気の向くままに

山、花、人生を讃える

『よろこびの発見』

2012年02月18日 | 人生

久し振りに更新する気になりました。
といっても特別なことがあったわけではないのですが。

もう春はそこまで来ている筈ですが、相変わらず冷たい日が続いています。
しかし、昨年は名古屋ってこんなに寒かったかなあと思ったのですが、この冬はその寒さにも慣れたのか、昨年ほどには寒さを感じず、わたしの部屋の暖房時間が大幅に減りました。夜はほとんどの日が風呂へ入る直前の9時になってはじめて暖房を開始します。朝もほとんどが早朝行事の時間だけ。そして、設定温度(ファンヒーターです)も昨年の13℃から11℃まで下げました。暖房中の部屋の温度は11~12℃ぐらいで、普通なら寒い筈ですが、今年は何故かこれでちょうど良いぐらい。
「できるだけ地球にやさしく」という意識は勿論ありますが、だからといって、特別我慢しているわけではなく、自然にそうなりました。
剪定作業のおかげでもあるかなと喜んでいます。

昨年は腰の怪我のせいもあってほとんど山へ行けなかったが、今年は出かけたいと思っています。
春山の季節が近づきつつあって、楽しみなことです。
2日前、近くの「植木センター」というところを覗きましたら、鉢植えの福寿草があり、見ているうちに欲しくなって買ってしまいました。懐かしい春の花に、山へ行けるまで待ち切れなかったのです。

昨年秋から90歳の義母が我が家に同居しています。
認知症の気があるので、医者に診てもらったところ、まあ、年相応だということだったらしい。
物忘れが激しく、どこへ行ったかといつも引き出しの中をあれこれ探しているようです。それだけならいいのですが、そのたびに家内が隠したと思うらしく、家内に詰め寄ったり、憎まれ口をたたいたり・・・。といっても本人は憎まれ口ではなく、大真面目らしい。そして、またそんな憎まれ口を叩いたこともすぐに忘れてしまうようだ。そういうわけで、家内は心配したり閉口したりしながら、どう向き合っていったらいいのかと、いろいろと勉強させられているようです。

わたしにとって痛いのは、二人で自由に出かけられなくなったこと。
日帰りの山なら一人で出かければいいが、小屋泊まりの山旅は一人ではさびしい。
この際、山登り専用の恋人でもつくってしまうか・・・。ははは。

先日、出講に行った後、ふと思い出して徳久先生の晩年の講話ビデオがあったのを思い出して久し振りに見ました。タイトルには「徳久先生最後のご講和」とあった。ビデオを見ると、冒頭に、「91歳になるが、有難いことに年齢のことはまるで念頭になく、いっちょう恋愛でもしてやろかと思っているぐらいです」などと挨拶されていた。91歳でも徳久節健在だったのが、なにか嬉しかった。

徳久先生で思い出しましたが、義母の家から運び出した古い本の中に徳久先生の『よろこびの発見』というのがあり、読んだら実に素晴らしかったので、ときどき読み返したいと思って新版を買いました。そしてまた読みました。そして、出講でも、素晴らしい本だからとお薦めさせてもらいました。



○私は目を見ひらいて、私自身が生きているということを、もう一度ふりかえってみた時、いままで何の変哲もなく当たり前だと思っていた、この「生きる」ということが、じつに不思議な事実だということを発見したのである。そう考えてもう一度自分をふりかえってみると、呼吸していることも、ご飯を食べることも、大小便をすることも、心で何か思うことも、すべてのことが不思議になってきた。こんなことは医科大学でいとも簡単に説明され解決されていたはすであったのに、いまの私にとっては全然解決されていない、新しい事実となってしまったのである。すべてが不思議なのである。しかし、それでいながらすべてのことを喜べるのである。感謝できるのである。同じ世界にいながら、新しい世界へ生まれかわったのである。

(『よろこびの発見』より引用。徳久克己著 日本教文社 ISBN-4-531-06314-7)

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