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気の向くままに

山、花、人生を讃える

別れ

2010年06月04日 | 人生
フーテンの寅さんこと車寅次郎は、失恋してはいつも黙って去っていく。
そして、遠い旅の空から相手の幸せを祈っているのである。

わたしは母の死に目にも、父の死に目にも会えなかった。
母親は他界した瞬間、北海道にいたわたしにはるばるお別れに来てくれたようだが、父の場合はその形跡はなかった。

男は、別れのあいさつなどというものが照れくさいのかもしれない。
だから去る時がきたら、黙って去っていくのかもしれない。

あるとき、何の話をしていた時だったか、家内に「神との対話」に載っていたこんな話をした。
「人間は死を不幸なことだと思っている。だが、この身体ではもう生長は得られないと判断した魂は肉体を去ろうと決意する。そうしたとき、愛する家族は、そんな弱気なことは言わないで。またきっと良くなるわと励まそうとする。そうした家族の思いは、去ることを決意した魂にとっては負担である。だから、誰もいない時に静かに黙って去って行くのである」と。

すると、家内は言った。
「それでわかった!毎日母も私も面会に行っていたのに、どうしてよりによって、一人の時に急に逝ってしまったのかと思っていたけど、なるほど、それでわかった!」と。

男は何も言わず、黙って去るのである。
そして、寅さんのように遠い空から、あるいは近くで見守り続けているのかもしれない。

もちろん、わたしはできれば「有難う」と言って去りたいと思っている。
しかし、泣かれるのはやっぱり嫌だ。
あるいは、自分の方こそ泣きそうだったら、そんな時にもやっぱり黙って去るかもしれない。

そんな時には、一人にっこり笑って去って行ったんだと思ってもらいたいものだと思う。

「死」とは何か?

2010年06月04日 | 信仰
聖経『甘露の法雨』には、
「されど汝ら、ついに生命は肉体の繭(まゆ)を必要とせざる時至らん。
かくの如きとき、生命は肉体の繭を食い破って 一層自在の境地に天翔けらん。」

と示されているのですが、先生の説明はどう書かれているかと『生命の実相・経典篇』と『新講・甘露の法雨解釈』を調べてみました。が、この部分の説明はありませんでした。読んで字のごとくで、説明の必要がないということかもしれません。でも、もう少し欲しい気がして、本箱をのぞきながら神示集などを調べたりしていました。

そして夜、寝しなにふと思いついて、案外古い『生長の家』誌あたりには書かれているかもしれないと思い、1年分を綴じたたくさんの古いものの中から適当に一つを取り出して、布団の中に入って、1月号から順番に目次を見ながら興味の湧いた記事を拾い読みしては見ていきました。

すると、求めていたどんぴしゃりの大変貴重な記事を見つけました。
発行年を見ると昭和59年度分のものでした。

『求めよ、さらば与えられん!』とはこのこと。
あまりにどんぴしゃりなのでさすがに偶然とも思えず嬉しくて、翌日(昨日のこと)は午前から仕事があるので、あせってますます寝つけなくなり、ようやく寝入ったのは3時過ぎでした。

さて、その大変貴重な記事ですが、11月号に掲載されていて、


≪特別原稿≫ 書き下ろし 『この真理を人類全体に献げる 人間不滅の真理』

とある、谷口雅春先生の記事でした。先生92歳の時です。
抜粋させてもらいます。

○わたしは昨日から今朝にかけて大変重大な真理を発見したのである。それはわたしが九十二歳にもなって歯の幾本かの寿命が尽きて、その歯が蝕(むし)くったからではない、健康な歯であるのに、その歯が下から歯の根が浮き上がって来るその体験を通じて気がついた「生命の実相」の真理である。

と書き出されています。

そしてその前半部分は、健康な歯が浮き上がって来ることを、それまでは歯の定命(じょうみょう)が尽きたからだと漠然と考えておられたが、最近になって別の観点から、異物排除の自然の生命現象であると考えられるようになったことが書かれています。
つまり、生きている歯茎が、それまで生命体として生きていたが今は定命がきて異物となった歯を、グラつかせて排除する、健全生命の自然の働きであることをあげられ、それは脱糞作用と同じ健康な生理作用である、ということが書かれています。(引用すると長くなるので端折っての説明としました)

そして、次のように続けられています。
○これは単にグラつく歯についてのみの考察であるが、人間全体にも生理作用が、その健全なる一面として、肉体全体の存在をグラつかせる「死」の現象が同様に、誰でも、どんな健康な人間にでも起こるのである。

○その「死」の現象を如何に解釈するかであるが、それを人は昔から生老病死をどんな人間でも経過しなければならない、「健康」が弱ってきた自然の経過として起るものだと、在来は一般的に解釈されていたのである。しかし、私は「死の現象」を、「死」を主体とする現象ではなく、「老又は病によって使い難くなって異物化して来た肉体を、「生命」が一層完全に自由自在性を発揮するために、異物排除のはたらきとして、その不自由な肉体を自己の異物として除去するはたらきが、「肉体の死」であると分かった。

○この際、異物として排除されるのは、生命体の如く「扮飾されていたニセモノの自己」であって、本来、霊なる生命だけは、扮飾体を棄てて却って生命の実相たる完全なる自由を得るのであって、今まで一般に生命が死するが如く錯覚せしめられていた「生命の死」は、実においては存在しないのである。
それは却って、自己の生命の本体たる「霊的生命」が、一層完全なる自由を発揮するために「物性」を脱皮する一過程に過ぎないのである。

最後は
○これこそ「生命の実相」につながる人間不滅の真理である。この人間不滅の真理を、合理的な論理を以って全人類に献げることを悦びとする。

で結ばれていました。

                               ありがとうございます。感謝、合掌