気の向くままに

山、花、人生を讃える

御岳登山と人魂の話

2019年08月05日 | 

今からちょうど20年前のある夏の日、私は木曽の御岳山(3067m)に登った。この山に登るのはこの時が初めてだったが、ある目的があった。それは西丸震哉という人が書いた『山とお化けと自然界』という本の中に、御岳山の賽の河原で深夜無数の人魂を見たというのであった。そして、その人魂について詳しく書かれているのを読んで、大いに興味を持ち、幽霊は見たくないが、そんなこの世ならぬものがあるならぜひ見たいと云う訳であった。

 

山小屋につくと、山小屋の主人らしく思える初老の爺さんと客人が茶を飲みながら話をしていたので、わたしは宿泊の手続きももどかしく、早速尋ねた。

わたし:本の中に、賽ノ河原に無数の人魂のようなものが出るという話が出ていたが、本当ですか?
主 人:ああ、以前にも大学生が同じことを聞いてきたことがあったなあ。その大学生はテントで一晩泊って行ったが、見なかったそうだ。わしも昔はよく見たけど、ここ20年ばかり見たことないなあ。かなり前だがテレビの取材もあったよ。

 

賽ノ河原というのは、その小屋からは目と鼻の先であった。石がゴロゴロした台地に、積み石がニョキニョキと無数に積まれていて、人がいなければ、昼間でも薄気味悪いようなところだ。

そのニョキニョキした積み石のことを、御岳行者たちは「人間業でできることではない。人魂様が積んだものだ」と噂しているらしいが、西丸震哉は「それは笑止のいたり。我々の経験から割り出せば1日8時間、10人がかりでやって1週間ぐらいでできるだろう思う」と書いていた。

 

人魂様の仕業かどうかはともかく、西丸震哉が見た人魂とはどんなものか?
彼も、御岳行者から人魂様の話を聞いて、確かめにやってきたのだった。
以下、『山とお化けと自然界』からの抜粋だが、凡そこんなことが書かれている。

○寒さで目を覚ますと夜の11時。テントから這い出ると星は満点にぎらぎらまたたいて、お化けのような積み石群が黒々と立ち並び、生き物みたいに鬼気迫る感がある。風は強くなっていた。人魂様は風が強い日に出るらしい。

○やがて人魂様がお出ましになってきた。考えていたよりもかなり貧相な人魂で、光はひじょうに薄く、大きさはコブシ大程度、ただし数は相当なもので、何百あるか見当もつかない。

○補虫網をさっと振ると一匹たしかに入った。と、思ったら網の底から平気で抜けて行ってしまった。

○飯盒を取り出してきて、これで正面から飛んでくる奴の進路を阻んだ。驚いたことに奴は飯盒の底を平気で抜けて行った。まるで底が抜けているみたいで、一瞬も奴の邪魔をしなかったようだ。

○ヤケを起こして素手でたたきつけてみたら、手応えは全くないが、奴は手のひらを抜けそこなって景気よくはね返っていった。

○手でつかもうとしても、指の間が少しでもすいていれば、スーッと洩れてしまうのでまったく始末が悪い。

○捕まえるのは無理と分かって、しばらく見物しているとあわてんぼうの奴がぶつかってくるが、これもはね返ってしまう。どうやら生き物は通り抜けることができないで、はね返ってしまうらしい。

○テントの中で寝ていると、テントを抜けた奴が顔の上をツーと横切って反対側のテントの中へ吸い込まれて消える。テントの布から泡のように湧いて出てきてポンと飛び出し、消えるときは布に溶けていくようなもので、これが非常にスピーディーに行われるからとても面白い。

○人魂には自分の意思なんてないように見うけられる。追えば逃げる虫の方がよほど高等動物だ。

ざっとこんなふうですが、夜半目を覚ますと、残念ながら激しく雨が降り続いていて、外へ出ることできず、この世ならぬものも見ることができなかった。しかし、山小屋の主人が、以前にはよく見たと言うのだから、いたことは確かだろう。

ただ、貧弱な鈍い光というから、人魂ではなく、何かの動物の魂なのだろうかと想像するほかはない。そして、飯盒は簡単に通り抜けるが、人間や生き物の体は通り抜けることができず、跳ね返るというのだから、所謂この世的なものではないことは確かだろうと。開発が進んで、こういうものが見られなくなるのは、何だか寂しい気がする。  つづく

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 今さらながら、気づかせても... | トップ | 御岳登山と人魂の話② »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

」カテゴリの最新記事