《コマクサ》(平成27年7月7日、岩手山)
さて、前回私は、
「羅須地人協会時代」の賢治の稲作指導法には始めから限界があり、当時の大半を占めた貧しい農民たちにとってはふさわしいものではなかったので、彼等のために献身できたとは実は言えない。
ということをそろそろ私は受け容れるべきなのかなと思い始めていると述べた。そうすると、いやいや、東北採石工場技師時代があるではないか、と反論されるであろう。もちろんかつての私もそう思っていた。それまでの私は、
東北砕石工場技師時代の宮澤賢治は、貧しい農民に炭酸石灰(石灰岩抹)を安くしかも豊富に供給し、それを田圃に撒くことによって酸えたる土壌を中性にし、稲の収量を増してやった。
と認識していたのだ。というのは、特に真壁仁の「酸えたる土にそそぐもの」を読んで、私なりに解釈してこうだったのだと納得していたからだった。そしてこの認識については、知人等に訊いてみても、東北砕石工場技師時代の賢治はそうであったと同様な認識をしている人が殆どだった。ところが、平成28年9月7日のことだが、かつて満蒙開拓青少年義勇軍の一員であった工藤留義氏(滝沢市在住)から、「稲は酸性に耐性がある」と私は教わった。青天の霹靂であった。そこで慌てて農林水産省のHPを見てみたところ、「3 土壌のpHと作物の生育 3-1 作物別最適pH領域一覧」という表が載っていて、
イネ:最適pH領域は 5.5~6.5 弱~微酸性の広い領域で生育
となっていた。つまり、
稲の最適土壌は中性でも、ましてアルカリ性でもなく、稲の最適土壌は弱~微酸性(pH5.5~6.5)である。………①
から、たしかに「稲は酸性に耐性がある」やこの〝①〟は本当のことだったのだ。
当然、稲にとって石灰(石灰岩抹)はむやみやたらに撒けばよいというものではなかったのだ。すると思い出すことは、高橋光一が伝える羅須地人協会時代の次のエピソード、
土地全體が酸性なので、中和のために一反歩に五、六十貫目石灰を入れた時には、これも氣に入らず、表土一面真っ白になった樣子に、さも呆れて「いまに磐になるんぞ。」とか、「あれやぁ、龜ヶ森の會社に買収されたんだべ。あったな事すてるのは……。」とかさまざまでした。けれども私は負けませんでした。先生のおっしゃる事を信じていたからです。〈『宮澤賢治研究 宮澤賢治全集別巻』(草野心平編、筑摩書房)285p〉
である。ということであれば、この高橋のように石灰を撒きすぎると、石灰には中和作用があるから稲の最適pH領域(5.5~6.5)を超えてしまうことが起こり得る。しかも、「先生のおっしゃる事を信じていたからです」の「先生」とは賢治のことを指す。となると、賢治はこの「本当のこと〝①〟」を高橋にはたして教えていたのだろうかとか、はたまた、そもそもこの事実〝①〟を賢治は知っていたのだろうか、という疑問や不安を私は抱いてしまった。そこでこれはならじと、私は北上市にある『農業科学博物館』を訪ねた(令和2年3月27日)。そして館員の方に、
多くの賢治研究者は、稲にとって最適土壌は中性だと思っているようです。ところが実は、それは弱酸性~微酸性、pHが5.5~6.5だと知ったのですが。
と問うたならば、 かつては皆さんはそう思っていたようですが、最近は、(農業関係者ならば皆)弱酸性~微酸性だということは知っておりますよ。
と教えてくれた。そこで、「もしかすると、知らないのは私たちだけ!」と心の内で思わず声を上げてしまった。そのようなことを指摘していた賢治研究者を私は誰一人見つけられずにいたからだ。続けて私は、 石灰は撒きすぎると田圃が固くなってよくない、とも聞くのですが。そして、実際にある篤農家に直接訊いてみたならば、「田圃に石灰を撒くことはかつても、今でもない」とも教わったのですが。
と話したならば館員の方は、 そのとおり固くなります。やり過ぎはよくありません。田圃に石灰を施与する人はあまりいないと思いますよ。畑は別ですが。
ということも教えてくれた。となれば、東北採石工場技師時代の賢治が頑張って売ろうとした「炭カル」は田圃にはあまり適していなかったし、場合によっては逆効果なこともあったし、そもそも当時農家の約六割を占めていた貧しい農民には「炭カル」を買う余裕がなかった。
よって、東北採石工場技師時代の賢治がは貧しい農民に「炭カル(炭酸石灰)」を安くしかも豊富に供給し、それを田圃に撒くことによって酸えたる土壌を中性にし、稲の収量を増してやったとは言い切れない。それは、農業関係の顕彰碑や頌徳碑には次のような方々、
・田中縫次郎
・島善鄰
・平賀千代吉
・平賀千代吉翁徳彰碑
・阿部博
・継枝弥平太
・菅木友次郎
の顕彰碑等が花巻周辺に結構見つかるが、「賢治は己の命まで犠牲にして農民のために尽くした」といわれているのにもかかわらず、賢治が農業に尽くしたことを顕彰した碑等は1基も見つからないことからも示唆される。
残念ながら、賢治はそれ程地元の農民から感謝されていたわけではなかったと言えそうだ。だから、
東北採石工場技師時代の賢治は貧しい農民のためにかなり献身した。
とも言えなさそうだ。
そこで私は改めて、やはり佐々木多喜雄氏のあの指摘、
「農聖」と讃えられる程の人物であるなら、生前ないし没後に神社にまつられるとか、頌徳碑や顕彰碑などが建立されて、その事跡をしのび後世に伝えられることなどが、一般的に行われることが多いと考えられる。…(投稿者略)…
一方賢治については、文学作品碑は各地に数多いが、農業の事跡を記念した神社や祠および頌徳碑などは一つもない。これは、すでにみた様に、後世に残し伝える程の農業上の事跡が無いことから当然のことと言えよう。〈『北農』第76巻第1号(北農会、平成21年1月1日発行)98p~>
という主張に納得した。 一方賢治については、文学作品碑は各地に数多いが、農業の事跡を記念した神社や祠および頌徳碑などは一つもない。これは、すでにみた様に、後世に残し伝える程の農業上の事跡が無いことから当然のことと言えよう。〈『北農』第76巻第1号(北農会、平成21年1月1日発行)98p~>
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『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))
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