みちのくの山野草

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常識的にあり得ないでしょうにこんな面談

2023-02-06 16:00:00 | 賢治渉猟
《コマクサ》(2021年6月25日撮影、岩手)

 さて、今までに、賢治終焉の前日(昭和8年9月20日)の面談については、
 ⑴『中等新国語 文学編 二上』には、
 かれが死の前日、見知らぬ農夫が肥料のことで尋ねてきたとき、病状を知っている家人は気が気でなかったが、かれは病床を起き出て階下の玄関に客を迎えた。そして、一時間もきちんとすわってていねいに教えていたということである。
              <『中等新国語 文学編 二上』(光村図書出版、昭和26年(1951年))>
 ⑵『国語⑥創造』では、
 そして、一九三三年(昭和八年)九月二十一日が来る。
 前の晩、急性肺炎を起こした賢治は、呼吸ができないほど苦しんでいた。なのに、夜七時ごろ、来客があった。見知らぬ人だったけれど、「肥料のことで教えてもらいたいことがある。」 と言う。すると賢治は、着物を着がえて出ていき、一時間以上も、ていねいに教えてあげた。
              <『国語⑥創造』(光村図書出版、令和3年(2022年)122p)>
 ⑶『新校本年譜』では、
九月二〇日(水) 前夜の冷気がきつかったか、呼吸が苦しくなり、容態は急変した。花巻病院より来診があり、急性肺炎とのことである。政次郎も最悪の場合を考えざるを得なくなり、心の決定を求める意味で、親鸞や日蓮の往生観を語りあう。
 そのあと賢治は、短歌二首を半紙に墨書する。
 夜七時ころ、農家の人が肥料のことで相談にきた。どこの人か家の者にはわからなかったが、とにかく来客の旨を通じると、「そういう用ならばぜひあわなくては」といい、衣服を改めて二階からおりていった。玄関の板の間に正座し、その人のまわりくどい話をていねいに聞いていた。家人はみないらいらし、早く切りあげればよいのにと焦ったがなかなか話は終らず、政次郎は憤りの色をあらわし、イチははらはらして落ちつかなかった。話はおよそ一時間ばかりのことであった…投稿者略
              〈『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』〉
ということなどがそれぞれ記述されていたことを知った<*1>。
 いずれの内容も似たり寄ったりであり、ほぼ、「見知らぬ農夫が肥料のことで尋ねてき」たので、「呼吸ができないほど苦しんでいた」賢治は「衣服を改めて二階からおりて」「一時間もきちんとすわってていねいに教えていた」ということである。そしてその翌日賢治は没したということになる、まさにいずれの資料に従ったとしても、「農民のために自分の命を犠牲にしてまで賢治は献身した」ということになり、こような賢治はたしかに聖人だったとか農聖だったとか言われるだろう。その一方で、この前日の面談のことを知った人たちは、この「見知らぬ農夫」のことを恥知らずとなじり、農民はやはり愚鈍だなどと言いかねない。

 がしかし、冷静に考えれば、
     常識的にあり得ないでしょうにこんな面談!
と声を大にして言いたい。もしそこまで重篤であったならば、周囲の人たち父母や家族は賢治の病状を伝えて丁重この面談をにお断りするのが筋であり、その方が賢治のためでもあり農民のためにもなるからだ。何もわざわざこの時期のこの時刻に肥料相談せねばならない理由など微塵もないなはず。まして、この昭和8年は近年になく岩手は豊作の年だったのだから<*2>。
 言い方を換えれば、『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』の昭和8年9月20日の記載について、筑摩書房は裏付けをしっかり取ったり、検証したりしたのかと私は問いたい。この記述の実証的な裏付けは一体何なのですか、検証不十分であり、推測ではありませんか、と私は問いたい。石井洋二郎氏のあの警鐘「あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみることに耐え得るのかと言いたい。しかしながらどういうわけか、この件に関して疑問を公に呈している賢治研究者を菊池忠二氏以外に私は知らない。
 
 菊池忠二氏は『私の賢治散歩 下巻』で次のようなことを論じている。
      前夜の面談
 それにしても三十七年の短かい生涯だった宮沢賢治の最後は、伝えられる通りだとすれば、なんという見事なものであったろうか。
 とくに昭和八年(一九三三)九月二十日、死の前日の夜に来訪した農民と稲作や肥料の相談に一時間ちかくもていねいに応じたということは、賢治らしい生涯の最後をかざるにふさわしい、まことに英雄的なエピソードであったと思われる。…投稿者略…たしかな事実であったかもしれないが、またいくつかの疑問な点のあることも感じないわけにはいかない。
 この年九月十九日の夜は、当時の花巻祭りの最終日であり、宮沢賢治は御旅屋から鳥谷ヶ崎神社の本殿にかえる神輿をぜひ拝みたいというたっての希望で、店先にたってそれを見送ったといわれている。このころになると岩手における昼夜の気温差は、いちじるしくなるのが通例である。この十九日はとくに好天で朝の気温八・三度が日中には二三・八度まで上っており、その落差はなんと一五・五度にもおよんでいる。(翌日の「岩手日報」)それは夜になっても同じことだったであろう。…投稿者略…この冷たい夜気にあたったことが、長期の療養生活で体力のおとろえていた賢治に大きな影響をあたえずにはおかなかった。
 この時の様子について叔父の宮沢磯吉は、二階の病室から賢治をみんなでおろして店先で拝ませたものだった、という回想を後年「岩手日報」に寄せていた。今から三十余年も前のことで、その記事の切りぬきを失ってしまったからたしかめようがないけれども、私はそれほど賢治が衰弱していたんだなという印象をつよくもったことを覚えている。『賢治年譜』にも「九月十九日」の項に、「……みんなで手伝って二階からおろし、門のところへ出て」神輿を拝んだことが記されているから、それは事実であったと思われる。
 翌二十日の朝呼吸が苦しくなり容体が変ったので、花巻共立病院の医師の往診をうけ、急性肺炎のきざしがみとめられたという。絶筆の短歌二首が書かれたのもこの日である。そしてこの日の夜七時ころ農民の来訪をうけることになったのである。私はこの知らせを誰が、どのようにして、賢治本人のところへ取りついだのか疑問なのである。この日の賢治の病状からすれば、そのわけを話して農民にひきとってもらうことも十分できたはずである。…投稿者略…それを奥の二階の病室にいる賢治のところへ、直接に取りつぐことがはたしてできたのだろうか。すくなくとも店とつづきの常居にいた家長である父政次郎にこのことを知らせ、相談のうえでその許しをえなければ、とうてい賢治のところに取りつぐことはできなかったはずである。
 もしほかの「誰か」が宮沢家の家人をさすとすれば、この日賢治の容体がどのように変っていたかを、もっとよく知っていたはずの家族の「誰か」が、農民からの用件を不用意に本人へ取りつぐのだろうか。やはり父親なり母親と相談のうえでなければ、とてもできないことだったのではなかろうか。
 このことで父政次郎が、どのような判断をくだしたのか皆目わからない。あるいは短かい時間の面談ならやむをえないとでも考えたのだろうか。それとも農民がやってきたとき、たまたま父親が常居の座をはずしていたのだろうか。ともかくこの件は、賢治のところへ取りつがれたものらしい。
 それを聞いた彼は「そういう用事ならぜひ会わなくては」といって衣服をあらため、二階からおりて農民のまっている店先へ出たのだという。どの記録をみても、まったく自力で歩いて出たような印象をうける。しかし前記の宮沢磯吉の回想や『賢治年譜』の記述が事実であったとすれば、このとき賢治は自力で店先まで歩いてゆくことができたのかどうか、はなはだ疑問なのである。
 もし家族の手をわずらわしてまで出たのだとするならば、それほど農民が急ぎの大事な用件をもってきたのだろうかと思う。岩手におけるこの年の稲作は近来にないほどの大豊作だった。…投稿者略…たぶんその農民は、この年のめぐまれた収穫を思いえがきながら、次年度の稲作とその肥料相談にやってきたのであろう。ことは急を要する問題ではなかったのだ。…投稿者略… それでも、このときの両者の対談は一時間ちかくにもおよんだといわれている。その間賢治は店内の板敷に正座して、農民のとつとつと話す質問にわかりやすく答えながらていねいに応対し、そのいきさつを蔭で見守る家族の方はバラバラしながら早く終わってくれるのを祈るようにまっていたという。
 私にとっての最後の疑問は、翌日の昼すぎに臨終をむかえるほどの重い結核の病人が、前の晩に正座して一時間ちかくもはたして対談できるものだろうか、という点である。もっともそういう対談で無理をしたからこそ、病勢が急にあらたまってしまった、という事情もあるにはちがいない。…投稿者略…
 もしこの事実が、宮沢賢治のたぐいまれな利他的精神のあらわれとして、これからも末長く語り伝えられてゆくものとするならば、私の感じたこれらの小さな疑問が、すこしでも明らかになってほしいものだと、願わずにはいられないのである。
             〈「「雨ニモマケズ」私考」(『私の賢治散歩 下巻』(菊池忠二著、2006年)330p~〉

 私は上掲の菊池氏の「前夜の面談」と、これは常識的におかしいと思える前掲の⑴~⑶とを読み比べていると、前者の記述の方が遥かに説得力があると判断したくなる。それは、賢治に関することを私はここ十数年間ほど検証し続けてきたのだが、その結果、
 常識的に考えればこれはおかしいと思われる事柄について、基本的には「仮説検証型研究」という手法に依って調べてみたところ、常識的に考えておかしいと思ったところは、ほぼ皆いずれもおかしいということが実証できた。
からなおさらに、私も同様に、「翌日の昼すぎに臨終をむかえるほどの重い結核の病人が、前の晩に正座して一時間ちかく」も対談できるはずがないでしょうと思えてならないからだ。
 それゆえ、菊池氏の「これからも末長く語り伝えられてゆくものとするならば、私の感じたこれらの小さな疑問が、すこしでも明らかになってほしいものだと、願わずにはいられないのである」という願いに私も強く共感し、真実が明らかになってほしいのである。さもないと、この「見知らぬ農夫」は恥知らずとなじられ、延いては農民はやはり愚鈍だと言われかねず、もしこれが事実でなかったならば花巻の当時の農民の人権を傷つけ、濡れ衣を着せたことになるからだ。

<*1:投稿者註> 私が渉猟してみた結果見つかった【賢治終焉(昭和8年9月21日)前々日、前日の面談について】の記載の一覧である。



どうやら、『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』は検証不十分なままに断定しているのではなかろうか。そして、推測ではありませんかという不安を拭えない。

<*2:投稿者註>『都道府県農業基礎統計』(加用信文監修、農林統計協会)によれば、当時の「岩手県水稲反収推移」は下掲のように、


となっており、昭和8年は大豊作の年であることが分かる。よって、農民はその稔りに満足し、収穫を楽しみにしていたはずだ。だから常識的に考えれば、その稲刈りをまだ終えないこの時期に、来年のことになるであろう「肥料のことで教えてもらいたいことがある」と言って訪ねてくる農民などいるはずがない。

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