みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

第四章 筑摩書房に異議申し立て(テキスト形式)

2024-04-08 16:00:00 | 「賢治年譜」等に異議あり
『筑摩書房様へ公開質問状 「賢治年譜」等に異議あり』(テキスト形式タイプ)

第四章 筑摩書房に異議申し立て
一 おかしいと思ったところはほぼ皆おかしかった
 ではここからは、〝序章 門外漢で非専門家ですが〟の続きである。
 さて、現「賢治年譜」等において、少なからず見つかる常識的に考えればこれはおかしいと思われる事柄について、基本的には「仮説検証型研究」という手法に依って調べてみたところ、常識的に考えておかしいと思ったところは、ほぼ皆いずれもおかしいということが実証できた。
 そのうちの主な事柄については、例えば、拙著『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版)の中の〝第一章 本統の宮澤賢治〟の、
2.「賢治神話」検証七点
  ㈠ 「独居自炊」とは言い切れない
  ㈡ 「羅須地人協会時代」の上京について
  ㈢ 「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」賢治
  ㈣ 誤認「昭和二年は非常な寒い氣候…ひどい凶作」
  ㈤ 賢治の稲作指導法の限界と実態
  ㈥ 「下根子桜」撤退と「陸軍大演習」
  ㈦ 「聖女のさましてちかづけるもの」は露に非ず
でも論じているので詳細はそちらで御覧いただくことにして、ここでは紙幅の都合上、以下に簡潔に述べてみたい。

 ㈠ 「独居自炊」とは言い切れない
「羅須地人協会時代」の賢治は独居自炊であった、これが通説であろう。ところが、
 千葉恭という人物が、大正15年6月22日頃~昭和2年3月8日までの少なくとも8か月間を賢治と一緒に暮らしていた。
ということを私は実証できたので、同時代の賢治は「独居自炊」であったとは言い切れない。

 ㈡ 「羅須地人協会時代」の上京について
 本書の第三章でも論じたように、大正15年の現定説、
 一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る。
は正しいとは言えず、この12月2日について言えることは、
 沢里武治〔、柳原昌悦〕に見送られながら上京(ただし、この時に「セロを持って」という保証はない)。
ということである。
 なおかつ、セロを持って上京した件についての真実は、
 みぞれの降る、昭和2年の11月頃、「沢里君、セロを持つて上京して来る。今度は俺も眞剣だ少なくとも三か月は滞京する」と言って花巻駅から上京。そして、約三か月間に亘るチェロの猛勉強の無理が祟って病気になって帰花した。
である。

 ㈢ 「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」賢治
 「羅須地人協会時代(2年4か月)」のうちの大正15年も、昭和3年もともに賢治の地元稗貫はヒデリの年であった。そこで、賢治は農民たちのために「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たというのが通説のようだが、そのようなことを裏付ける証言も資料も見つからない。つまり、同時代の賢治が「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たとは言い切れない。

 ㈣ 誤認「昭和二年は非常な寒い氣候…ひどい凶作」
 少なからぬ賢治研究者等が、「昭和二年は、多雨冷温の天候不順の夏だった」とか「未曾有の凶作だった」と断定しているが、そのような歴史的事実はなく誤認である。自ずから、同年に賢治が「サムサノナツハオロオロアル」いたはずがない。
 畢竟す(ひつきよう )るに、「羅須地人協会時代」の賢治にとっては、
  ヒデリノトキハナミダヲナガシ
  サムサノナツハオロオロアルキ
する必然性は乏しかった。

 ㈤ 賢治の稲作指導法の限界と実態
 「羅須地人協会時代」の賢治は、食味もよくて冷害にも稲熱病にも強いという陸羽一三二号を岩手の農民たちのために推奨し、貢献したというのが通説のようだ。
 しかしながら、同品種は金肥に対応して開発された品種だったから、当時の農家全体の約六割を占めていた小作農や自小作農(つまり貧しい農家)にとっては金肥の購入が容易ではなかったので、彼等のために貢献できたとは言い切れない。
 また、賢治は石灰の施用を奨め、特に「東北砕石工場技師時代」は、貧しい農民たちのために炭酸石灰を安く供給して酸性土壌の田圃を中性にさせ、稲の収量を増してやった、というのが通説のようだ。
 だが、本書の〝第二章 賢治の「稲作と石灰」について〟でも論証したように、そうであったとは言えない。それは、稲の最適土壌は中性でも、ましてアルカリ性でもなく、そもそも弱酸性~微酸性だからである。
 畢竟す(ひつきよう )るに、「羅須地人協会時代」や「東北砕石工場技師時代」の賢治の稲作指導法には始めから限界があり、当時の大半を占めていた貧しい農民たちのために貢献できたとは言い難い。

 ㈥ 「下根子桜」撤退と「陸軍大演習」
 賢治が昭和3年8月に実家へ戻った件については、
 心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稻作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母のもとに病臥す。
が通説のようだが、そうとばかりは言えない。
 それは、沢里武治宛書簡 243の中の一言「演習が終るころ」の「演習」とは、同年10月に行われた陸軍大演習であることはほぼ間違いないから、次のような、
〈仮説〉賢治は特高から、「陸軍大演習」が終わるまでは自宅に戻っておとなしくしているように命じられ、それに従って昭和3年8月10日に下根子桜(しもねこさくら)から撤退し、実家でおとなしくしていた。
を定立すれば、全てのことがすんなりと説明できることに気付くし、実際にこの仮説を検証できたからである。

 ㈦ 「聖女のさましてちかづけるもの」は露に非ず
 巷間、高瀬露が〈悪女〉であるとされる大きな理由の一つとして、賢治の詩〔聖女のさましてちかづけるもの〕が挙げられる。それは、露はクリスチャンだ、クリスチャンは聖女だ、だから「聖女のさましてちかづけるもの」のモデルは露であるという単純で安直な論理によってである。
 しかしこのモデルとしては、露のみならず別に伊藤ちゑも考えられる。なおかつ、賢治周縁の女性の中でクリスチャンかそれに近い女性は他にいないから、結局のところ、〔聖女のさましてちかづけるもの〕のモデルとして考えられる人物は露とちゑの二人であり、この二人しかいない。
 では、一体この二人の中でどちらが当て嵌まるのかというと、そのモデルは限りなくちゑである。なぜなら、
・賢治は昭和6年の7月頃、ちゑとならば結婚してもいいと思っていたが、そのちゑは賢治と結婚することを拒絶していたという蓋然性がかなり高い。
・それに対して露の方だが、賢治は昭和2年の途中から露を拒絶し始めていたということだし、しかも昭和3年8月に下根子桜(しもねこさくら)から撤退して実家にて病臥するようになったので露との関係は自然消滅したと一般に云われている。
から、
・ちゑ:賢治が「結婚するかも知れません」と言っていたというちゑに対して、その約2か月半後に、
・露:「レプラ」と詐病したりして賢治の方から拒絶したと云われている露に対して、その約4年後に、
どちらの女性に対して、あの、「なまなましい憤怒の文字」を連ねたと佐藤勝治が言っているところの、〔聖女のさましてちかづけるもの〕という詩を詠むかというと、それはほぼちゑに対してであるとなるのではなかろうか。とりわけ、ちゑは賢治との結婚を拒絶していたと判断できるからなおさらにだ。
 したがって、この昭和6年10月に詠んだ〔聖女のさましてちかづけるもの〕は、同年7月頃、ちゑとならば結婚してもいいと思っていたということが覗える賢治が、ちゑからそれを拒絶されて、自分の思い込みに過ぎなかったということを思い知らされた末の憤怒の詩だったと判断するのが極めて自然であろう。つまり、「聖女のさましてちかづけるもの」とは露のことではなくてちゑのことである、という蓋然性が極めて高いということであり、それ故に、〔聖女のさましてちかづけるもの〕のモデルは限りなくちゑである、と言える。
 よっておのずから、次の
 〈仮説〉「聖女のさましてちかづけるもの」は少なくとも露  に非ず。
が定立できることに気付くし、反例の存在も限りなくゼロだ。しかし、それでもやはりそれはちゑではなくて露だと主張したい方がいるのであれば、それを主張する前にちゑがそのモデルではないということをまず実証せねばならない。だが、その実証は今のところ為されていないので、この〈仮説〉の反例は実質的に存在していないと言えるから、現時点では限定付きの「真実」となる。言い換えれば、露をモデルにしているとは言い切れない一篇の詩〔聖女のさましてちかづけるもの〕を元にして、露を〈悪女〉にすることができないのは当然のことだ。

 というわけで、実際に検証してみればみるほど、おかしいと思ったところはほぼ皆おかしかった。だから、これらのことが、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだがそのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と、私の恩師岩田純蔵教授が嘆いていた事柄に当たるのだろうと推断できた。そしてこれで恩師からのミッションにはある程度応えられたかなと、いくばくか安堵したのだった。

二 検証結果についての評価や反応
 しかし、ここまでの私の一連の検証結果は、『新校本年譜』等の記載、あるいは通説や定説とはかなり異なっていたり、中には正反対だったりということで、そう簡単には世の中から受け容れてもらえないであろうことは充分に覚悟している。それは、もちろん先の㈠~㈦については自信はあるのだが、かつての私からしても、これらはいずれも皆荒唐無稽なことばかりだからでもある。
 さりながら、〝㈠ 「独居自炊」とは言い切れない〟については、このことを論じた自費出版の拙著『賢治と一緒に暮らした男│千葉恭を尋ねて│』を入沢康夫氏に謹呈したところ、

 これまでほとんど無視されていた千葉恭に御著によって、初めて光が当たりました。伝記研究上で、画期的な業績と存じます。(平成23年12月27日付入沢氏書簡)

という評をいただいた。

 また、〝㈡ 「羅須地人協会時代」の上京について〟も入沢氏からの支持があったから、この主張も案外いい線までいっているはずだと内心自信を持っている。それは何故かというと次のようなことがあったからだ。

 この私の主張は、いわば「賢治の昭和二年上京説」であり、それは拙ブログ『みちのくの山野草』においてかつて投稿した「賢治の10回目の上京の可能性」にも当たる。
 するとその投稿の最終回において入沢康夫氏から、
祝 完結 (入沢康夫)2012-02-07 09:08:09
「賢治の十回目の上京の可能性」に関するシリーズの完結をお慶び申します。「賢治と一緒に暮らした男」同様に、冊子として、ご事情もありましょうがなるべく早く上梓なさることを期待致します。
というコメントをいただいた。しかもご自身のツイッター上で、
入沢康夫 2012年2月6日
「みちのくの山野草」http://blog.goo.ne.jp/suzukishuhoku というブログで「賢治の10回目の上京の可能性」という、40回余にわたって展開された論考が完結しました。価値ある新説だと思いますので、諸賢のご検討を期待しております。
とツイートしていることも偶々私は知ったからである。つまり、同氏から、チェロ猛勉強のための「賢治の昭和二年上京説」に強力な支持を得ているものと私は認識している。

 あるいは、〝㈤ 賢治の稲作指導法の限界と実態〟に関しては、本書の〝第二章 賢治の「稲作と石灰」について〟で言及したように、拙ブログ『みちのくの山野草』の中で、ここ暫くコンスタントに閲覧数の最も多いのが、「稲の最適土壌は中性でも、ましてアルカリ性でもない」というタイトルの投稿(平成29年1月7日)である。
 ということは、このことに関しては、私の主張の中味の是非はさておき、多くの方々が興味・関心を、そして賢治の稲作指導に対する従来の評価に疑問を抱いているということを示唆していると考えられる。
 言い方を換えれば、賢治の稲作指導法の実態等についての誤解が世間には少なからずある、ということをこの閲覧数の多さが示唆していそうだ。

 そして、〝㈥ 「下根子桜」撤退と「陸軍大演習」〟に関しては、東北大学名誉教授大内秀明氏より次のような評をいただいている。

 ところで賢治の「真実」ですが、『賢治と一緒に暮らした男』の第一作に続き、今回はサブタイトル「賢治昭和二年の上京」に関しての『羅須地人協会の真実』でした。と同時にブログでは、「昭和三年賢治自宅謹慎」についての「真実」を、同じような仮説を立てての綿密な実証の手法で明らかにされています。この手法は、幾何学の証明を見るように鮮やかな証明です。実を言いますと、「昭和二年の上京」よりも、「昭和三年賢治自宅謹慎」の方が、現在の問題関心からすると、より強く興味を惹かれるテーマです。このテーマに関しても、すでにブログで「結論」を出されていますし、その後に『羅須地人協会の終焉―その真実』として、先著の補巻のような形で刊行されました。鈴木さんの問題の提起は、「澤里武治宛の宮沢賢治書簡」(昭和三年九月二三日付)の文章にあります。「お手紙ありがたく拝見しました。八月十日から丁度四十日の間熱と汗に苦しみましたが、やっと昨日起きて湯にもはいり、すっかりすがすがしくなりました。六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず疲れたままで、七月畑に出たり村を歩いたり、だんだん無理が重なってこんなことになったのです。演習がおわるころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかかります。休み中二度お訪ね下すったそうでまことに済みません」ここに出てくる演習について、その意味を探って行きます。以下、簡単に紹介させて貰いましょう。

 「賢治年譜」によると、昭和三年八月のこととして、心身の疲労にも拘らず、気候不順による稲作の不作を心配、風雨の中を奔走し、風邪から肋膜炎、そして「帰宅して父母のもとに病臥す」となっている。しかし、当時の賢治の健康状態、気象状況、稲作の作況など、綿密な検証により、「賢治年譜」は必ずしも「真実」を伝えるものではなく、事実に必ずしも忠実ではない。とくに「賢治の療養状態は、たいした発熱があったわけでもないから療養の傍菊造りなどをして秋を過ごしていた。」
 では、なぜ賢治が自宅の父母の元で療養したのか?
 「陸軍特別大演習」を前にして行われた官憲の厳しい「アカ狩り」から逃れるためであり、賢治は病気であるということにして、実家に戻って自宅謹慎、蟄居していた。
 「例えばそのことは、
  ・当時、「陸軍特別大演習」を前にして、凄まじい「アカ狩り」が行われた。
  ・賢治は当時、労農党稗和支部の有力なシンパであった。
  ・賢治は川村尚三や八重樫賢師と接触があった。
  ・当時の気象データに基づけば、「風の中を徹宵東奔西走」するような「風雨」はなかった。
  ・当時の賢治の病状はそれほど重病であったとは言えない。」

 以上が、「不都合な真実」に対する本当の「真実」です。ここでも羅須地人協会と賢治の活動の真実に基づく実像を明らかにする上で、大変貴重な検証が行われたと評価したいと思います。
〈『宮沢賢治の「羅須地人協会」 賢治とモリスの館十周年を     迎えて』(仙台・羅須地人協会代表大内秀明)31p~〉

 私としては、身に余る評価をいただきすぎて恐縮するばかりだが、私の主張は案外荒唐無稽なものでもなさそうだということを、お陰様で知って安堵した。

 という次第で、先の㈠~㈦等についてはさらに自信を持ったのだが、そこには構造的な問題も横たわっていそうだから、㈠~㈥等の評価がどう定まるかは歴史の判断に委ね、俟っていようと思っていた。

三 〈悪女・高瀬露〉は人権に関わる重大問題
 ただし、〝㈦ 「聖女のさましてちかづけるもの」は露に非ず〟についてはどうかというと、私は従来は次のように考えていた。

 しかし、巷間流布している〈高瀬露悪女伝説〉がもし捏造されたものであったとするならば、この件だけは歴史の判断に委ねていていいとは言えない。それは人権に関わる重大な問題であり、先の㈠~㈥等とは根本的に違い、喫緊の課題となるからである。
 そこで私はこの〝㈦〟を敷衍して、〈高瀬露悪女伝説〉を検証してみたところ、この伝説は捏造されたものであることを実証できた。懸念していたとおりであった。
 そこで、〈悪女・高瀬露〉は濡れ衣だということを世に訴えたいと願って、拙著『本統の賢治と本当の露』の〝第二章 本当の高瀬露〟でこのことを公にした。
 そして同書の「おわりに」において、

 だが一つだけ、決して俟っているだけではだめなものがある。それは、濡れ衣、あるいは冤罪とさえも言える〈悪女・高瀬露〉、いわゆる〈高瀬露悪女伝説〉の流布を長年に亘って放置してきたことを私たちはまず露に詫び、それを晴らすために今後最大限の努力をし、一刻も早く露の名誉を回復してやることを、である。もしそれが早急に果たされることもなく、今までの状態が今後も続くということになれば、それは「賢治伝記」に最大の瑕(か)疵(し)があり続けるということになるから、今の時代は特に避けねばならないはずだ。なぜなら、このことは他でもない、人権に関わる重大問題だからである。それ故、「賢治伝記」に関わるこの瑕疵を今までどおり看過し続けていたり、等閑視を続けていたりするならば、「賢治を愛し、あるいは崇敬している方々であるはずなのに、人権に対する認識があまりにも欠如しているのではないですか」と、私たち一般読者までもが世間から揶揄や指弾をされかねない。
 一方で露本人はといえば、
 彼女は生涯一言の弁解もしなかった。この問題について口が重く、事実でないことが語り継がれている、とはっきり言ったほか、多くを語らなかった。
〈『図説宮沢賢治』(上田哲、関山房兵、大矢邦宣、池野正樹
共著、河出書房新社)93p~〉
というではないか。あまりにも見事でストイックな生き方だったと言うしかない。がしかし、私たちはこのことに甘え続けていてはいけない。それは、あるクリスチャンの方が、「敬虔なクリスチャンであればあるほど弁解をしないものなのです」ということを私に教えてくれたからだ。ならば尚のこと、理不尽にも着せられた露の濡れ衣を私は一刻も早く晴らしてやりたいし、そのことはもちろん多くの方々も願うところであろう。
 まして、天国にいる賢治がこの理不尽を知らないわけがない。少なくともある一定期間賢治とはオープンでとてもよい関係にあり、しかもいろいろと世話になった露が今までずっと濡れ衣を着せ続けられてきたことを、賢治はさぞかし忸怩たる想いで嘆き悲しんでいるに違いない。それは、結果的に賢治は「恩を仇で返した」ことになってしまったからなおさらにだ。だから、「いわれなき〈悪女〉という濡れ衣を露さんが着せられ、人格が貶められ、尊厳が傷つけられていることをこの私が喜んでいるとでも思うのか」と、賢治は私たちに厳しく問うているはずだ。そこで私は、露の名誉回復のためであることはもちろんだが、賢治のためにも、今後も焦らず慌てずしかし諦めずに露の濡れ衣をいくらかでも晴らすために地道に努力し続けてゆきたい。
〈『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版)140p~〉

と決意を述べて、かなり肩の荷を降ろすことができた。

 すると、この『本統の賢治と本当の露』の出版もあったりしたからであろうか、森義真氏が行った講演『賢治をめぐる女性たち―高瀬露について―』(令和2年3月20日、矢巾町国民保養センター)において、同氏から、
 そうしたところに、上田さんが発表した。しかし、世間・世の中ではやっぱり〈悪女〉説がすぐ覆るわけではなくて、今でもまだそういう〈悪女〉伝説を信じている人が多くいるんじゃないのかなと。しかしそこにまた石を投げて〈悪女〉ではないと波紋を広げようとしているのが鈴木守さんで、この『宮澤賢治と高瀬露』という冊子と、『本統の賢治と本当の露』という本を読んでいただければ、鈴木さんの主張もはっきりと〈悪女〉ではないということです。はっきり申し上げてそうです。
とか、
 時間がまいりましたので結論を言います。冒頭に申し上げましたように、「高瀬露=〈悪女〉」というこれは本当に濡れ衣だと私は言いたい。それについては上田哲さんがまず問題提起をし、それを踏まえて鈴木守さんが主張している。それに私は大いに賛同します、ということです。
〈『宮沢賢治と高瀬露―露は〈聖女〉だった―』               (露草協会編、ツーワンライフ出版)8p~〉

と仰っていただいた。そしてまた、この講演録も所収した『宮沢賢治と高瀬露―露は〈聖女〉だった―』(森 義真、上田哲、鈴木守共著、露草協会編、ツーワンライフ出版)を『露草協会』から出版してもらった。

 これでやっと、恩師岩田教授からのミッションに対してはほぼ果し終えることができたかなと、私は胸をなで下ろしたのだった。それは、ここまで為し終えることができたので、〈悪女・高瀬露〉は濡れ衣であったということは今後次第に世間から受け容れられてゆくだろうから、以前に取り上げた〝㈠~㈥〟等と同様に、今後は歴史に委ね、焦らずに俟っていればいいのだと自分自身に言い聞かせることができたからである。……私はある時点まではこのように考えていた。

四 『校本全集第十四巻』も『事故のてんまつ』と同じ
 そう考えていたのだが、あることが切っ掛けで私はその考え方を変えた。俟っていてばかりではいけないのだ、とである。
 それは、筑摩書房の社史に、「倒産直前の筑摩書房は腐りきっていました」と書いてあったことを知ったことによってだ。それも、「腐っていました」ではなくて、「腐りきっていました(傍点筆者)」と書いてあったからである。 
 そんなある日のこと、私はこのことに関して高橋征穂(露草協会会長、古書店「イーハトーブ本の森」代表)先輩と話し合った。

鈴木 ところで、筑摩書房は一度倒産したということですが。
高橋 そうだったな。あれはいつ頃だったかな。
鈴木 実はこの度このような本、筑摩の社史『筑摩書房 それからの四十年』を手に入れました。これによるとここに、
 一九七八(昭和五三)年に筑摩書房が「倒産」
と書いてあります。
高橋 昭和53年のことだったか。そうそう、その頃の筑摩はどうかしていた。臼井吉見が、川端康成の自殺を題材にした小説『事故のてんまつ』を筑摩から出版したのだが、それが問題作で、筑摩と川端家との間ですったもんだがあったりしたからな。
鈴木 その出版は昭和52年ということでした。しかも同社史には、「倒産直前の筑摩書房は腐りきっていました」と、はっきりと書いてありましたので、まさに「腐りきって」いた昭和52年の出版だったのだと知り、私は愕然としました。
高橋 おぉ、「筑摩書房は腐りきっていました」と書いてあったか。自社の社史によくぞそこまで書けたな。ある意味、感嘆する。となれば、筑摩は昭和53年に倒産したのだし、昭和52年は倒産直前となる。しかもあの『事故のてんまつ』は臼井吉見らしからぬちょっとお粗末な作品だったから、『事故のてんまつ』の出版は「腐りきって」いたことの一つの現れだったとなりそうだ。
 なお、この件については川端家側からクレームがついて、筑摩は同書を絶版回収にし、謝罪するということで川端家側と和解したはずだったが。
鈴木 はい、私はそんな「絶版回収事件」があったということは今まで全然知らなかったのですが、そうなったようです。
 ところで、『事故のてんまつ』が出版された52年に、同じく筑摩から出版された賢治関連の本がありますが、さてそれは何でしょうか。
高橋 その頃といえば、旧校本全集が出版されていた頃だから、その第何巻かだろう。
鈴木 はいそのラスト、第十四巻です。
 どうも「新発見」とは言い難く、そうではなくて、高瀬露が亡くなるのを待って公表したとつい思いたくなってしまうんですが、「新発見の書簡252c」とセンセーショナルに表現して、関連する賢治の書簡下書群を公にした第十四巻です。
 のみならず、一般人である女性「高瀬露」の実名を顕わに用いて、「252cは内容的に高瀬あてであることが判然としている」と、その客観的な典拠も明示せずに、一方的に決めつけた第十四巻です。
 そのあげく、「推定は困難であるが、この頃の高瀬との書簡の往復をたどると、次のようにでもなろうか」と前置きして、「困難」なはずのものにも拘わらず、想像力豊かに推定し、スキャンダラスな表現も用いながら、人権侵害等の虞がある推定を延々と繰り返した推定群⑴~⑺を公開した同巻です。
 つまり、第十四巻はとんでもない横車を押していたのです。
高橋 おっ、かなり怒り心頭だな。
鈴木 だって、この「新発見の書簡 252c」等の公開と、「絶版回収事件」はともに倒産直前の昭和52年に起こっていることを始めとして、ほぼ同じ構図にあります。だから、『事故のてんまつ』の出版と同様に、「新発見の書簡 252c」等の公開も「腐りきって」いたことの一つの現れだと私は言いたいのです。
高橋 はたしてそこまで言えるかな。
鈴木 はい。その他にも次のようなことが言えるからです。
・両者とも、当事者である川端康成(昭和47年没)、高瀬露(昭和45年没)が亡くなってから、程なくしてなされました。
・その基になったのは、ともに事実ではないです。前者の場合は「伝聞の伝聞そのまた伝聞」で、後者の場合は賢治の書簡下書を元にして、推定困難なと言いながらも、それを繰り返した推定群⑴~⑺だからです。
・ともに、故人のプライバシーの侵害・名誉毀損と差別問題があります。
・ともに、スキャンダラスな書き方もなされています。
 よって、この二つはほぼ同じ構図にあります。
高橋 分かった分かった。ということであれば、たしかにそう言えるだろう。しかし、『事故のてんまつ』の出版は「腐りきって」いたことの一つの現れだとしても、『校本全集第十四巻』の出版までもがそうだったとは言い切れんだろう。
鈴木 そこなんです。実は、「新発見の書簡 252c」等の公開と似たような問題点が第十四巻には他にもあります。
 例えば、『新校本年譜』の大正15年12月2日について、

一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋武治がひとり見送る。……高橋は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた(*65)。
 *65 関『随聞』二一五頁の記述をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている。
                〈『新校本年譜』325p~〉

という記載があります。
高橋 なになに、「……要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている」という、なんとまあ奇妙な理屈でもってして、他人の記述内容を一方的に書き変えていることよ。ここでもまた、無茶な横車を筑摩は押していたのか。
 しかし、これは『新校本年譜』においてであって、『校本全集第十四巻』においてではないんだろう。
鈴木 そうなんですが、その第十四巻の大正15年12月2日の記載もこのとおりで、

 セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る。……沢里は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた。
     <『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)600p>

となっており、実質的に全く同じ内容です。
 しかも、よくよく調べてみましたならば、この内容の記載が「賢治年譜」に初めて現れたのは第十四巻でです。
高橋 ということは、昭和52年発行の第十四巻は、「大正一五年のことと改めることになっている」という横車を押して、「昭和二年十一月ころ」という証言を一方的に書き変えたということか。これじゃ、これも「倒産直前の筑摩書房は腐りきって」いたことの一つの現れだと言われても致し方がなかろう。
 この調子では後から後から似たようなことが出て来そうな虞があるから、「腐りきって」の「きって」の意味するところはそういうことかもしれんな。
鈴木 なるほど、そういうことなのですね。
高橋 とまれ、第十四巻では、先の「新発見の書簡 252c」等の安易な公開のみならず、他人の証言内容を勝手に書き変えていたということもあったのだから、こうなってしまうと、第十四巻の出版も「腐りきって」いたことの一つの現れだと言われても致し方がなかろう。言ってみれば、
『事故のてんまつ』の出版も、『校本全集第十四巻』の出版も、ともに「倒産直前の筑摩書房は腐りきって」いたということをはしなくも証明している。
ということ。要は、
『校本全集第十四巻』も『事故のてんまつ』と根っこは同じ。
だということだ。
鈴木 たしかにそうなりますよね。となれば、『事故のてんまつ』については絶版回収をして、「総括見解」も公にして詫びたわけですから、それと同様に、第十四巻についての「総括見解」も是非公にしてもらいたい、と私は筑摩にお願いしたいのですが。
高橋 たしかに、そうでなければ不公平だ。
 しかしこの社史を見ると、『事故のてんまつ』の担当編集者原田奈翁雄は、

 今回の経験を通じて、私どもは言論・表現・出版の自由を守ることの意味の深さをあらためて痛感すると同時に、その自由を守るためには、強い自恃と厳しい自戒の一層深く求められることを学び得たと考えております。
とか、
 原稿を目の前にしてそのような編集者の作業こそ、実は作家にとってもなくてはならぬ協力なのである。私の原稿の読み方は、その点において大いに欠けるものであり、いたらぬものであったというほかない。
〈『筑摩書房 それからの四十年』(永江朗著、筑摩選書)112p~〉

と述べており、己と自社を厳しく総括し、公的にも詫びているではないか。
 となれば、第十四巻の担当編集者等もその後同様に厳しく総括していたのではないのか。
鈴木 残念ながらそういうことはなさそうです。というのは、大正15年12月2日の「賢治年譜」の記載が、先に引用しましたように、昭和52年出版の第十四巻でも、平成13年出版の『新校本年譜』でも実質的には全く同じ内容ですから、総括などはしておらず、横車を押したことについては素知らぬふりをしているということになるのではないでしょうか。
 それは、「「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている」と書いておきながら、本来は書かれるべきはずの「少なくとも三か月は滞在する」という証言部分を両者とも書いていないことからも明らかだと思います。
高橋 そっかそっか。ということは、『新校本年譜』が、「……改めることになっている」というまるで他人事かの如き表現を用いていたのは、『新校本年譜』の担当者が、『旧校本全集第十四巻』の年譜担当者の記載に対して遠慮があって、おかしいとは言えなかったということの裏返しか。
鈴木 なるほど、その可能性大ですね。
高橋 もしかすると確信犯かもしれんぞ。
鈴木 あっ、そう言われて気付いたのですが、このことに関連している、『校本全集第十三巻』の次のような「注釈*5」があります。

*5 ……さらに沢里武治が大正十五年十二月の上京時に一人で賢治を見送った記憶をもつのに対し、柳原昌悦もチェロを携えた賢治の上京を送った記憶を別にもっている。これらのことから、チェロを習いに上京したことが、昭和二年にもう一度あったとも考えられるが、断定できない。
      <『校本宮澤賢治全集 第十三巻』(筑摩書房)569p>

 これは、宮澤政次郎宛書簡221の中の注釈なのですが、「柳原昌悦もチェロを携えた賢治の上京を送った記憶を別にもっている」というのです。この注釈に従えば、柳原は上京する賢治を送ったことがあるということになります。ということであれば、第十三巻が「昭和二年にもう一度あったとも考えられるが」と問題提起をして、なおかつ「断定できない」と断り書きをしているわけですから、関係者はそのことを次回への大きな課題だと認識していなかった訳がないはずです。
 しかし、その課題に筑摩書房が真剣に取り組んだことを裏付けてくれる客観的な資料等は見つかりません。ちなみに、
  『旧校本全集第十三巻』(書簡篇)の発行は昭和49年
  『新校本全集第十五巻書簡校異篇』の発行は平成7年
  柳原昌悦(平成元年2月12日没)
  沢里武治(平成2年8月14日没)
ですから、『旧校本全集』発行~『新校本全集』発行の間には時間的にかなり余裕がありました。
 一方で、「羅須地人協会時代」の賢治の上京について、柳原昌悦が、

「一般には沢里一人ということになっているが、あの時は俺も沢里と一緒に賢治を見送ったのです。何にも書かれていないことだけれども」
〈『本統の賢治と本当の露』147p〉

ということを、柳原と職場の同僚であった菊池忠二さんに教えてくれたそうです。
 よって、筑摩が本気で調べようとすればかなりの程度のことを沢里や柳原本人からも直接訊くことだってできたはずです。ところが現実は、この『新校本全集 第十五巻書簡校異篇』の「注釈*5」は、『校本全集第十三巻』の注釈と番号まで含めてまったく同じものであり、一言一句変わっていません。よって、これは、為すべきことが為されていないことの証左です。となれば、やはり確信犯ということか……。

五 強く異議申し立てをすべし
高橋 結局、昭和52年の『事故のてんまつ』の出版も、『校本全集第十四巻』の出版もともに「腐りきっていた」典型的な事例であったと言えるということだ。
 しかし、前者ではそれを厳しく総括したのだが、後者では全くそうではなかったということになる。となれば、遅ればせながら、まずは筑摩は第十四巻の総括をし、次にその「総括見解」を公にすることが筋であろう。
 ではその際に、主にどんなことに関して総括せねばならぬのか、具体的に挙げてみてくれんか。
鈴木 そうですね、現時点では、少なくとも次のような三つの事柄についてだと思います。
 まず一つ目が、先ほど高橋さんが「安易な」と形容された、それこそ、「新発見の書簡 252c」等の安易な公開についてです。
高橋 たしかにこの公開については、人権に関わることでもあるというのに、筑摩は安易で慎重さに欠けていた。その根拠も明らかにしておらず、推定にすぎないものだらけ。にもかかわらず、筑摩が断定的に書いたものだから、研究者も含めて一般読者もその推定を事実と思い込んだ。その結果、それまでは一部の人にのみ知られていた〈悪女伝説〉が、一気に〈高瀬露悪女伝説〉に変身して全国に流布してしまったと言えるからな。
鈴木 同時に悔やまれるのが、これらの一連の書簡下書群の安易な公開によって結果的に、賢治には従来のイメージとは正反対の、「背筋がひんやりしてくるような冷酷さ」があったということを世に知らしめてしまい、賢治のプライバシー権を侵害したことです。
高橋 これでは、筑摩は露のみならず、あまつさえ賢治までも貶めていると言われかねない。
鈴木 では二つ目ですが、それは、『新校本年譜』の大正15年12月2日の記載に関してで、例の「注釈*65」の仕方についてです。
高橋 そりゃたしかにそうだわな。さっき、
 昭和52年発行の第十四巻は、「大正一五年のことと改めることになっている」という横車を押して、「昭和二年十一月ころ」という証言を一方的に書き変えたということか。
と言ったように、その根拠も明示せずに他人の記述内容を一方的に書き変えているというのだから。出版社がこんなことをするということは、それこそ自殺行為だ。
鈴木 そして、最後の三つ目が次のことについてです。
 第十四巻は昭和2年の記載の中で、

七月一九日(火) 盛岡測候所福井規矩三へ礼状を出す(書簡231)。福井規矩三の「測候所と宮沢君」によると、
「昭和二年は非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であった……」

という記載をしています。そしてたしかに、福井は「測候所と宮澤君」において、「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた」(『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店、317p)と述べています。
 そこで、多くの賢治研究家等がこのことは歴史的事実だと信じ込み、それに基づいた論考を著しています。しかし、この福井の証言内容は事実ではありません(このことについては、『本統の賢治と本当の露』の65p~の〝㈣ 誤認「昭和二年は非常な寒い氣候…ひどい凶作」〟を御覧いただきたい)。
高橋 つまり、鈴木君がしばしば口にする、あの石井洋二郎の戒め、「必ず一次情報に立ち返って」という研究における大原則を、彼等は蔑ろにしていると言いたいのだな。
鈴木 はい。石井氏が、

 あやふやな情報がいったん真実の衣を着せられて世間に流布してしまうと、もはや誰も直接資料にあたって真偽のほどを確かめようとはしなくなります。…(筆者略)…しかし、こうした悪弊は断ち切らなければなりません。あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること、この健全な批判精神こそが、文系・理系を問わず、「教養学部」という同じ一つの名前の学部を卒業する皆さんに共通して求められる「教養」というものの本質なのだと、私は思います。
〈「平成26年度教養学部学位記伝達式式辞」(東大教養学部長石井洋二郎、「東大大学院総合文化研究科・教養学部」HP総合情報)〉

と憂えていたことがまさにここでも起こっていた、ということが否定できません。
 ということで、以上の三つの事柄について、筑摩は少なくとも「総括見解」を公にしてほしいです。
高橋 それでは、私、露草協会の会長としては四つ目として付け加えてほしいものがある。それは第十四巻の「賢治年譜」中の昭和2年についての、安易な論理に頼った次の記載についての「総括見解」もだ。

秋〔推定〕森佐一(荘已池)「追憶記」によると、「一九二八年の秋の日」、村の住居を訪ね、途中、林の中で、昂奮に真赤に上気し、ぎらぎらと光る目をした女性に会った。…筆者略…(「一九二八年の秋の日」とあるが、その時は病臥中なので本年に置く。)
〈『校本全集第十四巻』622p〉

 つまり、森は昭和3年のことだとしているのに、「その時は病臥中なので」という安直な理屈で、第十四巻は昭和2年のことだと決めつけているからだ。
鈴木 たしかにこれもおかしいですよね。その年、昭和3年の秋に賢治は豊沢町の実家で病臥していたわけですから「村の住居」にはもはや居らず、森のこのような訪問は不可能であり、「一九二八年の秋」という記述は致命的ミスであることは明らかですが、さりとて、大正15年のことだったということもあり得ますからね。
高橋 そしてそもそも、大前提となるそのような「下根子桜(しもねこさくら)訪問」自体がたしかにあったという保証も、第十四巻は何ら示せていない。よって、それを「一九二七年の秋の日」と書き変えるのはあまりにも安易だ。
 そしてその一方で、「倒産直前の筑摩書房は腐りきっていました」ということについてだが、それはなにも、突然倒産直前に腐り始め、そしてあっという間に腐りきったということではなかろう。そうではなくて、それ以前からそのような土壌が少しずつ造られていったとも考えられるわけで、そのこともあって、「追憶記」のことを引き合いに出したのだ。
鈴木 仰るとおりですよね。私も、この「追憶記」については以前少しく調べたことがあります。ちなみに、それが所収されているのは、昭和9年発行『宮澤賢治追悼』にであり、

 一九二八年の秋の日、私は村の住居を訪ねた事があつた。途中、林の中で、昂奮に眞赤に上氣し、ぎら〳〵と光る目をした女性に會つた。家へつくと宮澤さんはしきりに窓をあけ放してゐるところだつた。
――今途中で會つたでせう、女臭くていかんですよ……
  <『宮澤賢治追悼』(草野心平編輯、次郎社、昭和9年1月)33p>

と記載されていました。つまり、昭和9年頃でさえも「一九二八年の秋の日」と記されております。
 ということは、下根子桜(しもねこさくら)を訪ねたのが昭和3年の秋にせよ、「現通説」である同2年の秋にせよ、それから約5年半~6年半後に出版された『宮澤賢治追悼』に所収されてこの「追憶記」は活字になっているわけですから、それはそれ程昔の出来事ではないです。したがって、その年を本来ならば昭和2年と書くべきところを昭和3年と不用意に書き間違えたとは普通は考えにくいです。
 まして昭和9年と言えば、森は岩手日報社の文芸記者として頻繁に賢治に関する記事を学芸欄に載せるなどして大活躍していた時期です。そのような記者が、賢治を下根子桜(しもねこさくら)に訪ねた年次を、その訪問時から6年前後の時を経ただけなのに間違えてしまったというケアレスなミスを犯してしまったというのでしょうか。
 しかも、この訪問時期について森は、『宮澤賢治研究』(昭和14年)でも、そして『宮沢賢治の肖像』(昭和49年)でも「一九二八年の秋」としていて、いずれにおいても、「一九二七年の秋」とはしていないのです。あまりにも不自然です。
高橋 ついてはそのようなことも懸念されるので、まずは、「その時は病臥中なので」という理屈がはたして妥当だったのかということについての総括を、第十四巻の担当編集者等はせねばならないということだ。なにしろ、この書き変えが〈露悪女伝説〉という濡れ衣に直結しているとも言えるのだから。そしてまた、一方の『事故のてんまつ』の編集担当者原田奈翁雄の場合は厳しく総括を行ったのだから。
鈴木 これで私もいよいよ決心がつきました。これらのことを一冊にまとめた本を出版し、筑摩書房に対して、
『事故のてんまつ』の場合と同様に、『校本宮澤賢治全集第十四巻』についても「総括見解」を公にしていただけないでしょうか。
と、お願いすることが私の最後の責務であると自覚し、今後取り組んでみます。
高橋 しかしこの段階に至った以上は、もはやお願いレベルではもうだめだ。おかしいことはおかしいと、鈴木君は正々堂々と筑摩に強く異議申し立てをすべき時期がやってきたということだ。
 ついては、その本の中で、
 筑摩書房は、『校本宮澤賢治全集第十四巻』の出版についての「総括見解」をまずは公にせよ。
と声を大にして強く異議申し立てをしてくれ。それはとりもなおさず、賢治研究の発展のためにもなるのだから。
鈴木 「賢治研究の発展のためにも」ですか。そうですね、恩師岩田教授からのミッションはそのことまで含んでいるかもしれませんね。
 とはいえ、決心はしてみたものの、具体的にはさてどうすればいいのかと悩んでしまいます。
高橋 なあに、難しく考える必要はないさ。ここまで話し合ってきたような事柄等を取り纏めて一冊の本にして出せばいいだけのことだ。多分そのような事柄に気付いている人も少なからずいるのだろうが、それぞれ諸般の事情があって、そのようなことは公的には言えんのだろう。しかし鈴木君は門外漢なのだから誰にも遠慮はいらん。ここまで話し合ってきたような事柄を包み隠さず正直に書いて、異議申し立てをし、世に問えばいいのだ。それだけでも十分に意義はある。
鈴木 えっ、しゃれですか。

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☆『筑摩書房様へ公開質問状 「賢治年譜」等に異議あり』(鈴木 守著、ツーワンライフ出版、550円(税込み))

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《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

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