みちのくの山野草

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1374 自分自身に涙を流す?賢治

2010-03-17 10:00:09 | 岩手の冷害・旱害
     <↑Fig.1 昭和2年2月1日付 岩手日報>
<その4-5>

 大正15年末~旧正月は、紫波の旱魃被害地に対して各地から陸続と暖かい義捐の手が差しのべられていた頃であるが、この頃は宮澤賢治は羅須地人協会を設立し、その活動に邁進していた頃でもあるはず。このことに関してはブログの先頭にあるような報道がなされていて、その内容は以下のとおり。
【昭和2年2月1日付 岩手日報】
 農村文化の創造に努む花巻の有志が地人協会を組織し 自然生活に立返る
 花巻川口町の町会議員であり且つ同町の素封家の宮澤政次郎氏長男賢治氏は今度花巻在住の青年三十余名と共に羅須地人協会を組織しあらたなる農村文化の創造に努力することになつた
 地人協会の趣旨は現代の悪弊と見るべき都会文化のに対抗し農民の一大復興運動を起こすのは主眼で、同志をして田園生活の愉快を一層味はしめ原始人の自然生活たち返らうといふのである
 これがため毎年収穫時には彼等同志が場所と日時を定め耕作に依って得た収穫物を互ひに持ち寄り有無相通する所謂物々交換の制度を取り更に農民劇農民音楽を創設して協会員は家族団らんの生活を続け行くにあるといふのである
 目下農民劇第一回の試演として今秋『ポランの広場』六幕物を上演すべく夫々準備を進めてゐるが、これと同時に協会員全部でオーケストラーを組織し、毎月二三回づゝ慰安デーを催す計画で羅須地人協会の創設は確かに我が農村文化の発達上大なる期待がかけられ、識者間の注目を惹いてゐる
 (写真。宮澤氏、氏は盛中を経て高農を卒業し昨年三月まで花巻農学校で教鞭を取つてゐた人)

 つまり、大正15年末頃から宮澤賢治は私塾羅須地人協会の実質的な活動を開始。それを受けてのこの新聞報道であったのだろう。ところが、折角始めた私塾の活動であったがこの新聞報道が災いしたためであろうか、『私の賢治散歩(下)』(菊池忠二著)によれば
 じっさい宮澤賢治は、社会主義教育を行っているとの風評もあった、昭和二年春頃(三月か)、花巻警察署刑事の事情聴取を受けたと言われている(『校本全集』一四巻「年譜」)。しかし上記教え子小原忠氏によれば、同年六月末頃に一身上の相談で、羅須地人協会へ宮澤賢治をたずねた時、川岸の畑で草とりをしていた賢治が、「どういうわけか非常に機嫌が悪く興奮」しており、小原氏の用むきには耳もかさず、「いま、それどころの話ではないんだ。私は警察に引っ張られるかもしれない」といって、とりつくしまもないほどの剣幕だったという(「賢治研究」39号)
 とすれば、警察の事情聴取が行われたのは、その後まもない時のことになるのだろうか。小原氏は「こんな取り乱した姿を後にも先にも見たことがない」と記しているが、宮澤賢治が警察当局の動向にいかに過敏に反応し、動揺し狼狽していたかを物語る、これは珍重すべきエピソードだと思われる。

ということなどがあってか、私塾羅須地人協会の活動はそれほど長く続かなかった。賢治は早ければ昭和2年3月頃に、遅くとも7月頃には私塾の活動は停止してしまったようだ。あらたなる農村文化の創造を目指し、自身は”本統の百姓”になろうとして自炊独居生活を始めた下根子桜に開いた私塾はあっけない幕切れを迎えたことになる。

 一方、賢治は昭和5年3月10日付で、下根子に住む伊藤忠一
【Fig.2 伊藤忠一】

     <『私の賢治散歩(下)』(菊池忠二著)より>
へ次のような書簡を出していて、
お手紙拝見しました。
ご元気のおやうすで実に安心いたしました。無理をしないで着々進んで行かれることをどんなに祈ってゐたでせう。
農事のこともおききしたいことばかりですが四月はきっと外へ出られますからお目にかかれると思ひます。
根子ではいろいろお世話になりました。
たびたび失礼なことも言ひましたが、殆どあそこでははじめからおしまひまで病気(こころもからだも)みたいのもので何とも済みませんでした。

どうかあれらの中から捨てるべきははっきり捨て再三お考になってとるべきはとって、あなたご自身で明るい生活の目標をおつくりになるやうねがひます。…(以下略)

     <『校本 宮沢賢治全集 第十三巻』(筑摩書房)より>
と認め、この中の太字部分のように下根子桜の約2年半を総括している。

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 そこで、ここで再び
  「ヒデリノトキハ ナミダヲナガシ」
について考えてみたい。それも、いままでは
  賢治は旱魃被害の惨状に対して涙を流したはずだ 
という視点から持論を展開してきたが、今回は
  賢治が自身のふがいなさや非力さに対して涙を流したのではなかろうか
という視点から論じてみたい。

 大正15年といえば紫波郡などは旱魃被害が甚大であった年。その年に始めた私塾羅須地人協会も、社会主義教育を行っているとの風評が起こったりしてあっけなく停止せざるを得なかった賢治の無念さとふがいなさは如何ばかりであったであろうか。
 さらには、私には思いも寄らぬことであったが、その私塾を含む下根子桜の約2年半の独居生活に対して後ほど賢治自身は
 殆どあそこでははじめからおしまひまで病気(こころもからだも)みたいのものみたいのもので何とも済みませんでした。
と振り返り、全面否定の総括をしていることになる。特に”こころもからだも”をわざわざ( )書きしていることから窺える惨めな心境の賢治、さぞかし遣る瀬無かったことであろう。この賢治と、例えば高揚感を以て松田甚次郎に語った昭和2年3月8日の賢治との埋めがたい溝に私は愕然とする。

 かくの如く心の揺れが大きい30代の賢治が、「雨ニモマケズ」を手帳に認めたのは昭和6年の明治節11月3日である。この頃の賢治は豊沢の実家に戻って病に伏していた。このような状況下にあって賢治はヒデリに対してどう対処したいと思っていたであろうか。
 おそらく病に伏している賢治にすれば、以前東北砕石工場の嘱託をしていた頃のような東奔西走はもう出来ない身体であるということは認識していたであろう。もし仮に灌漑用水が欲しい季節にヒデリになったとしたならば、せめて賢治が出来ることは、「五庚申、七庚申」を手帳に描いた心情と同じように、ヒデリで苦労している近隣の農民のためにナミダヲナガシて精一杯の祈るしかないと思っていたのではなかろうか。

 さらには、賢治から「小作人たれ、農村劇をやれ。…黙って十年間、誰が何と言はうと、実行し続けてくれ。そして十年後に、宮澤が言った事が真理かどうかを批判してくれ。今はこの宮澤を信じて、実行してくれ」と”檄”を飛ばされた甚次郎は愚直にそのとおりに実践し、仲間と鳥越倶楽部を組織して着々と農村の文化と生活向上の為に身を粉にして活動して実績を挙げているのに、賢治自身はそのような組織も作れずに独りせいぜい肥料相談に乗ってやるくらいしか出来ないという不甲斐なさと非力さに忸怩たる想いもあったであろう。農村劇も上演しようと目論んでいた私塾羅須地人協会をあっけなく停止せざるを得なかった賢治に対して、甚次郎は帰農して農村劇を実践している。劇「水涸れ」を上演したことが切っ掛けでヒデリ(旱)に対応できる溜池築造の機運が盛り上がっているということを賢治は聞き知っていたかも知れない。さらには、私塾「最上共働村塾」の設立の動きについても賢治は伝え聞いていたかも知れない。そのような甚次郎と、己が今を賢治は比べてもしかすると恥じ入っていたかも知れない。あるいは、昭和2年3月8日の自分と己が今とを比べて忸怩たる想いがあったかも知れない。ヒデリに遭遇した場合の賢治自身を思い巡らしてその不甲斐なさと非力さにナミダヲナガシていたかも知れない。

 したがって、
  「ヒデリノトキハ ナミダヲナガシ」
とは、ヒデリのときに心を痛めて農民のためにナミダヲナガすことだけを言っているのではなく、ヒデリが起こった際に襲われるであろう病身の賢治自身の不甲斐なさと非力さにただただナミダヲナガシているしかない、という負い目が吐露されたのかも知れない。つまり、このナミダは賢治が自分自身に流すナミダでもあった、ということを言っているのではなかろうかと思うのである。
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 以上、”渇水に心痛める賢治”の
 『ヒデリのことで賢治は幾度か涙ぐんだことがあったと私は思う』
の例<1>~<4>を挙げたみた次第である。
 これらで、
 「ヒデリノトキハ ナミダヲナガシ」
に対して、
 『如何に多くの人が集まって涙を流せば稲を育てる水が供給できるだろうか
と揶揄されることに対する反論にしたかったのである。何も、賢治は自分の涙で灌漑水の一部にしたいと思ったわけではないと、子供っぽく抗いたかったのである。

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