みちのくの山野草

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戦前戦中の賢治の受容(小倉豊文)

2015-03-16 09:00:00 | 賢治渉猟
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
 小倉豊文が次のようなことを述べていた。
 各地に「宮沢賢治の会」(地方によって名称異なる)の生まれたのは早くからであるが、詩人・文学者としてよりも第二次世界大戦敗戦までの日本の小学校では必ず「修身」の教材になり、校庭に必ずその銅像があった二宮金次郎の如く、農業・農民の方面から神格化が著しかった。これは賢治が農学校教師であり、農村の技術指導者であったが故ばかりではなく、前述したように当時の日本政府が満州の勢力確保の為に国民の満州移民を強行し、強引に設立した満州国が、「王道立国・五族協和」をスローガンとしていた為に、これら新古・内外の農民の精神的支柱に賢治が利用されたからである。そして、その中心材料が賢治の詩「雨ニモマケズ」であって、それが島崎藤村の「千曲川古城のほとり……」と並んで現代詩の代表として漢訳せられ、「北國農謡」と題せられたのは、一九四一(昭和十六)年だったのである(北京大学教授銭稲孫訳、北京近代科学図書館編)。日本においても時局に伴う農村・工場・事業等の強制労働鼓舞の為に、「雨ニモマケズ」が利用されたことが頗る多く、詩集・童話集・伝記的著作の出版も枚挙に暇がなき程だったのである。
             <『雪渡り 弘前・宮沢賢治研究会誌』(宮城一男編、弘前・宮沢賢治研究会)51p~より>
 たしかに、賢治が戦意高揚のために利用されたということは仄聞しているが、はたして小倉が「日本においても時局に伴う農村・工場・事業等の強制労働鼓舞の為に、「雨ニモマケズ」が利用されたことが頗る多く、詩集・童話集・伝記的著作の出版も枚挙に暇がなき程だったのである。」と言う程までに利用されたとは、どうしても私には思えない。それはそのような著作に私が巡り会っていないからなのかもしれないが。
 いまのところは、せいぜい昭和18年1月発行の子供向けの伝記的著作の終わりの
 宮澤先生が死んでから、もう今年(昭和十七年)で十年になります。全集が二回でました。一冊づつ童話の本も、三冊出ました。そして「雨ニモマケズ」と「風の又三郎」は志那語に譯されました。宮澤先生の劇や童話が、映畫になり、劇場で公開されました。…(投稿者略)…
 けれども、私たちが、これを讀むときは、ただ小さな、ゐなかのお話しと思つてはならないのであります。
 宮澤先生は、別の文章では、

 「世界に對する大なる祈願をまづ起せ」

と、いはれました。そのためには、

 「つよく、正しく生活せよ、苦難を避けず直進せよ。」

です。何百年としひたげられて來た、大東亞共榮圏の中の、よはい、たくさんの民族を、病氣の子どもや、つかれた母と見ることは、少しもさしつかへないのであります。まことに、

 「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸はあり得ない。」

のであります。米英が、アジアから去らないうちは、アジアの幸はあり得ないといはれませう。これは、こじつけといふものではありません。えらいひとのことばは、いろいろに考え讀むべきものであります。
でしか巡り会えていない。
 とはいえ、いみじくもこの作者が「これは、こじつけといふものではありません。えらいひとのことばは、いろいろに考え讀むべきものであります」と述べているように、まさに賢治の想いとは別に周りの者が時流におもねて賢治を利用したということが如実にわかるものである。だから小倉のこの言がもし正しいとすれば、このような代物が当時沢山出回ったということになるだろう。となれば、もし賢治が第二次世界大戦中も生きていたならば、賢治精神を実践した松田甚次郎が戦意高揚に利用されてしまったのと同じように、賢治自身もそれから逃れられなかったかもしれないということが理屈としては導かれる。
 こう考えてみると、たしかに松田甚次郎のその点は責められるとしても、松田甚次郎の賢治精神の実践のかなりの部分が、一定限度の条件は付くとしても、再評価されてしかるべきだし、同時に松田甚次郎が賢治受容ために果たした貢献も今以上に再評価すべきであろう。

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