気の向くままに

山、花、人生を讃える

悪は本来ない

2010年04月22日 | 信仰
今年の3月に地方講師の試験を受けるつもりで勉強会に出席したとき(試験は受けていない)、勉強のための資料を貰っていた。
その資料を読み返していたら、

○生長の家では「人間神の子」と教えているが、神の子である人間がなぜ犯罪(悪)を犯すか。

という設問があった。そして、この解答はここにあるというように、書籍名とページが記されていたので、どんなことが書かれているだろうと興味を覚え、さっそく読んでみました。

いやあ、なんと言うか、ともかく良かったです。
目頭が熱くなって来ました。

いま、感動しているうちに、すぐ銘記しておきたいと思い、ここに列挙しておくことにしました。



『生命の実相』18巻  P164~165
○「神は悪人をつくらないから、悪人は無い」これが生長の家の根本思想なのであります。
その生長の家に対して「なぜ神は悪人を作ったか」と質問なさるのはちょっと見当外れの感があるのであります。では、「神は悪人を作らないのになぜこの世にいわゆる悪人があるか」という質問にあなたのご質問は変化してくるべき性質のものであります。

○現象を区分して「実相の念」の顕われとしての現象すなわち真象と、「妄念」の顕われとしての現象すなわち偽象とに分かち、「実相の念」の顕われとしての現象(真象)は実相界の完全な相(すがた)をさながらそのままに体現していますから実在にそくした存在でありますが、妄念の顕われとしての現象(偽象)は実相とは似も似つかぬ相であり、それは蜃気楼のごとく、ありと見ゆれども実際は存在しないのであります。

以下、『生命の実相』25巻 P141~143
○あらゆる罪は本来ないのです、ということを知らせる――これが生長の家が、全人類を光明化するためにやっている運動であります。

≪読売新聞の宗教欄に、或る牧師さんが「この頃『人間本来罪も汚れもない』という説もあるがそれは受け取れぬ。そんなら強姦しても強盗しても、その人間は罪がないというのか。そんな馬鹿なことはありえない」と、書いておられたことに言及して≫
○われわれがその人の実相を――本来神の子であり、罪なき者であるという本当の姿を――認めた時、その人は強姦することも、泥棒をすることも如何なる悪を犯す事も自然にできなくなってしまう。他からお前は罪なき、浄い者であるという気持ちで純粋に対されたならば、泥棒しようと努力しても、泥棒などはしぜんにできなくなってしまう。三界は唯心の所現でありますから、「罪あり」と認めたら罪が現われ、「罪無し」と認めたら罪が消える。泥棒や、強姦をするものは、人間とはそういう罪を犯すのがあたりまえの本来「罪アル者」だと思っているものなのです。

○われわれは、自分は神であり、仏である、罪はないと知る時、罪は自然に消えてしまうのであります。
罪は本来ないから消滅するのです。本来有るものならば消え失せることはない。ないものをあると思っているから、あたかもあるが如くに外界に現われてくるのである。


今回、設問の答えとして、はたして何が書かれているのかと興味を持って読んだせいか、ただ、本を読んでいる時にくらべて、いっそう心に染みました。
そして、「生長の家」のスバラシサを、今さら知った如くに感動させられました。

今までは「悪があると思うから、悪が現われてくる」に気をとられていたのか、肝心な「悪は本来ない」には焦点を合わせていなかったと思いました。
コメント
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