気の向くままに

山、花、人生を讃える

映画『今日も嫌がらせ弁当』を見て

2019年07月02日 | 映画

昨日は色々買い物があったので、ついでに映画『今日も嫌がらせ弁当』を見た。

 

反抗期を迎えた娘とシングルマザーという親子の物語。普通なら男が見る映画ではない。が、けっこうオモシロカッタ。娘の反抗に母親はめげるどころか、逆に娘が反抗をやめるまで、母親の意地にかけて意地悪弁当を作り続けるという、そんな明るいキャラクターの母親像が新鮮で面白かった。そして最後には不自然ではない、胸がきゅんとなる感動が待っていた。

 

「人間て、いいものだ!」と感じさせるのに、大仕掛けなドラマは必要なく、日常のありふれたところに感動はある、ということを教えてくれる映画だ。

 

そして、男にとっては、「女とはいかなるものか?」という事を教えてくれる映画でもある。
私は家内を見るとき、ほとんどは「妻」という感覚で観ているように思うが、こういう映画を見ると、女性の心は、特に子供ができてからは「夫の妻」よりも「子の親」としての方がだんぜん大きなウエートを占めていることを感じさせられた。大げさかもしれないが、一つの発見である。

 

こんな映画を見る男性は極めて少ないだろうが、男のわたしでも楽しめたし、「また、見たい」と思わせる映画でもあったったことを付け加えておきたい。

 

所で、母親の意地悪弁当から思い出したことがあります。

 

以前、わたしは食事した後の食器を、多分家内にうるさく言われ、根負けしたからだと思うが、「流し」に運ぶまでは運んでいた。ところが、いつごろだったか、意地悪家内はそれだけでは満足せず、水に浸しておいてくれないと汚れが落ちにくくなるから、水に浸けておいて欲しいという。

 

それで、私が「そんなことまで俺にやらせるな! と、言えば

家内は「やらせるではなく、やって欲しいとお願いしてるんです」と口答えする。

 

まあ、こんな感じで何度か繰り返された。そのうちに、こちらが根負けして、家内への面当ての気持ちもあり、「右の頬を打たれたら、左の頬も出せ」で、「めんどうだ、ついでに洗ってしまえ」というわけで、自分の使った食器は自分で洗っている。もう15年にはなると思う。初めは家内も「ありがとう」といっていたが、今は言わなくなり、私も当たり前の如くそれをしている。(笑)

 

禅宗の『無門関』という本の中に、新しく入門した僧が、師匠に、

「何をすればいいかどうぞ教えてください」と指導を仰ぐと、

師匠は

「ご飯を食べたか?」と聞く。

「はい、いただきました」と答える。すると師匠は

「食べたら、茶碗を洗え」と教えたとのこと。

 

当たり前のことを、当たり前にするのが「悟り」であり、「仏道」である。という教えだそうだが、そうなると意地悪家内は、私のお師匠ということになる。
フーテンの寅さんなら、きっと「男のつれえ所だ」というに違いない。

 

コメント (2)
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