〈「白花露草」(平成28年8月24日撮影、下根子桜)
全てが皆繋がった
吉田 先に引用したように、この中舘と賢治との間のやりとりに関して山内修氏は、「普通こうした中傷めいたことは、一笑に付して黙殺するはずだが」と疑問を呈している。
荒木 確かに。もし自分に非がなかったのであれば、賢治も当時既に30代半ばだったのだからそこまでムキになる必要もなかっただろうに。
鈴木 まして中舘は盛岡中学の四年も先輩だ。その中舘に対して賢治が「呵々。妄言多謝」と述べているわけだが、これには流石に吃驚した。しかも、上下関係の厳しかったであろう旧制中学であったということを考えれば、客観的にはあまりにも失礼な言動だ。
吉田 しかし現実にはそのようなことが起こっていたわけだから、それは、賢治からすれば相当痛いところを厳しくズバリと中舘から指摘されたということの裏返しだろう。
荒木 そうだよな、大人の分別をもって「黙殺」すればいいのに。ということは、賢治は余程腹に据えかねていたということか。
吉田 では一体その時どんなことを賢治は中舘から言われたのかというと、残念ながらその内容については従前知られていなかった。ところが先に鈴木から、
露本人が次女に、『賢治さんが遠野の私の所に訪ねて来たとことがある』と言っていた。
という露の次女の証言があるということを教わって<*1>僕はピンときた。まさしくこの賢治の行為ならばその「内容」にピッタリと当て嵌まると。荒木 確かにな、小笠原家に嫁いだばかりの露の許にわざわざ賢治が訪ねて行ったのだから、露は立場がなくなるし、もしこれが夫の小笠原牧夫や小笠原家の人々に知れてしまったならば、当時のことだからただでは済まないし、このことが噂となってたちどころに広まったであろう。なにしろ、小笠原家はかつて遠野南部の名家中の名家の家柄だったのだから。
鈴木 それではこれで大体実験道具は揃ったようだから、あとは一つだけ
この「昭和7年に賢治は遠野の露に会いに行った」という「噂話」が花巻にも伝わってきた。……④
ということを仮定して、以下このことに関する考察をしてみよう。
吉田 それでは今までのことを踏まえて、僕が先に翻訳したことを修正しながらまずは思考実験を再開してみると、
賢治と親しいMが、「昭和7年、遠野の小笠原家に嫁いだばかりの露のところにあろうことか賢治が訪ねて行った」という「噂話」を聞きつけたので、早速Mは病床の賢治にご注進に及んでこの「噂話」を告げ口をしたところ、賢治はそれを真に受けて大層興奮して関登久也の家に、病臥中の身にもかかわらず出かけて行き、露を遠野に訪ねた事についていろいろと弁解して行った。
その時はそんなにむきになって弁解したという賢治を一寸おかしいと勝治は思ったが、実はそうではなかったということが後でわかった。それは、他人の原稿を無断でラジオ放送に利用するようないい加減な男Mのことだから、告げ口の常套である誇張と悪意を以て病床の賢治にこの「噂話」をしたに違いないし、しかも賢治は人の告げ口を信じやすいタイプだからそれを真に受けてしまったと判断できる。それゆえ、賢治は翌日大層興奮して関登久也の家にわざわざ出かけて行て、露との事についていろいろと弁解して行ったのだった。
そして、そのむきになって弁解している賢治の姿は、日頃から賢治のことをよく知っている関からすれば、「私は違つた場合を見た樣な感じを受けました」と見えた。
ということになるのだろう。その時はそんなにむきになって弁解したという賢治を一寸おかしいと勝治は思ったが、実はそうではなかったということが後でわかった。それは、他人の原稿を無断でラジオ放送に利用するようないい加減な男Mのことだから、告げ口の常套である誇張と悪意を以て病床の賢治にこの「噂話」をしたに違いないし、しかも賢治は人の告げ口を信じやすいタイプだからそれを真に受けてしまったと判断できる。それゆえ、賢治は翌日大層興奮して関登久也の家にわざわざ出かけて行て、露との事についていろいろと弁解して行ったのだった。
そして、そのむきになって弁解している賢治の姿は、日頃から賢治のことをよく知っている関からすれば、「私は違つた場合を見た樣な感じを受けました」と見えた。
鈴木 そうか、今まではこの「噂話」の中身がわからなかったからいま一つ釈然としなかったが、これですっきりとした。
荒木 でもさ、どうして「関登久也の家に」だったのだべ?
鈴木 素直に考えれば、
賢治に訪ねてこられた露としては彼のその行為は迷惑この上ないことだったから、そのことを花巻高等女学校の級友でもあった関登久也の妻のナヲに『賢治さんが私のところに訪ねてきたので困っている』と相談した。
というあたりだろう。吉田 それ以前にも、露が賢治から貰った本を返却しようとした際には、露はナヲにそれを頼んでいたようだから、その可能性は充分にあり得る。しかも、その本の返却の件を夫の登久也が日記に書いている<*2>くらいだから、この「噂話」の場合もナヲは夫の登久也に話したであろう。そしてそれが登久也からMにも伝わっていったのであろう。
荒木 そうすると、以前も話題になった関登久也の「面影」の一節、
……亡くなられる一年位前、病氣がひとまづ良くなつて居られた頃、私の家を尋ねて來られました。それは賢治氏知人の女の人が、賢治氏を中傷的に言ふのでそのことについて賢治氏は私に一應の了解を求めに來たのでした。
他人の言に對してその經緯(イキサツ)を語り、了解を得ると云ふ樣な事は曾て賢治氏になかつた事ですから、私は違つた場合を見た樣な感じを受けましたが、それだけ賢治氏が普通人に近く見え何時もより一層の親しさを覺えたものです。其の時の態度面ざしは、凛としたと云ふ私の賢治氏を説明する常套語とは反對の普通のしたしみを多く感じました。
<『イーハトーヴォ第十號』(菊池暁輝編輯、宮澤賢治の會)4pより>他人の言に對してその經緯(イキサツ)を語り、了解を得ると云ふ樣な事は曾て賢治氏になかつた事ですから、私は違つた場合を見た樣な感じを受けましたが、それだけ賢治氏が普通人に近く見え何時もより一層の親しさを覺えたものです。其の時の態度面ざしは、凛としたと云ふ私の賢治氏を説明する常套語とは反對の普通のしたしみを多く感じました。
の「賢治氏知人の女の人が、賢治氏を中傷的に言ふ」についてだが、
賢治氏知人の女の人が、賢治氏を中傷的に言ふ→「昭和7年、賢治は遠野に露に会いに行った」という「風聞」を知った
と置換すればすんなりと当て嵌り、すんなりと理解できるべ。鈴木 なるほど。
この表現「賢治氏知人の女の人が、賢治氏を中傷的に言ふ」そのものからは、いかにもその「女の人」の側の行為にこそ問題がありそうな印象を受けるが、もしこの「女の人」が実際「賢治氏を中傷的に言ふ」たのであれば、それが露であるということの蓋然性は極めて低い。そのようなことをする時間的余裕がない、遠距離であるという地理的困難さがある、そもそも結婚したばかりの露が賢治を中傷する必然性がない等々、少なからずその理由は挙げられるのだから。
荒木 それと比べれば、実質的には昭和7年に、「賢治は遠野に露に会いに来た」という意味の露の証言があるのだから、賢治のこのような行為があったという蓋然性の方が遙かに高かろう。こちらならばその中身が具体的にわかっているわけだが、一方の「賢治氏を中傷的に言ふ」たについてはその中身が何かもわかっていないのが実態だから、なおさらにだべ。
吉田 だから、「賢治氏知人の女の人が、賢治氏を中傷的に言ふ」は実は事実ではなく、真相は「昭和7年、賢治は結婚したばかりの露を遠野に訪ねた」という「風聞」があったということの蓋然性がすこぶる高いということか。
鈴木 ではそろそろ思考実験はこのあたりで終えることとして、この思考実験の結果も踏まえ、なおかつ先の仮定〈④〉以外の推測部分は極力排除してまとめてみようか。
荒木 まかせろ、それは大体こういうことになる。
昭和7年のことだが、
(1) 賢治は結婚したばかりの露を遠野に訪ねて行った。その訪問は賢治からすれば「神明御照覧、私の方は終始普通の訪客として遇したるのみに有之」という程度の認識ではあったが、世間一般から見れば常識的にはあり得ない訪問だったのでそれは良からぬ「風聞」となってたちまち広がってしまった。
(2) もちろん訪ねられた露としてもその「風聞」はとても困ったことだったので、それまでも何くれと相談に乗ってくれていた高等女学校時代の級友ナヲに相談した。それでナヲはそのことを夫の関登久也にも知らせ相談した。一方登久也から友人でもあるMにもそのことが伝わった。
(3) そこでMがそれを賢治に知らせたところ、これはまずいことになってしまったと思った賢治は、まだ病臥中の身ではあったが関登久也の家に行って弁解した。
なお、関登久也の「面影」の、
(4) 中舘宛書簡下書〔422a〕で賢治が書いている「若しや旧名高瀬女史の件」とは、実は「昭和7年、賢治は遠野に露に会いに行った」という「風聞」のことであり、中舘がこのスキャンダルを賢治に書簡で伝えたところ、賢治は「終始普通の訪客として遇したるのみ」ととぼけると共に「呵々。妄言多謝」と辛辣な言葉を用いて強く反撃した。
鈴木 なるほどな、今までこれらがそれぞれ別個のものだとばかり思っていたが、こうして皆すんなりと全てが繋がった。実は何のことはない、いずれも皆一つのことについて述べていたということだったのか。(2) もちろん訪ねられた露としてもその「風聞」はとても困ったことだったので、それまでも何くれと相談に乗ってくれていた高等女学校時代の級友ナヲに相談した。それでナヲはそのことを夫の関登久也にも知らせ相談した。一方登久也から友人でもあるMにもそのことが伝わった。
(3) そこでMがそれを賢治に知らせたところ、これはまずいことになってしまったと思った賢治は、まだ病臥中の身ではあったが関登久也の家に行って弁解した。
なお、関登久也の「面影」の、
亡くなられる一年位前、病氣がひとまづ良くなつて居られた頃、私の家を尋ねて來られました。それは賢治氏知人の女の人が、賢治氏を中傷的に言ふのでそのことについて賢治氏は私に一應の了解を求めに來たのでした。
と、佐藤勝治の「賢治二題」の、 病床の彼にその後のT女の行為について話したら、翌日大層興奮してその著者である彼の友人の家にわざわざ出かけて来て、T女との事についていろいろと弁明して行つたと、直接聞いたのである。
という二つののエピソードは実は同一のものであった。(4) 中舘宛書簡下書〔422a〕で賢治が書いている「若しや旧名高瀬女史の件」とは、実は「昭和7年、賢治は遠野に露に会いに行った」という「風聞」のことであり、中舘がこのスキャンダルを賢治に書簡で伝えたところ、賢治は「終始普通の訪客として遇したるのみ」ととぼけると共に「呵々。妄言多謝」と辛辣な言葉を用いて強く反撃した。
荒木 つまり、事の起こりは「昭和7年、遠野の名家小笠原家に嫁いで行った露にあろうことか賢治がわざわざ会いに行った」ことにあったのだったということになるべ。
吉田 したがって、これだけ合理的に説明ができたわけだから逆に、先の仮定〈④〉もほぼ現実にも起こっていたであろうし、
露本人が次女に、『賢治さんが遠野の私の所に会いに来たとことがある』と言っていた。
という証言も、しかもそれが昭和7年であったことの信憑性もかなり高いものとなったとも言えるだろう。
荒木 どうやら、関も中舘も勝治も、そして露本人も皆このことに関連していると判断できそうな証言を残しているから、賢治は昭和7年に、遠野に露に会いに行っていたということはほぼ事実で、そしてそれは一大スキャンダルとなったということはかなり蓋然性が高いということになったしまったか。
鈴木 というわけで、次の3つの資料、
・関登久也の「面影」
・佐藤勝治の「賢治二題」
・中舘宛書簡下書〔422a〕
における「昭和7年」の露に関する記述内容の幾つかが、〈仮説:高瀬露は悪女ではなかった〉の反例となる可能性があるかというと、ある一つを除いてはほぼあり得ないだろうということが今までのことからほぼわかった。そしてその「ある一つ」とは、「賢治氏知人の女の人が、賢治氏を中傷的に言ふ」のことである。・佐藤勝治の「賢治二題」
・中舘宛書簡下書〔422a〕
しかし、実はそもそも果たしてこの「賢治氏知人の女の人」 が露その人であるかどうかもはっきりしていないし、はたまた露がそのようなことをしたという何らかの裏付けがあるというわけでもない。しかも、中傷的に言ったというその中身も全くわかっていないのだから、所詮これは「あやかし」に過ぎない。
吉田 しかもこの「賢治氏知人の女の人が、賢治氏を中傷的に言ふ」の部分は実は嘘であり、この部分は正しくは「「昭和7年、賢治は遠野に露に会いに行った」という風聞が広まっていた」という蓋然性が、また、「昭和7年、賢治は遠野に露に会いに行った」ということ自体もその蓋然性がそれぞれ極めて高いということも共に知り得た。
もちろん、これらの3つの資料の中に今回のことに関わって露がその非を問われるものは前掲の「ある一つ」以外にはない一方で、賢治のそれはかなりあると言ってもよいということもまたわかった。
鈴木 したがって、これらの3つの資料のいずれによっても、〈仮説:高瀬露は悪女ではなかった〉が棄却されるということはない。そんなことをしたならば、それはあまりにもアンフェアなことだということもあるが、それ以前にこの「ある一つ」それこそが「あやかし」なものなので、そんなもので検証などはできないからだ。
それから、これら以外のことで「昭和7年」において検証作業をせねばならない資料や証言は今のところないはずだから、これで「昭和7年」に関してはその作業は全て終了した。
荒木 ということは、「昭和7年」関連についてもこの<仮説>の反例は何一つ見つからなかったから、やはり今回も
〈仮説:高瀬露は悪女ではなかった〉は棄却しなくてよい。
ということか、いやあ嬉しいね。先につい口走ってしまったが何と、この<仮説>は「晴れて雛になって歩み始める」ことができそうだ。
<*1:投稿者註> 遠野市在住のAという方がある時、私(鈴木守)のところに訪ねて来られたのだが、私はその時に不在だったために会えなかったということがあった。そこでA氏は拙宅の郵便受けに、「露先生の教え子です」というメモを書いたご自分の名刺を入れて帰られた。もちろん、私は押っ取り刀で遠野市の同氏宅を訪問した。
すると同氏からは、
恩師のあの優しい露先生が「悪女扱い」されていることを最近になって初めて知り、今はびっくりしている。決してそのような先生ではないのでそのことを知ってもらいたく、先日鈴木さんをお訪ねしたのです。
と言われた。そして、・同氏の家と露先生の家は近かったから、露先生はしばしば同氏の家に来ていた。
・同氏の妹と露先生の次女は同級生で仲良しだった。
・同氏の妹に露先生の次女が、
母が、『賢治さんが遠野の私の所に訪ねて来たことがある』と言っていた。
ということを話したことがある。
ということなどを教わった(平成26年7月14日)。・同氏の妹と露先生の次女は同級生で仲良しだった。
・同氏の妹に露先生の次女が、
母が、『賢治さんが遠野の私の所に訪ねて来たことがある』と言っていた。
ということを話したことがある。
<*2:投稿者註> 平成15年7月29日付『岩手日報』の20面に次のような記事【賢治に結婚話あった】
が載った。そしてこのような報道があった訳はと言えば、関徳弥の『昭和五年 短歌日記』が発見されたからだ。
その実際の報道内容だが、それは以下のようなものだった。
賢治に結婚話あった
親せきの日記に記述 北上の古書店が入手
歌人で宮沢賢治の親せきに当たる関徳弥(一八九九-一九五七年)が、生涯独身を通した賢治の結婚話について記した日記が見つかった。日記を入手した北上市花園町の古書店経営、高橋征穂(まさお)さん(六一)が二十八日、発表した。
相手は小学校教諭
関が一九三〇(昭和五)年に書いたとみられる日記に、羅須地人協会の唯一の女性会員で小学校教諭の高瀬露との結婚話の記述があった。盛岡市の賢治研究家、牧野立雄さん(五四)は「(賢治が亡くなる三年前の)昭和五年まで、露との間に結婚話が続いていたことを示す証拠」としている。
賢治の結婚話は、市販の短歌日記(昭和五年用)に書かれていた。日記に署名などはなかったが、中に昭和六年度版の「年刊歌集」(日本歌人協会編)に収録されている関の短歌が一首つづられており、関の日記と考えられる。
賢治と露について触れた文章は二カ所。昭和五年十月四日の欄に「夜、高瀬露子(露のこと)氏来宅の際、母来り怒る。露子氏宮沢氏との結婚話。女といふのははかなきもの也」、二日後の六日の欄に「高瀬つゆ子氏来り、宮沢氏より貰ひし書籍といふを頼みゆく」とあった。
四日の記述は「露が関を訪ねた際、関の義母ヤス(賢治の叔母に当たる)が来て怒った」というもの。賢治の親族が、露のことをよく思っていなかったことが背景にあると推測される。六日の「露が来て賢治からもらった本を預けて行った」との記述について、牧野さんは「二人の関係が断たれたことを意味するのではないか」としている。
日記は今月初め、花巻市内の個人から高橋さんに持ち込まれた。内容を確認した牧野さんは「賢治と露の間に具体的な結婚話があったことを示す同時代の貴重な資料。賢治の恋愛や結婚について見直すきっかけにもなりそうだ」と話している。
<『平成15年7月29日付岩手日報20面)より>親せきの日記に記述 北上の古書店が入手
歌人で宮沢賢治の親せきに当たる関徳弥(一八九九-一九五七年)が、生涯独身を通した賢治の結婚話について記した日記が見つかった。日記を入手した北上市花園町の古書店経営、高橋征穂(まさお)さん(六一)が二十八日、発表した。
相手は小学校教諭
関が一九三〇(昭和五)年に書いたとみられる日記に、羅須地人協会の唯一の女性会員で小学校教諭の高瀬露との結婚話の記述があった。盛岡市の賢治研究家、牧野立雄さん(五四)は「(賢治が亡くなる三年前の)昭和五年まで、露との間に結婚話が続いていたことを示す証拠」としている。
賢治の結婚話は、市販の短歌日記(昭和五年用)に書かれていた。日記に署名などはなかったが、中に昭和六年度版の「年刊歌集」(日本歌人協会編)に収録されている関の短歌が一首つづられており、関の日記と考えられる。
賢治と露について触れた文章は二カ所。昭和五年十月四日の欄に「夜、高瀬露子(露のこと)氏来宅の際、母来り怒る。露子氏宮沢氏との結婚話。女といふのははかなきもの也」、二日後の六日の欄に「高瀬つゆ子氏来り、宮沢氏より貰ひし書籍といふを頼みゆく」とあった。
四日の記述は「露が関を訪ねた際、関の義母ヤス(賢治の叔母に当たる)が来て怒った」というもの。賢治の親族が、露のことをよく思っていなかったことが背景にあると推測される。六日の「露が来て賢治からもらった本を預けて行った」との記述について、牧野さんは「二人の関係が断たれたことを意味するのではないか」としている。
日記は今月初め、花巻市内の個人から高橋さんに持ち込まれた。内容を確認した牧野さんは「賢治と露の間に具体的な結婚話があったことを示す同時代の貴重な資料。賢治の恋愛や結婚について見直すきっかけにもなりそうだ」と話している。
続きへ。
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賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』
〈平成30年6月231日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました。
そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
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