以前〝賢治の上京は10回あったか?〟において素人の厚かましさということで、巷間言われている賢治の9度の上京以外にもう一回別な上京の可能性もあり得るということを述べたが、それとは別な上京の可能性もあるらしいことを知った。
それは筑摩の「新校本年譜」327pの大正15年12月12日関連の記載からであり、そこには次のようなことが書かれていたからだ。
まずは以前〝三日でチェロを覚えようとした賢治〟で投稿したことがある大津三郎の証言「三日でセロを覺えようとした人」と同じ内容の記載がありその後に、
もちろん予定外の行動もあった。観劇やセロの特訓<*67>がそうである。
の〝セロの特訓〟に対する<註釈*67>であり、この註釈は「校本年譜」の場合にはなされていない。「新校本年譜」になって新たに書き加えられたものである。
たしかに、下根子桜時代の賢治の上京に際して『あのとき武治と一緒に俺も上京する賢治を見送った』という証言を柳原本人から宮澤賢治研究家C氏が得ているということをC氏から教わったばかりであり、ここでは改めて「柳原昌悦も同様の記憶を持っており、昭和二年にもう一度セロを習いに上京したことがあったかもと考えられるが」と記載されていても吃驚はしないが…(ただし、筑摩の場合のこの根拠は何によるものだろうか、出典を知りたい)。
それにしても、今回このことがあったので少しく調べてみて気が付いたのだが、次のようなことがいえないだろうか。
一般に賢治の年譜においてはどの年においても12月の記載は少なく、行動が明らかになっていない日が他の月に比べて極めて多い。ちなみに昭和2年の12月で「新校本年譜」に記載されている日は2日しかなく、それも
・12/21 盛中の校友誌に賢治の作品が載ったこと
・12/26 「新潟新聞」に「詩集展」の出品者の一人として名前が載ったこと
という内容だけである。それらは賢治の12月の行動が見えてくるものではない。
もしかすると昭和2年のこの12月も上京・滞京してセロを習ったりしていたのだろうか。ならば、前年の大正15年であればその月の書簡は多かったはずだから、昭和2年についてもその月のそれを見てみれば何か判るかもしれない。
というわけで昭和2年の12月頃に賢治が出した書簡にはどんなものがあったのだろうかと思って書簡集の『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)を開いてみた。すると昭和2年に賢治が出した書簡は極めて少ないことを知る。なんと12月のものは全く載っていない。残念ながら何ら情報は得られなかった。
そしてついでに同書簡集を調べてみるとこの当時の書簡は少なくて、例えば昭和2年5月~昭和3年春頃までに賢治が出したものは
・7/19付 福井規矩三宛て
・10/21付 「ご不用レコードを交換ねがひます」という意味の書面
の2通だけであった。まさかこれほどまでに少ないとは…。
毎日毎日稲作指導に奔走・詩作に没頭・肥料設計で多忙だったために書簡は出していなかったということなのだろうか。それとも載せていないのだろうか。
そして私は『もしかすると…まさか?』と思ってしまったのだがそれは次回へ。
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それは筑摩の「新校本年譜」327pの大正15年12月12日関連の記載からであり、そこには次のようなことが書かれていたからだ。
まずは以前〝三日でチェロを覚えようとした賢治〟で投稿したことがある大津三郎の証言「三日でセロを覺えようとした人」と同じ内容の記載がありその後に、
これが、この一二月のセロの特訓あたるかもしれない。ただし、時期については大津の夫人のつや子の記憶では、次女誕生の後で、昭和二年のことであったかもという。また、セロを持ち上京する賢治を見送った高橋(のち沢里)の記憶の他に、柳原昌悦も同様の記憶を持っており、昭和二年にもう一度セロを習いに上京したことがあったかもと考えられるが、断定は出来ない。
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)』(筑摩書房)より>
と。なおこの部分は同書の326pにある、もちろん予定外の行動もあった。観劇やセロの特訓<*67>がそうである。
の〝セロの特訓〟に対する<註釈*67>であり、この註釈は「校本年譜」の場合にはなされていない。「新校本年譜」になって新たに書き加えられたものである。
たしかに、下根子桜時代の賢治の上京に際して『あのとき武治と一緒に俺も上京する賢治を見送った』という証言を柳原本人から宮澤賢治研究家C氏が得ているということをC氏から教わったばかりであり、ここでは改めて「柳原昌悦も同様の記憶を持っており、昭和二年にもう一度セロを習いに上京したことがあったかもと考えられるが」と記載されていても吃驚はしないが…(ただし、筑摩の場合のこの根拠は何によるものだろうか、出典を知りたい)。
それにしても、今回このことがあったので少しく調べてみて気が付いたのだが、次のようなことがいえないだろうか。
一般に賢治の年譜においてはどの年においても12月の記載は少なく、行動が明らかになっていない日が他の月に比べて極めて多い。ちなみに昭和2年の12月で「新校本年譜」に記載されている日は2日しかなく、それも
・12/21 盛中の校友誌に賢治の作品が載ったこと
・12/26 「新潟新聞」に「詩集展」の出品者の一人として名前が載ったこと
という内容だけである。それらは賢治の12月の行動が見えてくるものではない。
もしかすると昭和2年のこの12月も上京・滞京してセロを習ったりしていたのだろうか。ならば、前年の大正15年であればその月の書簡は多かったはずだから、昭和2年についてもその月のそれを見てみれば何か判るかもしれない。
というわけで昭和2年の12月頃に賢治が出した書簡にはどんなものがあったのだろうかと思って書簡集の『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)を開いてみた。すると昭和2年に賢治が出した書簡は極めて少ないことを知る。なんと12月のものは全く載っていない。残念ながら何ら情報は得られなかった。
そしてついでに同書簡集を調べてみるとこの当時の書簡は少なくて、例えば昭和2年5月~昭和3年春頃までに賢治が出したものは
・7/19付 福井規矩三宛て
・10/21付 「ご不用レコードを交換ねがひます」という意味の書面
の2通だけであった。まさかこれほどまでに少ないとは…。
毎日毎日稲作指導に奔走・詩作に没頭・肥料設計で多忙だったために書簡は出していなかったということなのだろうか。それとも載せていないのだろうか。
そして私は『もしかすると…まさか?』と思ってしまったのだがそれは次回へ。
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