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真壁仁と松田甚次郎

2021-04-11 09:00:00 | 賢治の「稲作と石灰」
【東北砕石工場技師時代の賢治(1930年頃 撮影は稗貫農学校の教え子高橋忠治)】
<『図説宮澤賢治』(天沢退二郎等編、ちくま学芸文庫)190pより>

 さて、前回の〝『イーハトーヴォ第二号』(昭和14年12月)〟において、
 東北砕石工場技師時代の賢治や石灰の施用に関してここまで詳しく最初に言及していたのは、真壁のこの寄稿であったとほぼ言えそうだということを私は知った。
わけだが、では真壁はなぜ「ここまで詳しく」記述することができたのだろうか。

 ちなみに、今まで調べてきた資料の中にあった真壁の寄稿は二つあり、
   ・『宮澤賢治研究 1』(宮澤賢治友の会、昭和10年4月)には「農業者としての宮澤さん」
   ・『宮澤賢治研究』(十字屋書店版、昭和14年9月)には「「春と修羅」について」
である。しかしながら、これらのいずれにおいても東北砕石工場のことや石灰のことは一切言及していない。
 ところがそれが、昭和14年12月発行の『イーハトーヴォ第二号』所収の「酸えたる土にそそぐもの」になると一気に、
⑴ 年表に據れば、宮澤さんは昭和六年四月東北碎石工場の技師になられました。そして炭酸石灰の製法改良とその販賣斡旋のため奔走されて居ります。私はこの時代の事蹟を本當に詳しく知りたいと思ひます。この仕事は故人の生涯中最も立派な一つであります。酸えたる土を改めるためにそそぐものをつくる事を宮澤さんは久しきに亘つて思ひ續けられたことでせう。…投稿者略…イーハトーヴォの土がいかに永き酸化の儘に晒されてをるかを知つて以來。
⑵ イーハトーヴォの土は酸えてをりました。…投稿者略…農村のために炭酸石灰を安く豐富に與へることが宮澤さんの熱望となりました。
⑶ 酸性土壌を中和するために、一般に用ひられてゐる消石灰より炭酸石灰がどれくらひ勝つてゐるか、まだ農民は本當に知らないでせう。
             〈『イーハトーヴォ第二号』(宮澤賢治の会、昭和14年12月)13p〉
ということなどを書いている。つまり、「ここまで詳しく」記述することができたわけである。
 しかし、そもそも真壁は生前の賢治とは面識がなかった<*1>のだから、「酸えたる土にそそぐもの」において述べているこれらの当該事項を賢治から直接教えてもらうことはできなかったはずで、これらは賢治以外の誰かから教わったという蓋然性が高い。なぜならば、これらの事項が論じられている資料は当時まだ殆ど公になっていなかったはずだからだ。そこで次は、それは誰からだったのかということを推測してみよう。

 まず、⑴の「年表に據れば、宮澤さんは昭和六年四月東北碎石工場の技師になられました。そして炭酸石灰の製法改良とその販賣斡旋のため奔走されて居ります」という記述から、真壁は『宮澤賢治追悼号』(昭和9年1月)所収の「宮澤賢治略歴」の中の、「*昭和六年四月東北碎石工場技師ニ聘セラレ炭酸石灰製法改良加工並ニ販路斡旋ニ努ム」を参考にしていることは間違いなかろう。
 次に、「私はこの時代の事蹟を本當に詳しく知りたいと思ひます」という記述から、真壁はとりわけ、「この時代」=東北砕石工場技師時代の「事蹟を本當に詳しく知りたい」ということで、そのための努力をしたこともまた間違いなかろう。
 では、真壁はその情報はどうやって得たのであろうか。それは素直に考えれば、真壁の周辺にいた人物でそのようなことを知っている人物がいればその人からであろう。そしてそのような人物で直ぐに思い浮かぶのは誰かというと、それはもちろん松田甚次郎である。なぜなら、松田甚次郎も真壁も同時代の山形県人であり、ともに、「山形賢治の会」を昭和14年に立ち上げた間柄<*2>だから十分面識があったはずだからである。

 では、石灰に関して触れている⑵や⑶の情報を真壁はどういう切っ掛けで知ったのだろうか、それは例えば、『宮澤賢治研究』(昭和14年9月)所収の松田甚次郎の追想「宮澤先生と私」の中の、
 其後昭和六年に、春と修羅を御手紙と共に送つていただいたのが最後の御手紙でそのときはもう病牀に起き臥し中であつて盛んに石灰岩の事などを御述べになられて、殘念だ身體が弱くて殘念だとつぶやいて居られたのである。
            <『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店版)426p>
という記述を知ったからだということもあり得る。なんとなれば、二人は十分面識があったはずだし、しかも真壁もこの『宮澤賢治研究』に寄稿していたから、それを読んでいて、「最後の御手紙でそのときはもう病牀に起き臥し中であつて盛んに石灰岩の事などを御述べになられ」ということを知ったからだ。そう、「この時代」=東北砕石工場技師時代の「事蹟を本當に詳しく知りたい」と願っていた真壁は、渡りに船ということで、松田甚次郎からこれらのことを聞き出したのだった。

 以上、あくまでも私の推測でしかないが、それが真相であったという蓋然性は低くはなかろう。

<*1:投稿者註> 真壁は「陸羽一三二号物語――おくれた出会いのこと」の中で、
 『宮沢賢治追悼』が出されたのは昭和九年一月二十八日、賢治永眠後四か月目である。八十三頁あまりのこの冊子で、私は宮沢賢治を初めて知った。
             〈『修羅の渚 宮澤賢治拾遺』(真壁仁著、法政大学出版局)5p〉
と書いているからである。
<*2:投稿者註> 同じく山形県人の吉田司が、
 その一躍〝有名文化人〟となった松田と「山形賢治の会」(昭和十四年)を組織した農民詩人の真壁仁は…投稿者略…
                  〈『宮澤賢治殺人事件』(吉田司著、太田出版)15p〉
と述べている。 

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