というのは、是非は別として、
   賢治といえば詩人としてよりは聖人として尊敬されているのであります。
という現実がある。しかしそれは「この地方では」に限ったことではなくて、賢治のことをよく知らなかった方々でもそうであったのではなかろうかと思うからだ。例えば、あの『宮澤賢治追悼号』への少なからぬ寄稿者が、賢治のことはよく知らないのに人間賢治を褒め称えているようにだ。
 あるいは、『宮澤賢治研究1』(草野心平編輯、宮澤賢治友の会、昭和10年4月20日発行)の広告文で、
 これはとにかく一人の天才の本だ。僕はまだ詩を殆ど読んでゐないし、その他のことについても知らないが、この童話だけみてもさう言ひ切れる。童話はみんないい。つまらないものは一つもない。詩も僕の読んだ限りみんな独創にみちてゐる。こんな秀れた人が今まで一般に知られなかったのは不思議な気がする……。
と、谷川徹三がべた褒めしているようにだ。
 一方で先日、太田村出身のある方に光太郎についてお尋ねしたところ、
   子どもの頃に、光太郎と一緒に写真を撮ったことがある。
   当時の太田では、光太郎のことは皆よく知っていたが、賢治のことは知られていなかった。

というようなことなどを教わった(2024年1月15日)からだ。
 なおかつ、地元花巻周辺では多くの方々は訳あって、生身の賢治のことは公言しないが、親しくなるつれて生身の賢治を語ってくれて、しかもそれらは巷間言われている賢治とは違っていたり、はては真逆であったりするものも少なくないからだ。

 とまれ、光太郎の「「日本人は何か特殊な技能に秀れていると、すぐにそれを倫理的に錯覚してしまう妙なくせがある。一芸に秀でた人をすぐに立派な人だとして神さま扱いをしてしまう」という危惧は尤もなことだと私には思える。
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 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
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