みちのくの山野草

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「私たちは今問われていないか―賢治と〈悪女〉にされた露―」

2022-07-22 11:00:00 | 鈴木守著作
『宮沢賢治と高瀬露―露は〈聖女〉だった―』の中の第三章である、
  Ⅲ 私たちは今問われていないか―賢治と〈悪女〉にされた露―  鈴木 守
を今回は投稿する。
















*****************************************************以下はテキストタイプ********************************************************

  私たちは今問われていないか
      ―賢治と〈悪女〉にされた露―
                  鈴木 守
一 はじめに
 宮澤賢治が生前血縁以外の女性の中で最も世話になったのが高瀬露である。ところが現実は、露はとんでもない〈悪女〉にされていて、いわゆる〈高瀬露悪女伝説〉が全国に流布しているというのが実態である。しかし、少しく調べてみただけでもそうとは言えなさそうであることに私は気付く。
 たとえば、賢治の主治医だったとも言われている佐藤隆房は、

 桜の地人協会の、会員といふ程ではないが準会員といふ所位に、内田康子(高瀬露:筆者註)さんといふ、たゞ一人の女性がありました。…(筆者略)…
 来れば、どこの女性でもするやうに、その辺を掃除したり汚れ物を片付けたりしてくれるので、賢治さんも、これは便利と有難がつて、
「この頃は美しい会員が来て、いろいろ片付けてくれるのでとても助かるよ。」
と、集つてくる男の人達にいひました((一))。

と述べていて、これに基づけば、露は〈悪女〉どころかその逆である。さらに、『新校本宮澤賢治全集第六巻詩Ⅴ校異篇』によれば、

 この歌の原曲は…(筆者略)…「いづれのときかは」で、賢治が愛唱した讃美歌の一つである。宮沢清六の話では、この歌は賢治から教わったもの、賢治は高瀬露から教えられたとのこと((二))。

ということだから、賢治の弟清六は、賢治は露から讃美歌を教わっていたということを証言していたことになる。また清六は、

 私とロシア人は二階へ上ってゆきました。
 二階には先客がひとりおりました。その先客は、Tさん(高瀬露:筆者註)という婦人の客でした。そこで四人で、レコードを聞きました。…(筆者略)…。レコードが終ると、Tさんがオルガンをひいて、ロシア人はハミングで讃美歌を歌いました。メロデーとオルガンがよく合うその不思議な調べを兄と私は、じっと聞いていました((三))。       

ということも証言している。
 つまりこれらの証言等からは、賢治は露からとても世話になっていたということや、当時、賢治と露はオープンで親密なよい関係にあった、ということが導かれる。
 そしてもう一つ大事なことがある。それは、露は一九二一年(一九歳の時)に洗礼を受け、遠野に嫁ぐまでの一一年間は花巻バプテスト教会に通い、結婚相手は神職であったのだが、夫が亡くなって後の一九五一年にカトリック遠野教会で洗礼を受け直し、「五〇年の長きにわたって信仰の生涯を歩み通した」クリスチャンであった((四))、ということがである。
 したがってこれらのことから判断すれば、露が〈悪女〉にされるということは常識的には考えにくい。

二 未完に終わった上田哲の論文
 ところが、二〇〇七年に出版されたある本((五))では、

 感情をむき出しにし、おせっかいと言えるほど積極的に賢治を求めた高瀬露について、賢治研究者や伝記作者たちは手きびしい言及を多く残している。失恋後は賢治の悪口を言って回ったひどい女、ひとり相撲の恋愛を認識できなかったバカ女、感情をあらわにし過ぎた異常者、勘違いおせっかい女……。

と、はたまた、二〇一〇年に出版された別の本((六))でも、

 無邪気なまでに熱情が解放されていた。露は賢治がまだ床の中にいる早朝にもやってきた。夜分にも来た。一日に何度も来ることがあった。露の行動は今風にいえば、ややストーカー性を帯びてきたといってもよい。

というように典拠も明示せずに、人権が何よりも優先されるようになった昨今でも、何の躊躇いもなさそうに露をとんでもない〈悪女〉にしているという実態が相変わらずある。よって、〈高瀬露悪女伝説〉はやはり全国に流布したままであると言える。
 またもちろん、先の清六の証言内容等と、それとは正反対とも言える、露の人格を貶め、尊厳を傷つけているとしか思えないようなこれらの記述との間には矛盾がある。よって、これらの典拠は一体何かということが問われるとともに、この実態にはかなりの問題が横たわっているということが示唆される。
 そこで私は、関連する論考等を探し廻ったのだが、〈悪女・高瀬露〉(以降、「〈悪女〉にされた高瀬露」のことを意味する)に関して学究的に取り組んでいる賢治研究家の論考等はなかなか見つからなかった。そしてやっと見つかったのが、上田哲の「「宮沢賢治伝」の再検証㈡―〈悪女〉にされた高瀬露―」というタイトルの論文だった。彼は、新たな証言や客観的資料等を発掘してこの〈悪女・高瀬露〉を再検証してみたところそれは冤罪的伝説であったということが実証できたということで、一九九六年に『七尾論叢 第一一号』(七尾短期大学)上にそのことを発表したのが同論文である(この件に関しての嚆矢となったものであり、しかもほぼ唯一のものだ。現在に至っても、このことに関する他の研究者の本格的な論考等は見つからないからである)。
 ただしどういうわけか、同論文は未完で終わっている。ちなみに、同論文の最後は「(この章未完)」となっている。そしてこの論文はその後完成されぬままに、上田は鬼籍に入られた。しかも、他の号は結構いくつかの図書館等で所蔵されているのだが、この『第一一号』だけはまず見つからない。したがって、現実的には同論文を読むことはなかなかできない。ところが、私は幸いにもある方からこの『第一一号』を譲っていただいた。そこで同論文を参考にさせて貰い、さらに新たな証言等を付け加えたりして、できれば上田の遺志を継ぎたいと願いながら、〈悪女・高瀬露〉の再検証をしてみたのが本論文である。

三 「下敷」の検証
 さて上田は同論文で、

 高瀬露と賢治のかかわりについて再検証の拙論を書くに当たってまず森荘已池『宮沢賢治と三人の女性』(一九四九年(昭和24)一月二五日 人文書房刊)を資料として使うことにする。…(筆者略)…一九四九年以降の高瀬露と賢治について述べた文篇はほとんどこの森の本を下敷にしており((七))

と述べていたので、私も実際当該の「文篇」を渉猟してみたところたしかにそのとおりだった。
 ところが、「下敷」になっている『宮澤賢治と三の人女性』における露に関する記述内容には、信憑性が危ぶまれる箇所が少なくないことを知った。例えば、

 彼女は彼女の勤めている学校のある村に、もはや家もかりてあり、世帯道具もととのえてその家に迎え、いますぐにも結婚生活をはじめられるように、たのしく生活を設計していた((八))。

という記述がそれだ。
 当時の露は寶閑小学校に勤めていたのだが、その時の露の教え子である鎌田豊佐に私は直接会うことができ(二〇一二年一一月一日)て、「当時、露先生は西野中の高橋重太郎さん方に下宿しておりました」と教わった。さらに、その下宿の隣家の高橋カヨからは、

 寶閑小学校は街から遠いので、先生方は皆「西野中の高橋さん」のお家に下宿していました。ただし賄いがつかなかったから縁側にコンロを持ち出して皆さん自炊しておりましたよ((九))。

ということも教わった(上田はこれらのことは同論文では明らかにしていない)。
 さてそうなると、その下宿は賄いがつかなかったから寝具のみならずその他に自炊するための炊事用具一式等も必要だったということになる。そこで、一部の口さがない人たちが露のこのような下宿の仕方を伝え聞いて、「もはや家もかりてあり、世帯道具もととのえてその家に迎え、云々」と男女間の下世話にし、そのような「風聞」を森はそのまま活字にしてしまったという蓋然性が高い。なぜならば、その典拠がそこには何ら書き添えられていないからだ。
 さらに同書には、

 彼女の思慕と恋情とは焔のように燃えつのつて、そのため彼女はつい朝早く賢治がまだ起床しない時間に訪ねてきたり、一日に二回も三回も遠いところをやつてきたりするようになつた((十))。

ということも述べられているが、当時の露の勤務先の寶閑小学校は現「山居公民館」の直ぐ近く、下宿は現「鍋倉ふれあい交流センター」の直ぐ近くにそれぞれあった(上田は、これらの場所は同論文では明らかにしていない)から、「露の下宿→下根子桜(宮澤家別宅)」へ最短時間で行くとなれば、そのルートと所要時間は当時の花巻電鉄「鉛線」の『列車時刻表』((十一))等によれば、
露の下宿~約15分~寶閑小学校~約45分~二ッ堰駅~鉛線約25分~西公園駅~約20分~露の生家~約15分~下根子桜
となっただろうから、最短でも往復約四時間はかかる(上田は、「当時往復するだけで二時間前後はかかるのである」と同論文で述べている)。したがって、「一日に三回もやってきた」となれば往復するだけでも最低一二時間は要したであろうし、前掲の時刻表を見てみると、「二ッ堰駅」の始発発時刻は午前5:44で、「西公園駅」の終電発時刻は午後8:22だから、そのようなことの可能性は限りなくゼロに近い。
 だからそうではなくて、露が週末や長期休業中に生家に戻って来ていた際にであれば、「一日に三回もやってきた」ことはあり得る。がしかし、それでは「遠いところをやってきた」ということにはならない。露の生家(上田は、同論文でその住所名を明らかにしているが、そこが地理的にどこであったかは明らかにしていない。ちなみにそこは、向小路の北端であることを私は明らかにできた)と下根子桜の宮澤家別宅との間は約一㎞、直ぐ近くと言ってよい距離だからだ。したがって、露が「一日に二回も三回も遠いところをやつてきたりするようになつた」という記述もまた「風聞」であったという蓋然性が高い。
 では、いわゆる「ライスカレー事件」(上田の論文はこの「事件」のところで、未完のまま終わってる)についてだが、当時賢治の許にしばしば出入りしていた高橋慶吾の「賢治先生」によれば、

(露が)或る時、先生が二階で御勉強中訪ねてきてお掃除をしたり、台所をあちこち探してライスカレーを料理したのです。恰度そこに肥料設計の依頼に数人の百姓たちが来て、料理や家事のことをしてゐるその女の人をみてびつくりしたのでしたが、先生は如何したらよいか困つてしまはれ、そのライスカレーをその百姓たちに御馳走し、御自分は「食べる資格がない」と言つて頑として食べられず、そのまゝ二階に上つてしまはれたのです、その女の人は「私が折角心魂をこめてつくつた料理を食べないなんて……」とひどく腹をたて、まるで乱調子にオルガンをぶか〳〵弾くので先生は益々困つてしまひ、「夜なればよいが、昼はお百姓さん達がみんな外で働いてゐる時ですし、そう言ふ事はしない事にしてゐますから止して下さい。」と言つて仲々やめなかつたのでした((十二))。

というような、ライスカレーにまつわる事件があったという。
 さてこの証言に基づけば、当日は少なくとも二~三人の来客があったのだから賢治の分も含めれば、最低でも三人分のライスカレーを露は作っていたことになる。ところが、当時賢治と一緒に暮らして炊事等も手伝っていたという千葉恭は、「台所は裏の杉林の中…(筆者略)…燃料はその辺の雑木林の柴を取つて来ては焚いてをられました。食器も茶碗二つとはし一ぜんあるだけです((十三))」と証言しているから、露が三人分以上のライスカレーをそこで作るということは大変なことだったはずだ。にもかかわらず、賢治は突如自分の都合が悪くなったので頑なにそれを食べることを拒否したというのであれば、仮に露が「私が折角心魂をこめてつくつた料理を食べないなんて……」と詰(なじ)ったとしても、そして心を落ち着かせるためにオルガンを弾いたとしてもそれは至極当たり前のことであり、その責めは賢治にこそあれ露には殆どなかろうから、このような「事件」で露だけを〈悪女〉にすることはもちろんできなかろう。
 では次に、森が『宮澤賢治と三人の女性』において伝えているところの同「事件」を一部引用してみよう。例えば、

 ひとびとはぎこちなく息をのんで、カレーライスに目を落したり、彼と彼女とを見たりした。ひとびとが貪((ママ))べはじめた。――だが彼自身は、それを食べようともしなかつた。彼女が是非おあがり下さいと、たつてすすめた。――すると彼は、
「私には、かまわないで下さい。私には、食べる資格はありません。」
と答えた。
 悲哀と失望と傷心とが、彼女の口をゆがませ頬をひきつらし、目にまたたきも与えなかつた。彼女は次第にふるえ出し、真赤な顔が蒼白になると、ふいと階下に降りていつた。
 降りていつたと思う隙もなく、オルガンの音がきこえてきた。…(筆者略)…その楽音は彼女の乱れ砕けた心をのせて、荒れ狂う獣のようにこの家いつぱいに溢れ、野の風とともに四方の田畠に流れつづけた。顔いろをかえ、ぎゆつと鋭い目付をして、彼は階下に降りて行つた。ひとびとは、お互いにさぐるように顔を見合わせた。
「みんなひるまは働いているのですから、オルガンは遠慮して下さい。やめて下さい。」
 彼はオルガンの音に消されないように、声を高くして言つた。――が彼女は、止めようともしなかつた((十四))。

とある。ただし、この時に森がそこに居合わせたということを彼自身は述べていないから、この記述の元になったのは殆ど前掲の慶吾の証言であろうし、それ以外の人の証言は見つからない。しかも、慶吾は「悲哀と失望と傷心とが、……ふいと飛び降りるように」とか、「降りていつたと思う隙もなく、……ひとびとは、お互いにさぐるように顔を見合わせた」とかというようなことはそこでは述べていない。そのようなこともあってだろうか、佐藤通雅はこの引用部分のことを指して、

 このカレー事件の描写は、あたかもその場にいあわせ、二階のみならず階下へまで目をくばっているような臨場感がある。しかしいうまでもなく、両方に臨場することは不可能だ。…(筆者略)…見聞や想像を駆使してつくりあげた創作であることは、すぐにもわかる((十五))。

と明快に断じていて、先の引用部分には森の手による創作があったと、私も同様の判断している。
 というわけで、この「ライスカレー事件」を始めとして、『宮澤賢治と三人の女性』における露に関する記述にはあやふやなことが少なくないから、検証や裏付けもなしにこれを「宮澤賢治伝」の研究のための資料に資することはできない。
 なお、今まで考察してきたこと以外のことで、当時賢治と露に関して巷間どんなことが噂されていたかというと、前掲の高橋慶吾の「賢治先生」や関登久也の「返禮」(『宮澤賢治素描』所収)等によれば、
・賢治は顔に灰(一説に墨)を塗って露に会った。
・賢治は一〇日位も「本日不在」の表示を掲げた。
・賢治は露に対して癩病と詐病した。
・賢治は襖の奥(一説に押し入れ)に隠れていた。
・賢治が露に布団を贈った。
などという噂が流されていたということを知ることができる(上田哲はこれらのことについては同論文で詳しく論じている)。ただし、今となってしまってはこれらの真偽の程は判りにくいが、仮にこれらの行為が事実だったとしても冷静に考えてみれば、いずれも賢治の奇矯な行為だなどと言われこそすれ、これらの噂で露独りだけが一方的に〈悪女〉にされたとすればそれはアンフェアなことだ。
 しかも、高橋慶吾によれば、賢治の父政次郎もこの件に関して、

 その苦しみはお前の不注意から求めたことだ。初めて会つた時にその人にさあおかけなさいと言つただらう。そこにすでに間違いのもとがあつたのだ。女の人に対する時、歯を出して笑つたり、胸を拡げてゐたりすべきものではない((十六))。

と賢治を叱責して反省を求めたということであり、関登久也も同様なことを『宮澤賢治物語』で述べている((十七))。さらに、政次郎ととても親しかった賢治研究家の小倉豊文も、このことに関連して次のように述べている。

 それらを知った父政次郎翁が「女に白い歯を見せるからだ」と賢治を叱責したということは、翁自身から私は聞いている((十八))。

 したがってこれらの証言等から、この件に関しては賢治にほとんどの責任がある、というような叱責を賢治は父から受けたということはほぼ確実だろう。
 さて、さらに大問題となるのが、『宮澤賢治と三人の女性』の中の、

 一九二八年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであつた。国道から田圃路に入つて行くと稲田のつきるところから((十九))、

における「一九二八年の秋」という記述であり、これは致命的なミスだ。その頃既に賢治は豊沢町の実家に戻って病臥していて下根子に居なかったので、これはあり得ない話となるからだ。
 そこでどうしたかというと、いわゆる『新校本年譜』は、

 「一九二八年の秋の日」とあるが、その時は病臥中なので本年に置く((二十))。

と注記し、「一九二七年の秋の日」の間違いであったと見做していて、これが通説となっている。たしかに、『宮澤賢治と三人の女性』は一九四九年発行だから、「一九二八年の秋の日」と記述するところのその訪問はそれよりも約二〇年も前のことなので、森の記憶違いであり、ケアレスミスであったということは十分に考えられる。
 ところが、森は一九三四年発行の『宮澤賢治追悼』でも、『宮澤賢治研究』(一九三九年)でも、そして『宮沢賢治の肖像』(一九七四年)でもこの訪問時期については一様に「一九二八年の秋」としている。となれば、これはもはやケアレスミスとは言えまい。
 次に、『宮澤賢治と三人の女性』で西暦と和暦がどう使われているかも調べてみた。すると、全体では和暦が三九ヶ所もあったのだが、西暦は一ヶ所しかなく、それがまさに件(くだん)の「一九二八年の秋の日、私は下根子云々」の箇所だった。しかも、同じ年の和暦表現である「昭和三年」を他の五ヶ所で使っているというのに、だ。したがって、この件(くだん)の箇所だけは西暦で「一九二七年」とも、和暦で「昭和三年」とも書くわけにはいかなかったと判断せざるを得ない(言い換えれば、森の「下根子桜訪問」は通説となっている「一九二七年」でもなければ、はたまた「昭和三年」でもなかったとほぼ言えそうだ)。
 では、なぜ彼は通説となっている「一九二七年の秋の日」と書くわけにはいかなかったのだろうか。このことに関しては、道又力の『文學の國いわて』等によれば、

 東京外国語学校へ入学した森荘已池は…(筆者略)…心臓脚気と結核性肋膜炎を患ってしまう。仕方なく学校を中退して、盛岡で長い療養生活に入る。
 昭和三年六月、病の癒えた荘已池は、盛岡中学時代から投稿を重ねていた岩手日報へ学芸記者として入社。会社までは家の前のバス停から通勤できるので、病み上がりの身には大助かりだった。((二十一))

ということであり、森は病気になって一九二六年一一月に帰郷、その後盛岡病院に入院したりして長期療養中だった。しかも、快癒したという一九二八年六月以降でさえも彼は、「会社までは家の前のバス停から通勤できるので、病み上がりの身には大助かりだった」というくらいなのだから、病が癒える前の、通説となっている「一九二七年の秋の日」の下根子桜訪問が実際に行われたということは考えにくい。
 ならばいっそのこと、「一九二七年の秋の日、下根子桜の別宅に賢治を訪れた際に道で露とすれ違い、その日はその別宅に泊まった」と森は始めから嘯くこともできただろうに、なぜそうせずに頑なに「一九二八年の秋」としたのだろうか。私はその理由を、彼は一九二七年当時重篤だったことが当時世間に知られていたからに違いないと推測した。
 そこで実際に一九二七年の『岩手日報』を調べてみると、

・その時の一人森君は今、宿痾の為、その京都の様な盛岡に臥つてゐる。(四月七日)
・森さんが病気のため帰省したこと脚気衝心を起こしてあやふく死に瀕し、盛岡病院に入院したことは私もよく知つてゐる。(六月五日)
・いつも考へてゐながら森佐一(森荘已池の本名:筆者註)には一度も音信せない、やむ君に対してとても心苦しい。(六月一六日)

というような記事が載っていて、しかも『広辞苑』によれば、「脚気衝心」とは、「脚気に伴う急性の心臓障害。呼吸促迫を来し、多くは苦悶して死に至る」ということだから、これらの一連の報道から、森は病気となって帰郷、しかもかなり重篤であったということが世間に知られていたであろうことが明らかとなった。となれば、彼が「一九二七年の秋の日」に「下根子を訪ねたのであった」と書くわけにはいかなかったということもまたおのずから明らかだ。もしそのような書き方をしたならば、「重篤な森にそれは無理、嘘だろう」と世間からすぐに指摘されてしまいかねないからだ。
 そこで私は、
〈仮説一:森の件(くだん)の「下根子桜訪問」も、「その際に森が露とすれ違ったこと」もともに虚構であった〉
が定立できることに気付く。しかも、ここまでの検証結果を振り返って見ればこの〈仮説一〉を裏付けるものこそあれ、その反例は一つも見つからないことにも気付く。つまり、この仮説は今後反例が見つからない限りという限定付きの「真実」となった。端的に言えば、件(くだん)の「下根子桜訪問」は虚構であったということになる。
 なお、上田は同論文でこの件に関して、

〈一九二八年の秋の日〉羅須地人協会の賢治宅を訪ねる途中の道で彼女にあっていると書いている。併し、その年の八月十日発熱し豊沢町の実家で病床に伏せていたのである。((二十二))

というように、この時の訪問には矛盾があるということを指摘してはいるが、さらなる追及はしていなかった。
 以上、ここまでの考察の結果、この虚構の「下根子桜訪問」を始めとして、『宮澤賢治と三人の女性』における露に関する重要な記述の中には幾つかの「虚構」や「風聞」と思われるものがあるということが明らかになった。しかも、上田が、「一九四九年以降の高瀬露と賢治について述べた文篇はほとんどこの森の本を下敷にして」と言っているように、この「下敷」によって直接的に、あるいは、延いては高瀬露は〈悪女〉にされたと言える。
 そこで逆に、
〈仮説二:高瀬露は悪女とは言えない〉
が定立できることにも容易に気付くし、併せて、その反例がないということもここまでの検証によれば明らかだ。端的に言えば、巷間流布している〈高瀬露悪女伝説〉は単なる虚構である、ということになった。
 ところで、ここで注意しておかねばならないことが一つある。それはこの「下敷」そのもの、そしてこれを拡大再生産したとも言える儀府成一の『宮沢賢治 その愛と性』等を含め、昭和四〇年(一九六五年)代頃まではこの〈悪女〉の名が高瀬露だとは、誰一人として論考等において明記していなかったということをだ。よって、せいぜい一部の人だけが内々に知っていた限定的〈悪女・高瀬露〉でしかなかったことになるから、〈高瀬露悪女伝説〉の全国的流布の責任をこの「下敷」等に負わせることはできなさそうだ。

四 「聖女のさましてちかづけるもの」のモデルは誰か
 さてここまで調べてみた限りでは、露が〈悪女〉呼ばわりされる客観的な根拠はないということがわかった。さりながら、そうされた原因として考えられることの一つに、賢治の詩〔聖女のさましてちかづけるもの〕がある。
 例えば、境忠一は、

 (賢治は)昭和六年九月東京で発熱した折の「手帳」に、「十月廿四日」として、クリスチャンであった彼女にきびしい批評を下している。
  聖女のさましてちかづけるもの
  たくらみすべてならずとて
  いまわが像に釘うつとも
  乞ひて弟子の礼とれる
  いま名の故に足をもて
  われに土をば送るとも
  わがとり来しは
  たゞひとすじのみちなれや((二十三))

と論じていて、賢治は露のことをこのようにきびしく〔聖女のさましてちかづけるもの〕に詠んでいる、と境は断じている。
 よって、「彼女(境は実名を用いていないが露のこと)」はクリスチャンだ、クリスチャンは「聖女」だ。だからこの詩の「聖女」は露であるという論理に当て嵌め、聖女の様をして賢治に近づいた露からその足で土をかけられたと賢治は詠んだ、と境は解釈していることになろう。そしてそう解釈した人たちは、露のことを〈悪女〉と誹るかもしれないから、この詩が原因となって〈悪女〉にされたということは理屈としては十分に成り立つだろう。
 しかし、賢治周辺の人物で〔聖女のさましてちかづけるもの〕のモデルになりそうな人が露以外にいなかったのであろうか。もしそのような女性が他にいたとすれば、先の論理を単純に当て嵌めることには無理がある。そして実際、そのような女性がいた。
 それは、森の『宮澤賢治と三人の女性』よれば、昭和六年七月に、「私は結婚するかも知れません」と賢治は森に語ったという((二十四))、巷間、「賢治が結婚したかった女性」ともいわれている伊藤ちゑその人である。ところが当のちゑは、自分と賢治とを結びつけようとする記事を書こうとする森に対して、「今後一切書かぬと指切りして下さいませ。早速六巻の私に関する記事、抜いて頂き度くふしてふして御願ひ申し上げます」とか、「ちゑ子を無理にあの人に結びつけて活字になさる事は、深い罪悪とさへ申し上げたい」という哀願や非難を森宛書簡の中に書いている((二十五))。さらに、これはあまり世間に知られていないものだが、同時代の「ある年」の一〇月二九日付藤原嘉藤治宛のちゑ書簡でも、

 又、御願ひで御座居ます この御本の後に御附けなりました年表の昭和三年六月十三日の條り 大島に私をお訪ね下さいましたやうに出て居りますが…(筆者略)…誠におそれ入りますけれど あの御本を今後若し再版なさいますやうな場合は 何とか伊藤七雄を御訪ね下さいました事に御書き代へ頂きたく ふしてお願ひ申し上げます((二十六))

というように、賢治の親友だった嘉藤治に対してもちゑは似たような懇願をしている。したがってこれらのことからは、ちゑは賢治と結びつけられることを頑なに拒絶していたということが導かれる。
 一方、当時のちゑは、「キリストの愛の精神」に基づい((二十七))てスラム街の貧しい子女のために慈善の保育活動をしていた『二葉保育園』で働いていた。あるいは一時期、同園を休職して伊豆大島で兄七雄の看病をしていたのだが、その兄は一九三一年八月に亡くなったので、同園に復職して再び献身的に働いていたという。のみならず、ちゑは、たまたま大島で知った気の毒な老婆に何くれと世話を焼き、その老婆に当時毎月五円もの送金をし続けていた((二十八))という。 それでは、あのような凄まじい憤りの詩〔聖女のさましてちかづけるもの〕を露とちゑのどちらをモデルにして賢治は一九三一年一〇月に詠んだということになるのだろうか。
 それについては、露が賢治から拒絶され始めたのは一九二七年の夏頃以降と言われているが、それから四年以上も経ってしまった後の一九三一年一〇月に賢治が露をモデルにして詠んだとするよりは、その直前の一九三一年七月に賢治が「私は結婚するかも知れません」と森に語ったというちゑ、しかも当のちゑは賢治と結びつけられることを頑なに拒絶していたのだから、そのモデルはちゑの方であったという蓋然性が高い。となれば、少なくとも、モデルに当て嵌まり得る女性は露だけではないのだから、それを一方的に露だと決めつけることはアンフェアである。
 換言すれば、そのモデルがちゑではなかったということを実証できない限り、しかも、そのモデルがちゑではないことを実証したということを公にした人は今のところいないからなおさらに、〔聖女のさましてちかづけるもの〕は、先の
  〈仮説二:高瀬露は悪女とは言えない〉
の反例にはなり得ない(なお、上田は同論文において、この〔聖女のさましてちかづけるもの〕に関する言及はしていない)。
 それから、この他にもこの仮説の反例となりそうなものが、一九七七年に『校本宮澤賢治全集 第一四巻』が、「内容的に高瀬あてであることが判然としている」と付言して「新発見の書簡252c」と言って公にした一連の書簡下書群を始めとして二、三あるものの、ここでは紙幅が足りないのでそれぞれの詳論は割愛させて貰うが、いずれも反例とならないことを私は既に実証済み((二十九))である。
 というわけで、〈高瀬露は悪女とは言えない〉という仮説には今のところ反例が存在しないことを私は明らかにできているから、今後これに対する反例が見つからない限りはという限定付きの、〈高瀬露は悪女とは言えない〉は「真実」であるということになった。
 なお、ここで改めて言っておきたいことがある。それは、
 伊藤ちゑはスラム街の貧しい子女のために献身的に活動していたクリスチャンであり、また、身寄りのない憐れな老婆に毎月五円もの送金をしていたというような女性だから、まさに「聖女」と言える。
ということをである。よって露の場合もそうだったが、ちゑの場合もまた、〈悪女〉であったとは到底言えない。
 しかし現実には、あのような凄まじい憤りの詩が詠まれていたわけだから、誰に問題があったかはもう明らかだ。この詩のモデルとなり得る女性は他に見つからないからである。よって、詠む側の単なる思い込み((三十))に過ぎなかったと言われても致し方なかろう。どうやら、賢治は作家としてはずばぬけた天才だったが、人間としては私たちとそれほど違ってはいなかった、ということになりそうだ。

五 おわりに
 さてここまで、未完に終わった上田哲の論文「「宮沢賢治伝」の再検証㈡―〈悪女〉にされた高瀬露―」を基に、そしてそれに幾ばくか補完させて貰いながら、主に「仮説検証型研究」という、オーソドックスな研究手法に依って〈悪女・高瀬露〉を再検証をしてきた。
 その結果、〈高瀬露悪女伝説〉は単なる虚構であり、〈高瀬露は悪女とは言えない〉がその「真実」だということを検証できた。
 よって、上田の遺志によって命じられたと私自身は認識している課題の半分には、ある程度応えることができたものと安堵している。ただし、まだ半分が残っている。
 というのは、露は〈悪女〉の濡れ衣を着せ続けられてきたということが少なくとも否定できないことがこれで明らかになったので、〈悪女・高瀬露〉はもはや人権問題となってしまった。しかも、〈高瀬露悪女伝説〉は全国に流布しているから、当然これをこの世から葬り去り、貶められた高瀬露の人格や傷つけられた尊厳を回復せねばならない、という残り半分の課題がである。
 そしてそれは、露一人のためだけでなく賢治のためにも、である。というのは、生前賢治が、血縁以外の女性の中で一番世話になったのが露だ。ところが、その露がとんでもない〈悪女〉にされているという実態があるので、このままでは、賢治はいわば「恩を仇で返した」ということになり、「歴史」から誹られる虞があるからだ。
 とはいえ、残念ながら個人的な取り組みではこの課題の解決は殆どどうにもならない。がしかし、かなり確実に解決できる方途があることに気付く。それは、宮沢賢治学会が〈高瀬露悪女伝説〉を再検証してみたところ、露は悪女とは言えないということであったならば、そのことを公的に宣言することによってである。同時に、もしそうなったとすれば、賢治が誹られる虞もなくなる。そしてもちろん、露の濡れ衣は一気に晴れるし、露の名誉と尊厳もかなり取り戻せる。
 畢竟するに、時代は変わってしまったのだ。昔ならいざ知らず、今の時代は何にもまして人権が優先される時代だから、もはや人権問題となってしまった〈悪女・高瀬露〉の解決は喫緊の重要課題である。となれば、私たちがこのことを見て見ぬ振りしていることを時代はもう許さないのではなかろうか。そしてまた、いつまでも等閑視していていいのかと、賢治から私たちは今問われていないか。

〈注〉
(一) 佐藤隆房『宮澤賢治』(冨山房、一九四二年、一七五頁)
(二)『新校本 宮澤賢治全集第六巻詩Ⅴ校異篇』(筑摩書房、一九九六年、二二五頁)
(三) 森荘已池『宮沢賢治の肖像』(津軽書房、一九七四年、二三六頁)
(四) 雜賀信行『宮沢賢治とクリスチャン 花巻編』(雜賀編集工房、二〇一五年、一四三~一四七頁)
(五) 山下聖美『賢治文学「呪い」の構造』(三修社、二〇〇七年、五九頁)
(六) 澤村修治『宮澤賢治と幻の恋人 澤田キヌを追って』(河出書房新社、二〇一〇年、一四五頁)
(七)『七尾論叢第一一号』(七尾短期大学、一九九六年、八九頁)
(八) 森荘已池『宮澤賢治と三人の女性』(人文書房、一九四九年、八九頁)
(九) 二〇一二年年一一月四日高橋カヨ(一九二五生)からの聴き取り。
(十) 森荘已池『宮澤賢治と三人の女性』(七三頁)
(十一)『鉛線 列車時刻表』(花巻温泉電氣鉄道、一九二六年八月発行)
(十二)『イーハトーヴォ 創刊號』(宮澤賢治の會、一九三九年、四頁)
(十三)『四次元 七號』(宮澤賢治友の会、一九五〇年、一五頁)
(十四) 森荘已池『宮澤賢治と三人の女性』(九〇~九一頁)
(十五) 佐藤通雅『宮澤賢治 東北砕石工場技師論』(洋々社、二〇〇〇年、八三頁)
(十六)『イーハトーヴォ 創刊號』(四頁)
(十七) 関登久也『宮澤賢治物語』(岩手日報社、一九五七年、八九頁)
(十八) 小倉豊文『解説 復元版 宮澤賢治手帳』(筑摩書房、一九八三年、四八頁)
(十九) 森荘已池『宮澤賢治と三人の女性』(七四頁)
(二十)『新校本 宮澤賢治全集第一六巻(下)補遺・資料 年譜篇』(筑摩書房、二〇〇一年、三五九頁)
(二十一)『岩手日報』(二〇一四年二月一六日)に掲載された道又力の連載『文學の國いわて』
(二十二)『七尾論叢第一一号』(八一頁)
(二十三) 境忠一『評伝・宮澤賢治』(桜楓社、一九六八年、三一六~三一七頁)
(二十四) 森荘已池『宮澤賢治と三人の女性』(一〇四頁)
(二十五) 森荘已池『宮澤賢治と三人の女性』(一五八頁~)
(二十六) 本書簡は、二〇〇七年四月二一日第六回「水沢・賢治を語る集い「イサドの会」」における、千葉嘉彦の発表「伊藤ちゑの手紙について―藤原嘉藤治の書簡より」の資料として公にされたものでもある。
(二十七)『社会福祉法人 二葉保育園』のHPより。
(二十八) 萩原昌好『宮澤賢治「修羅」への旅』(朝文社、一九九四年、三一七頁)
(二十九) 鈴木守『本統の賢治と本当の露』(ツーワンライフ出版)及び鈴木守「聖女の如き高瀬露」(上田哲・鈴木守共著『宮澤賢治と高瀬露』所収)
(三十) 例えば、関登久也は「面影」(『イーハトーヴォ第十号』所収)において、
 亡くなられる一年位前、病氣がひとまづ良くなつて居られた頃、私の家を尋ねて來られました。それは賢治氏知人の女の人が、賢治氏を中傷的に言ふのでそのことについて賢治氏は私に一應の了解を求めに來たのでした。
 他人の言に對してその經緯を語り、了解を得ると云ふ樣な事は曾て賢治氏になかつた事ですから、私は違つた場合を見た樣な感じを受けましたが、それだけ賢治氏が普通人に近く見え何時もより一層の親しさを覺えたものです。其の時の態度面ざしは、凛としたと云ふ私の賢治氏を説明する常套語とは反對の普通のしたしみを多く感じました。
という追想を述べているから、賢治は思い込んだらまっしぐらな言動をするころがあったようだ。
 また、佐藤勝治は「賢治二題」(『四次元五十号』所収)において、
 忠吉さんは、ずいぶんためらつた後に、決心したように、実にいやなこと、それを思い出すと今でも腹わたがにえくりかえるようで、先生についてのすべてのたのしい思い出は消え去つてしまうといつて話し出した。
 話といつても簡単であつて、二つである。一つは、…(筆者略)… 常にもなく威丈高に叱りつけた。忠吉さんはあまりの事に口もきけずに、だまつて叱られていた。
 もう一つの話は、忠吉さんがある人(A)に稲コキ用のモーターを手離したいからどこかえ(ママ)世話をしてくれとたのまれていた。そこでさいわい知り合い(B)でほしい人があつたので世話することにしていたら、村の三百代言(C)がこれで一もうけしようと割り込んで来た。そこで彼(C)は賢治に告げ口をしたのである。そこで忠吉さんは賢治によびつけられ、長時間にわたつて叱りとばされた。つまり、忠吉さんは、Cの世話しかけているAのモーターを、Bと組んで安くAから取り上げようとしている。Cの取引の邪魔をし、Aをだましているというのである。話はまるであべこべなのだが、先生はぜんぜん弁解を受けつけず、村でも名高いCの嘘言だけをほんとにして、お前も見下げはてた奴だ、せつかく俺がこれ程お前のために何彼と心をつかつているのに、よくも裏切つたなと、さんざんな叱言である。
というトラブルを紹介していた。もちろん、この「先生」とは賢治のことである。したがって、これらによれば、賢治はどうも思い込みが強い性向があったということを否定できない。

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