goo blog サービス終了のお知らせ 

気の向くままに

山、花、人生を讃える

何の縁があって・・・

2018年12月05日 | 人生

もう10年近く前のこと、何かで読んで感動し、メモしていたのを今日ふと思い出して読み、また深く感じさせられるものがあったので、、ここに書かせてもらうことにしました。

 

それはある高齢となったご夫婦の話ですが、奥さんの方にボケが始まり、ご主人がいろいろ奥様の世話をしていました。
そんなある日、奥さんがご主人に向かって

「どなたか存じませんが、何の縁があって私にこんな親切をしてくれるのか・・・ありがとうございます」

と言ったとのこと。

 

話はこれだけですが、なにか感動させられる話であり、また考えさせられる話でもありますね

 

読んでいただきありがとうございます。

 


ある母親のドラマチックな物語

2018年11月30日 | 人生

以下は2年前の生長の家の月刊誌に紹介されている話ですが、先日初めて読んで大変感銘したので紹介させてもらいます。少し長いですが、最後まで読んでいただければ幸いです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

花子(仮名)さんは10代の頃、両親の仲が悪く、暗く冷たい雰囲気の家庭から逃れたくて、中学1年の頃から不良仲間と付き合い始めたという。そして家出や非行を繰り返し、髪を染め、眼付もきつかったという。 (49歳になられる現在のお顔からは想像できないが)

 

中学を卒業した花子さんは、ブティックに就職し、8歳年上の男性と同棲するようになり、17歳のとき女の子を出産した。その、誕生したわが子の顔を見たとき、愛おしさで涙がこぼれ、この子には自分のような寂しい思いをさせたくないという思いでいっぱいになったという。

 

花子さんは出産を機に入籍し、19歳の時には次女を授かったが、その頃のご主人は転職を繰り返し、経済的に余裕がなかったので、花子さんは飲食店に働きに出るようになった。また、ご主人は家事に協力的でなく、子どもを邪見に扱ったりもするので、一緒にいたくないとの思いがつのり、ついに離婚したいとご主人に告げた。しかし、ご主人の方は「絶対に分かれない」と言い、もし分かれるなら子供は自分が引き取るとまでいうので、やむなく離婚は思いとどまった。

 

子供が成長して学校に通うようになると、花子さんは街で不良グループを見かけたり、子供の帰宅が遅かったりすると、わが子が、誰かに脅かされたり、悪い方に道を踏み外してはいないかと、不良に走ったかつての自分と重ね合わせて、心配になったという。そして、テレビ番組は悪い影響を与えると考え、10年間ほどテレビを置かず、代わりにクラッシック音楽を聞かせたり、絵本を読み聞かせたり、夜は決まった時間に家中の電気を消し就寝したとのこと。

 

しかし、長女も、次女もアレルギー体質で喘息やアトピー性皮膚炎を時々発症するので、体質改善について勉強し始め、自然食に興味を持つようになり、料理教室を開いている人と知り合いになり、その人から生長の家を紹介され、母親教室に通うようになった。それからやがて3人目の女の子が生まれた。

 

そんなある日、花子さんはご主人に言った。
「私は何も欲しいものはない。家族みんなの幸せがわたしの幸せ」と。

すると、ご主人は
「俺は幸せじゃない。お前は、一にも二にも三にも子供のことで、俺のことは何も考えとらん」と訴えた。

 

それから平成11年には4番目の子となる長男を授かったが、その年、ご主人の浮気が発覚し、生長の家の講師に相談した。
その講師は、
「大根の種子を蒔けば大根が生えるでしょう。環境は自分の心の影ですから、自分で蒔いた種が生えるんですよ。あなたはどんな種を蒔きましたか?」と言われたという。それで、これからはご主人に「はい」の心になり、ご主人を立てるよう心掛けることにした。

 

ところが一方のご主人は、浮気相手とは別れたが、今度はパチンコで数百万円も借金していたことが判明した。それが中古住宅を購入したばかりの頃で、家のローンとご主人の借金の支払いとで家計はひっ迫し、そこへもって五人目の二男を授かり、実家からは「育てられるのか」と心配されたという。

 

それから10年が過ぎたが、その間にもご主人は花子さんに内緒で借金を重ねていて、相変わらずその返済に追われていたが、「自分が蒔い種が生える」と教えられて以来、その言葉を思い出し、自分を責め、自分がどう変わればいいのか、何もわからなくなっていたとのこと。

 

花子さんは言う。
「平成24年、夜逃げをするしかないと思えるぐらい、家計はどん底の状態にありました。三女は高3、長男は中1、二男はまだ小学5年生で、返済のつらさから逃げ出すため、飲食店のパートで懸命に働き、親からも援助を受けてきました。それでも限界でした」と。

 

そして、再びご主人と別れようと思ったが、立ち直って欲しいという思いもあり、最後のお願いだからと、生長の家の本部練成会の参加を勧めた。今まで何回勧めても良い返事は帰ってこなかったが、この時初めて素直に応じてくれたという。

 

そして、ご主人はこの練成会参加中の1週間、毎日電話をかけてきて、楽しそうに練成会のことを報告してくれたとのこと。その練成会を終えて帰宅したご主人は、見違えるように顔が輝き、自信にあふれていたそうで、その時、奥さんは、「私はこの人のこんなところが好きだったんだ」と惚れ直したそうだ。

 

そして、それまで父の営む運送会社で働いていたご主人は、心機一転して独立し、みずから運送業を始めた。借金の返済は今もつづいているが、昼夜を分かたず働いている主人を見ながら、私も頑張ろうと勇気づけられているとのこと。

 

5人の子供のうち、上の3人は独立し、長女は4人の子の母になっているとのこと。
長男は中2の時、不登校になったことがあり、花子さんは「自分の何がいけなかったのか」と悩んだそうだが、友達にその悩みを話すと、「子供は神の子で、必ず良くなるから、親は心配しなくて大丈夫よ」と言われて驚いたとのこと。花子さんは、それまで家族に問題が起きるたび、「自分が蒔いた種」と自分を責めてきたが、人間本来の善なることを信じ、そのままで素晴らしい神の子と観ることのほうが大切だと教えられ、「長男はそのままで素晴らしい神の子なんだ」と思い直したとき、肩の荷が下り、「必ず良くなる!」と信じつつ過ごしているうちに、みずから高校に進学したいと言いだし、建築士になる夢を描いてがんばっているそうだ。

 

このような話の後、花子さんは言う。
「10代の頃から両親に迷惑をかけ続けてきた私でしたが、父母への感謝を説く生長の家に触れてからは、両親に過去の過ちを何度か謝ってきました。両親は『今は一生懸命に生きているんだから、自分を恥じることはない』と温かく話してくれ、今ではこの両親に生まれて来られたことを感謝しています」と語っている。

 

この素晴らしい花子さんは、ご主人が独立したころから生長の家の教化部でパートで働くようになり、平成28年から正職員として採用されたとのことです。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、『神との対話』では、人生で過ちを繰り返してきたという著者のニール・ドナルド・ウォルシュに対して神はこう言っています。とても好きなところなので紹介させてもらいます。

〇いいかね。あなたには価値がある。誰にでも価値があるように。

価値がないというのは、人類に浴びせられた最悪の非難だ。

あなたは過去をもとに自分の価値を決めるが、わたしは未来をもとにあなたの価値を決める。

未来、未来、つねに未来だ!人生、生命は未来にあるのであって、過去にはない。

未来にこそ真実があるのであって、過去にはない。

これまでしてきたことは、これからすることに比べれば重要ではない。

これまで犯してきた過ちは、これから創造するものに比べれば何の意味もない。

あなたの過ちを赦そう。間違った意見も、見当違いの理解も、有害な行動も、自分勝手な決定も赦そう。

すべてを赦そう。他の人は赦してくれなくても、わたしは赦す。

他の人は罪悪感から解放してくれなくても、わたしは解放する。

過去を忘れて前進し、新しい何かになることを誰も認めてくれなくても、わたしは認める。

あなたは過去のあなたではなく、いつも、いつまでも新しいあなただと知っているから。

罪人は一瞬にして聖人になる。1秒で。1息で。ほんとうのところ、「罪人」などいない。

誰も罪を犯すことなどできない。ましてわたしに対してはあり得ない。

だから、あなたを「赦す」というのだよ。あなたにわかる言葉を使っているのだ。

ほんとうはあなたを赦すのではない。これからも赦さなければならないことなど何もない。

だが、あなたを解放することはできる。だから、いま解放しよう。今。再び。

おおぜいの他の教えを通じて、過去に何度も解放してきたように。

 

最後まで読んでいただき有難うございました。

 


クラス会と小さな再会

2018年11月06日 | 人生

先日の日曜日、中学のクラス会に出席した。

このクラス会には1昨年におよそ50年ぶりに出席して懐かしかったので今年も参加した。
(多分、これからは都合がつくかぎり出席するだろうと思う)

 

お互いが同じ一つの中学から巣立ち、社会人となり、結婚し、子供も生まれ、孫もでき、そのような人生を歩んだ後、再び50年前の中学生に還って歓談しているわけだから懐かしいのも当然だろう。

 

「袖触れ合うも他生の縁」というが、同じ巣から巣立ち、同じ巣に還るということは、よほど縁が深いのかもしれない。言ってみれば同じ年に、同じ地域へ「あの世」から「この世」へ集団移住してきた仲間といえるかもしれない。

 

出席者は同じではないが、出席数はほぼ前回同様で、男女とも20人づつ、合計40人の出席だった。

前回は男性陣もほとんど誰だか分らなかったが、しばらく歓談しているうちに、それぞれの面影が見えはじめ、名前も思い出されてきて、今回は8割程度が誰だかすぐに分かった。

 

一方、女性陣は男性以上にまるで見当がつかない。名前を教えられてもぴんと来ない。しかし、しばらくすると、やはりだんだんその子の面影が見えてくる。

 

人間の細胞は10年しないうちに骨の細胞まで入れ変わるということを聞いたが、中学生の頃と70歳になろうとしている今では、身体的には全く別人と言わなければならない。しかし、やはり薔薇はバラであるごとく、その人をその人たらしめている何かがあるのだろう。

 

そのクラス会が終わった後のこと。
用があって同級生の家を訪ねたのだが、番地を間違えていたので、どうしてもその家がどこにあるのかわからなかった。出直すのも面倒なので、何とか探し当てたいと思い、道を尋ねるべく農家らしい屋敷内に入っていった。すると女の人が仕事をしていたので声をかけた。

 

「すみません、お尋ねしたいんですが、○○さんの家はどこかご存じありませんか」と聞くと、

「○○さんの家はもう少し向こうだけど、お宅は誰?」というので、不審な人物と怪しまれているのかと思い、

「同級生ですが」と答えると、さらに

「同級生の誰?」と聞くので、

「スズキです」と答えた。すると

「○○君?」と私の名前をいうのでびっくりしていると、

「アキ子です。○○アキ子です」という。

 

突然のことなので、とっさには「聞き覚えのある名前だ」ぐらいしか思い出せなかったが、同級生のよしみか、親切に探している家まで案内してくれて、その間に少しづつ思い出していった。そして、最後に礼を言いながら近くで顔を見ると、やはり往時の面影があった。
そして、
ときたも入った家の人が同級生だったことや、何でもないようなこの小さな再会が、なぜか後になってもほのぼのと嬉しいのである。


日本男児 またまだ捨てたもんじゃない

2018年11月03日 | 人生

繰り返される企業の検査データの改ざんにはあきれてしまいますが、かつての人気歌手のドタキャンにも呆れました。(最初は「ドタキャン」て何のことかと思ったが、マスコミで使われているのでわたしも使わせてもらった)

 

それぞれに、それなりの事情はあるでしょうが、下に掲げる中学生(12歳)の俳句に見られるような純情は、いくつになっても失わないほうが、自分自身のためにも、きっとよいのではないかと思う。

 

        ずる休みした私の顔を犬見てる     12歳

 

        水仙を見るたび背筋伸ばす朝      12歳

 

このようなニュースを見たり聞いたりしたら、子供たちは何を思うだろうか?

きっと、「偉そうなことを言っても、大人はインチキばかり」とか、「大人はわがまま」とか思うに違いない。

はたして、そんなことでいいのかと心配になる。

 

それから、大の大人が首を並べて「どうも申し訳ありませんでした」と頭を下げるシーンは今や定番化した感があるが、マスコミもそういうシーンを報道するのはいい加減やめにしたらどうかと思うがどうだろう。

 

さて、面白くもない話題はここまでにして、

次の、或る68歳の男性の俳句を見てください。

  

         心まで老いてたまるか大根抜く     

 

続いて75歳の男性、

 

         爽やかに手ぶらで生きん余生かな    

 

いやあ、いずれも素晴らしいですね。

たったの5、7、5なれど、みているだけで爽やかになり、元気が出てくるではありませんか。

日本男児、まだまだ、捨てたもんじゃない! と嬉しくなります。

 

 

最後まで見ていただきありがとうございます。

ここに掲げた俳句はすべてネット上の「お~いお茶新俳句」から借用したものです。


「小さな死』

2018年10月08日 | 人生

昨日、「思うようにいかない悲しさを乗り越え」を書きながら、同時にシスター・渡辺和子さんの話を思い出していました。

 

以下の「小さな死」と題する文章は、You/Tubeで渡辺和子さんが話されていることを、以前に文章にしていたものです。あらためて読んでみてしみじみ伝わって来るものがあったので、アップさせてもらうことにしました。読んでいただければ幸いです。

 

『小さな死』

私が小学校3年生の9歳の時の事でございました。昭和11年2月26日の朝、1台のトラックに30数名の陸軍青年将校たちが乗ってまいりまして、私の家を襲撃し、私の眼の前で父を殺して引き上げていきました。世に2.26事件と呼ばれている昭和のクーデターでございまして、この時を境に日本の国は戦争へとひた走っていくことになります。

 

私にとっては悲しく辛い出来事でございました。朝の6時前だったと思いますけれども、その時まで床を並べて休んでおりました父が、ほんの数分間の間に冷たい骸となって物言わぬ人になってしまった。雪の降り積もった朝、真っ白な雪の上に点々と残っていた血の跡、軽機関銃の音、その光景と音をわたしは多分一生の間忘れないだろうと思います。

 

この事件は、同じ部屋で物陰から見ておりました9歳の私に、いろんなことを教えてくれました。
一つは人のいのちがほんとに儚い、強くて優しくて大好きだった父が、ほんの数分の間に死んでしまった命の儚さと、したがって命の尊さ、それを一つ教えてくれました。

 

それからもう一つは、自分たちの目的を遂げるために手段を選ばない人の心の恐ろしさというものも教えてくれました。

 

そして3番目に、人を殺すのは必ずしも43発の鉛の球ではなくて、その軽機関銃を撃った人、さらに言えば、その背後にあって撃たせた「人の心」です。その意味で私たちが本当に心に平和をもつこと、その事の大切さを教えてくれました。

 

父が亡くなりましていろいろと苦労も致しましたし、18歳の時にカトリックの洗礼を受け、それから30歳になるまで家庭を助けるために働いて、そして修道会に入りました。その前後、よく人さまから「あなたはお父様を殺した人を恨んでいますか、憎んでいますか」と訊ねられ、そのたびに「いいえ、その方たちにはその方たちのお考えがあってのことですから」と答えていました。

 

ところが修道院に入りまして20年も経った頃だったでしょうか。 2月26日の前後に関西のあるテレビ局から、殺された側の唯一の生き残りとして、その当時右傾化していた日本において、2.26事件の恐ろしさというものをぜひ語って欲しいと言われて、何回もお断りしたんですけども、仕方がなくテレビ局に行ったことがございます。そうすると、びっくりしたことに、わたしに何の断りもなく、父を殺した側の人が一人呼ばれて来ていらっしゃいました。

 

二人の間に何の話もあろうはずもなく、手持無沙汰でおりましたところ、局の方が気を利かしてコーヒーを出してくださり、朝の10時頃でございましたから、私も喜んでコーヒーカップを手に取って口元まで運んでいきながら、とうとう自分の父を殺した人を前にして一滴もそのコーヒーが飲めなかったことがございました。

 

その時に私がしみじみ思いましたのは、人間というものは頭や心で赦していても、言葉で赦すと言っても、体が赦さないということをしみじみ思いました。そして、同時に私の中にはやっぱり父の血が流れていると、ちょっと嬉しかったことも覚えております。

 

父を殺した人を心から赦すということは、言うのは易しいですけども、なかなか難しいことだと、その時に知りました。しかし、それよりもっともっと難しいのは、日々の小さなことで自分を傷つけたり、自分に対して意地悪をしたり、悪口を言ったり、悪意の塊でしかないようなそういう人たちを赦せるかということだと思います。

 

私が修道院に入りました時に目上の方に、「私はイエス様のように十字架の上で死ぬ覚悟ができています」と生意気に申し上げました時に、目上の方が「いいえ、これからのあなたの十字架は、毎日毎日針の先でチクチク刺されるような、そういう痛みを笑顔で受けることなのですよ。決して華々しい死ではなくて、本当に人知れず、人知れず自分が受ける小さな苦しみを人に悟られることとなく受けていくこと」と、おっしゃってくださいましたけれども、本当に私はそうだと思います。

 

そして、修道院に入りましてから今50年経っておりますが、私は、日本語ではちょっとおかしな言葉かもしれませんけども、「小さな死」という言葉を自分の一つのモットーにしております。

 

それは、人は誰しも迎えなければならない「大きな死」のリハーサル、それを毎日繰り返すということです。リハーサルをすればするほど本番が落ち着いてパフォームすることができるように、毎日の生活の中で「小さな死」を事あるごとに繰り返すことによって、しかも美しく繰り返していくことによって、もしかしたら大きな死を、心静かに美しく迎えることができるかもしれないと思います。わかりませんけれども、自分の毎日の体の不調とか、むつかしい人間関係とか、どうしても人様に話さなければいけない嫌なこととか、腹が立つこと、たくさんそういうことがございますけれども、そういうことを一つ一つ逃げないで自分らしく受け止めていく。

 

そしてもう一つ大切なのは、頭で「小さな死」を遂げるのではなくて、口の中で「小さな死」と、人に聴こえないようにつぶやくことなんです。これはわたしが経験して習いました。頭だけで、心だけで思っているだけでは駄目なんですね。やっぱり自分の口で「小さな死」とつぶやく。そうすることによって何か「小さな死」を意味あるものに変えることができると思います。つまり私たちは人に殺されるのではなくて、自分が主体性をもって死ぬんです。しかも、それは意味のある死に変えることができるんだと思います。

 

八木重吉という信仰詩人の詩に

 

              神のごとく赦したい

              人が投ぐる憎しみを胸に温め

              花のようになったならば

              神に捧げたい

 

という詩がございます。本当にそうです。自分に投げかけられる様々な苦しいこと、嫌なこと、辛いこと、それをしっかり受け止めて、自分の胸の中であたためて、いつの日かそれがお花のようになったときに、それを神様に捧げたいと思います。

 

キリストさまは死んで「生きる道」を示してくださいました。私たちも「小さな死」を日々繰り返すことによって、この死がいつか豊かな実りとなってくれるよう願いながら生きていきたいと思います。

 

以上が渡辺和子さんのお話ですが、実際に渡辺和子さんの話を聞きたい方は、ここをクリックしてください。

https://www.youtube.com/watch?v=RwzQ84y7dNE

 


思うようにいかない悲しさを乗り越え

2018年10月07日 | 人生

この記事は、 始めはややこしそうなことを書いていますが、はじめだけですので、ややこしいところは流していただいて、最後まで読んでいただければと思います。

 

前の記事で貴乃花の相撲界引退について書きましたが、そのことから私はアインシュタインのことを思い出しました。

 

アインシュタインは20世紀の初めに二つの「相対性理論」を発表しました。
一つは、1グラムの物質にも莫大なエネルギーが秘められていること。
一つは、それまで空間はどこまでも均一に広がり、時間もどこまでも均一に刻まれていくものとして考えられていたが、時間も空間も均一ではなく、進む時間が早くなったり遅くなったり、空間もゆがんだり縮んだりと相対的に変化するものであこと。そして時間と空間は二つにあらわれていても同じ一つのものであること、それによって時間・空間は一つの時空としてあらわされ、その時空と物質(エネルギー)の関係を一つの方程式で表しました。

 

ある実験で、その方程式が示す理論の正しいことが証明されたとき、科学者たちは、宇宙を構成する時間と空間と物質の関係がたった一つの方程式で表されている、そのシンプルな美しさに涙を流さんばかりに感動したといいます。そしてこれにより、それ以前に比べ宇宙のことがずいぶんわかってきました。

 

そして一躍有名になったアインシュタインはいろいろな国から招待を受け講演するのですが、日本からの招待状には、兼ねてから行きたいと思っていたのでひときわ喜んだとのこと。そして、1ヶ月の日本滞在中、各地で相対性理論の専門的、あるいは一般向けの講演を行い、国民が講演を聞きたいと会場からあふれんばかりに押し寄せ、その熱心さにアインシュタインも感激したとのこと。また、忙しい合間をぬって名所を見学し、日本の美しさにも感激したそうです。(アインシュタインの日本滞在は1922年11月17日~12月29日)

 

しかし、やがてドイツではナチスが台頭しユダヤ人の迫害が始まり、ユダヤ人であるアインシュタインはドイツを逃れてアメリカに逃れますが、その頃、アインシュタインが発見した「1グラムの物質にも莫大なエネルギーが秘められている」ことをもとに、ドイツが原爆の開発を始めたという情報がもたらされました。

 

ドイツのような国が原爆を開発したら、大変なことになるとアインシュタインは心配になりました。
そんな時、名前を憶えていませんが、ある人が、アメリカ大統領宛に「ドイツに先をこされないよう急ぎ原爆を開発する必要がある」と進言する手紙を持参し、それに署名するよう頼みました。そして迷った末、アインシュタインは署名したのでした。

 

ところが、第二次世界大戦もいよいよ終わりに近づいたころ、すでにイタリア、ドイツは降伏し、日本だけが戦っていました。この状況にアインシュタインは大変心配しました。横暴なドイツという国を止めるには原爆開発もやむを得ずと恐る恐る署名したのに、それがあろうことか、ドイツではなくアインシュタインが愛する日本に落とされるかもしれないと、心配でたまりませんでした。そして、それが現実となりました。

 

この時のアインシュタインの悲しみはどんなであったろうかと、アインシュタインの心を思わずにいられません。国家意識とは距離をおいていたアインシュタインも、目の前で同胞のユダヤ人たちが迫害されるのを見れば、否が応でも同朋意識が湧き上がり、ドイツを憎まずにはいられないでしょう。暴走するドイツを止めなければと神にも祈る気持ちだったでしょう。そして、迷った末に、原爆開発を進言するアメリカ大統領への手紙に署名したのでした。

 

しかし、自分の思いとは裏腹に、原爆はあの日本国民の上に落とされてしまいました。

 

ああ。この思うようにいかない悲しさ!

 

追い打ちをかけるように、ある日本人から、博士を批難する手紙が博士のもとに送られたそうです。それに対して博士は「人を批難するときは、相手のことをよく調べてから非難するものだ」と、その手紙の裏に、しかも鉛筆で書いて送り返したとのこと。

 

日本人と同じように悲しみ、やれきれない気持ちでいる時だったので、思わず感情のまま吐き出さずにはいられなかったのだろうと思います。

 

中途半端ですが長くなったのでここでやめます。
アインシュタイン博士のことを少しでも知っていただくきっかけとなれば、うれしいです。

 

そして、大なり小なり、思うようにいかない悲しみを経験し、それを乗り越えながら人間は成長いていくのかもしれま゛んね。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


やめる勇気

2018年10月05日 | 人生

貴乃花の相撲界退職のことが話題になっています。

 

私も多くの人と同じように、若貴時代は、この二人の活躍を楽しみにしていましたが、若貴時代の終焉と共に関心がなくなりました。そのあと、娘が結婚してから、娘の招待で3年続けて名古屋場所を見に行き、なかなか楽しかったのですが、娘に子供ができてからはご無沙汰で、また関心がなくなりました。

 

相撲界の内部のことは何も知らないし、どんな問題があり、貴乃花が何をしたかったのかについても何も知らないのですが、ただ、貴乃花が相撲界を退職したことだけについて言えば、潔いということは言えると思います。そしてさすがに貴乃花だとも思います。

 

特に、
ラグビーの試合で違反した選手について、なぜそんなことまでしてラグビー部にいたいのか、なぜそんな監督についていかなければならないのか、そんな監督なら見切りをつけてやめてしまえばいいじゃないかと思いましたし、(大学生では自分でそういう判断をすることはまだ難しいかもしれませんが)

 

また、
ボクシング協会のあまりに行き過ぎた会長の支配的横暴さを報道で見ているとき、その周辺にいた理事たちはいったい何をしていたのかと思ったりしました。普通の人ならあんなヤクザのような人間に歯向かうことはできないだろうということはよくわかる。しかし、あのような態度を目にしながら、そして恐れおののきながら、なぜいつまでも付き合う必要があるのか、さっさとやめてしまえばいいじゃないかと思いながらこれらの報道を見ていました。

 

さらに、ブラックリストに載るような会社で働いている社員たち、なぜそんなことまでさせられながら我慢し続けるのかと思うような報道をときどき耳にすることがありました。

 

そういうわけで、今回の貴乃花の退職について、「偉い!さすが」と感心しました。そのまま相撲界に残っていれば、経済的には安心であったはずなのに、しかし、貴乃花は多分、これ以上自分が相撲界にいても意味がないと感じたのではないだろうか。貴乃花にとってはとても残念なことだったに違いないと思うが、これ以上騒ぎを起こしては申し訳ないと思ったのかもしれない。そして潔く退職する道を選んだ。さすがだと思いました。

 

貴乃花の選んだ道が一番良い道であったかどうかはわかりませんが、しかし、ともかく「やめる勇気」、そして「潔さ」を見せてくれたと思います、その意味でわたしはよい手本になったと思うのですが、皆さんはどう思われますか。

 

≪追記≫
相撲協会の理事の方々が、前にあげた悪どい、こわもての人たちと一緒にしているわけではありませんので、その点はよろしくご理解願います。

 


ナイスな男

2018年09月17日 | 人生

2週間の入院で身体能力が鈍っていた家内も、ゆっくりと日常生活に順応しつつあるようで安堵しています。
炊事、洗濯は家内に任せていますが、少し力のいる風呂掃除はわたしがすることにしています。
そして、退院した翌日の14~16日と練成会があり、その期間中はわたしはそこで食事をするので、家内は自分の分だけ、あり合わせのものでつくって食べればよいから、ちょうど良かったと思う。

 

さて、その練成会の最終日の16日には、首をかしげたくなるような不思議な話を聞きました。

 

練成会が終了するのは15時ですが、受付の主任の女性が、「50歳ぐらいの男の人が14時ごろに来ますのでよろしく」というので、わたしが「そんな終了間際に来ても意味はないし、申し訳ないので、次の機会にしてもらったら」と言った。すると、その男性が来る目的は、練成を受けることよりも、その受付の女性に相談したいことがある、ということなので「それならわかる」と合点した。

 

で、続いてその女性はこんな話をしてくれました。
「その男性がまだ独身の頃、結婚したい人がいるといって仲人をお願いされた。しかし相手の女性をどうも感心しなかったので、わたしはその結婚に反対し、仲人はお断りした。しかし、別の誰かに仲人を頼んで結婚した。そして、いまその奥さんがご主人に暴力をふるうらしく、ご主人は危険を感じて、家で寝ないでいつも車の中で寝ている」とのこと。(どんな暴力かは聞かなかった)

 

私は、それはまたひどい話だと思い、「そんなことなら、さっさと離婚すればいいのに」と言うと、「ところが、離婚する気がないらしいの」というので、私は、「へえ~」と他人事のように不思議に思うよりほかなかった。

 

そして、しばらくして、そのご主人がやってきて、私も挨拶させてもらったのですが、想像していたのとは全然違い、とても好感の持てる素敵な男性でした。

 

それで、私はすっかり考えが変わり、「ああ、この人はたとえ暴力をふるう奥さんでも、奥さんを愛しているんだ。そして、暴力を振るわない本来のやさしい奥さんになってもらって、仲良くやっていきたい。そう思いつつ、そのためには、どうすればいいかと頭を悩ませながら頑張っているんだ」と、まるで話の受け取り方が変わってしまいました。

こうして、いやな話がナイスな話に思えて来て、当の男性に逢えて良かったと思い、心から応援したい気持ちなったのでした。そして、またぜひお会いしたいと思ました。 合掌

 


忘れていたこと

2018年09月11日 | 人生

家内が入院しているので、毎日病院に行き、そして2時間づつぐらいしゃべってくる

 

お互いが、ぽつりぽつりと、あれやこれやを話しているわけだが、こんな時間を過ごすのは、新婚時代、あるいは恋人時代以来のことだと思う。

 

一緒に山に登ったり、ハイキングしたり、映画を見たりと、「一緒に」ということはいろいろあるが、しかし、心すべてが、家内の方に向くことはついぞなかったと思う。映画を見ていれば、心は映画に向いているし、山に登っていれば、心は山に向いている。しかし、病院の一室でしゃべっているとき、山もない、映画もない、在るのは家内だけ。それで満たされている。

 

自分にとって何がもっとも大切なのだろう?

それは自分のしたいことではないし、自分がしなければならないことでもない。

それなのに、いつのまにか、それらを優先し、家内は二の次、三の次になっていた。

つまり大切にすべきものを大切にしていなかった。

今回、その忘れていた大切なことに気づかせてもらった気がする。


無題

2018年09月02日 | 人生

8月29日、家内が左胸の辺りが痛くて動けないと言い出したので、救急車を要請し、日赤病院へ運ばれた。医師の説明によると「左肺の上に大きいガンと下に小さいガンがある」とのこと。

そして、「奥さんにはどうしますか?」と聞くので、

「いずれ分かることなので、知らせます」と私が言うと、

医師は、「それなら私から説明します」と言って家内に説明し、それを家内は神妙に聞いていた。

 

その日は痛み止めの点滴をしていったん帰宅し、次の日、再検査があり、今度は昨日とは別の医師が次のように説明した。

 

左肺の上にあるのはガンにも見えるが、胸膜炎膿胸で、これが痛みの原因で、昨日より数値が悪くなっているので入院した方がいい。入院は2週間ぐらい必要。下の方にガンもあるが、これは治る。ただ、まず膿胸から治す必要がある、とのこと。

 

最初、ガンと言われたとき、冷静ではあったが、しかし、その後で、家内が他界して、一人になった自分が頭をよぎった。そして、いくらあがいても、もう会うこともできない家内を思い、抜け殻のようになっている自分がそこにいた。

 

しかし、実際はそうならないでよかった。

救急車で病院に運ばれ、入院にはなったが、ガンが早く見つかり、かえって幸いだったのである。

そして入院は、家内にとって良い休養期間であり、ご本人は、毎日、1万回「ありがとうございます」を唱えつつ感謝する善い機会だと喜んでいる。そして、わたし自身は、「後悔なきよう、もっと半身を大切にせよ」と忠告をいただいた気がしている。しばらく病院へ通うことになるが、まるで昔の恋人同士に還った気分でもある。


ある決心

2018年08月24日 | 人生

シスター・渡辺和子さんはある日、修道院のエレベーターに乗るとき、行く先の「階」のボタンを押した後、無意識に「閉」のボタンを押していたことに気づいたと言います。

 

そして、階のボタンを押した後、自動的にドアが閉まるまでの時間を測り、そして、たった4秒であることを知り、4秒すら待てなかった自分に気づいたとのこと。

 

そして、次のように書いておられます。

○つまり、ドアが閉まるまでの4秒ぐらいの時間が待てないでいる自分に気づいたのです。そして、考えさせられました。「4秒すら待てない私」でいいのだろうかと。事の重大さに気付いた私は、その日から、1人で乗っている時は「待つ」決心を立てたのです。この決心は少しずつですが、他の物事も待てる私に変えてゆきました。待っている間に、小さな祈り、例えばアヴェマリアを唱える習慣もつけてくれました。学生たちのため、苦しむ人のため、平和のために祈れるのです。時間の使い方は、いのちの使い方です。待つ時間が祈りの時間となる、このことに気づいて、私は、何か良いことを知ったように嬉しくなりました。 (「心のともしび」の中にある「時を待つ」より)

 

また、別のところではこのようにも書いておられます。

○私は待つのです。それは、「4秒すら待てない」人間になりたくないからなのです。忙しさに負けて、自分の心を亡ぼし貧しくしないために、せめて1日に2度でもいい、修道院と学校との往復に、自分を「待たせる」ことによって、心にゆとりを持ちたいのです。時間に追われる自分でなく、時間の主人としての自分として、心を落ち着かせたいのです。エレベーターに乗っている間に、アベ・マリアを唱えることもできます。出会う人たちへの笑顔も用意できるのです。豊かな心はお金では買えません。心を豊かにするためには、ほんの数秒でいい、自分が自分を見つめる時間を必要とします。世の中は日に日に便利になっています。そのかげで私たちが失いかけている心の豊かさは、こうした日々の小さな出来事の積み重ねでしか、養われないのではないでしょうか。  (「心のともしび」の中にある「豊かな心を養う」より)

  

今まで、わたしもせっかちに、そして決して無意識にではなく、意識的に(乗ろうとしている人がいないときですが)、「閉」のボタンを押していました。

しかし、昨日、この素晴らしい一文を読ませていただき、感動を覚えながら、今後、「閉」のボタンを押さず、自動で締まるまで待とうと決心させてもらいました。


懐かしい思い出

2018年08月23日 | 人生

わたしは昔、外国航路の船に乗っていましたが、キリスト教の慈善事業でシーメンズ・クラブというのがありました。そこには異国の船員たちの憩いの場として、卓球台、あるいはビリーヤードのなどの簡単な娯楽設備があったり、飲食のサービスがあったり、ごくまれには牧師さん自らバスを運転し観光案内をしてくれることもありました。

 

アメリカ西海岸の北部にあるポートランドに入港したときのこと、わたし達乗組員一行を丸1日、バスで観光案内してくれたことがあり、そのときの運転手(後で牧師だとわかった)が、終始ニコニコと笑顔を絶やさず、とても親切だったのが印象に残っています。

 

日本の船員はどういうわけか、宴会が始まると自然発生的にみんなが手拍子でうたい出すのだが、この時も大船に乗った気分になったのか、バスの中で自然と手拍子で歌い出しました。そしていつもの如く、気持ちが一つになり、息が合い、みんなが気分よくなります。その様子を満足そうに見ていた牧師が、「日本人は歌い出すとすぐ手拍子が始まる」と、不思議そうに、そして、それがおかしいと云わんばかりに、笑ったのを思い出します。

 

 このとき、どんなところを見学させてもらったのかは一つも覚えていませんが、ともかく牧師がとてもにこやかだったことだけは、深く印象に残っています。

 

実は牧師はその観光案内が終わった後、どういうわけか、わたしにニコニコ話しかけて来て、私は英語はよくわからないが、なんとなく洗礼を勧めているような気がしました。わたしはその頃すでに生長の家の教えを学んでいて、イエス・キリストを尊敬していたし、この牧師もとても好感の持てる人だったので、物珍しさも手伝って、素直に彼の後についていきました。そして2階の1室に入ると、そこで簡単な洗礼の儀式を受けることになったのでした。

 

実はこのことは永らく忘れていて、20年ほど前に何かのきっかけで思い出したのですが、それからまた忘れ、最近になって、また「そう言えば、クリスチャンの洗礼を受けたことがあった」と思いだしたのでした。洗礼を受けた印というのか、キリスト像の置物のようなものを貰ったのを思い出しました。その台座の後ろには、確かわたしの洗礼名が書かれていたと思います。しかし、何年あとだったか、いつまでももっていても仕方がないと思い処分してしまいまいた。

 

そして思うのですが、あの時の、たえず優しげにニコニコしていたあの牧師は、かなり修行のできた人だったに違いないと、いまになって思います。そうでなければ、あのように始終嬉しげにニコニコしておれるものではないと、わたしは思うのです。

 

以上は、ネット上の「心のともしび」の中にある、シスター・渡辺和子さんが書いておられる、短いがしみじみとした味わいのある話を読ませてもらいながら、日本に、このような方ががおられることを日本人として誇りに思いつつ、そう言えば自分も一度洗礼を受けたことがあったんだと、懐かしく、嬉しい気分になり、思い出話をさせてもらいました。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 


「オール1の成績から先生になった」宮本延春さんの講演会②

2018年08月04日 | 人生

(昨日の記事からの続きです)

宮本延春(まさはる)さんは貧乏家庭に育ち、プレハブの家に住み、自転車も買ってもらえなかった。

中学を卒業後建築現場で働くことになったが、親方はすぐ怒るような人で、こういう人のもとで働いていても良いことはないというので、3年ぐらいで退職。最初にもらった賃金は7万円だったとのこと。

 

お母さんは15歳のとき、肝臓がんで他界し、父もまた18歳の時、他界、文字通り天涯孤独の身となりました。

 

その後、何歳の頃かわかりませんが、1ヶ月13円で過ごしたこともあるとのこと。その時何を食べたかというと、タンポポの葉を似て食べ、蛋白源としてアリを食べていたとのこと。強い風が吹けば吹っ飛びそうなプレハブ小屋に住み、自転車が欲しいので、廃品の中から壊れたパーツをかき集め、何とか自転車らしくして自転車の代用として使っていた。

 

そんな生活をしていたころ、誰かに誘われて、建築会社に正社員で雇われることになった。正社員だから健康保険付きで、「安心して風邪もひける」と嬉しかったらしい。そしてそこの親方か社長か知らないが、とても良い人だったらしい。宮本さんが毎日同じ服を着てくるので、
「洗濯しているか?」と聞かれ、
「雨が降ったとき、その雨水で選択している」と答え、
「風呂に入っているか?」と聞かれて、「雨が降ったとき・・・」と答えると、
その親方か社長は、
「うちの洗濯機を使え」「うちの風呂に入れ」「飯を食べに行こう」と何かと親切にしてくれたのこと。
社長が親切にしてくれるので、社長に喜んでもらいたいというので、一生懸命働いた。

 

そして23歳の時、「アインシュタイン・ロマン」というNHKで放送されたビデオを見た。そして「相対性理論」をもっとよく知りたいと思い、数学を勉強したいという気持ちがふつふつと湧き起こった。

(10年前の読売新聞の記事では、近くで働いている恋人がそのビデオを貸してくれたとのこと。そしてその恋人は記者のインタビュニュー答えて、「彼は“知恵の輪”をするする解く才能があったので、ひょっとしたらと思い、そのビデオを貸しました」と答えていた。)

 

そんなことで24歳になった宮本さんは定時制高校へ通うことになるが、そのためには、他の人より早く仕事を切り上げなければならず、社長はそれを許可するばかりでなく、時には学校への送り迎えもしてくれたとのことでした。

 

定時制高校へ通い始めて、宮本さんは「名古屋大学の物理学科」合格を目指すことになった。自分が毎日通うことができ、しかも物理学科があるのは、この大学しかなかったからだそうです。しかし、定時制高校の先生方は、まじめには受け取ってくれませんでした。なぜなら、定時制高校も長い歴史があるが、ここから国立大へ入学したものなど一人もなく、まして中学の成績がオール1ですから、それも無理はありませんでした。でも宮本さんは本気でした。

 

そして、一発で見事に希望通り、その名古屋大学に合格し、物理学科で学ぶようになったのでした。

 

ここまで話を進めた後、宮本さんは、「オール1でまったくやる気のなかった私が、なぜこのようにやる気になれたか?」ということに話が移りました。そして、人間の「欲求」について次の5段階があるという話をされた。

 

ピラミッド型の一番下に①生理的欲求があります。その上に ②安全の欲求 さらにその上に③所属と愛の欲求があり、その上には④評価欲求があり、一番上に⑤自己実現の欲求がある。

 

宮本さんの場合で言うと、新しく入社した会社の社長の親切で、生理的欲求、安全の欲求、所属と愛の欲求、評価欲求も満たされ、それが最後の自己実現への欲求にまで進むことができた、と分析された。

 

次に、「評価欲求」には「自己評価」と「他者評価」があり、この2つは表裏一体の関係にあり、子供の場合、親の子供への接し方によって、子供の自己評価が変わってくる。だから親の接し方はとても大切だと話された。

 

そして、最後に「自己肯定感」について話された。この「自己肯定感」があると、ルールを守ろうという気持ち、思いやりの気持ち、そして学習意欲も湧いてくるのだそうだ

 

では、子供たちの、「自己肯定感」を育くむにはどうすればいいか?

①  Doing 子供の行動を評価してあげる。つまり、良いことを見つけて褒めてやる。

②   Having どんな個性や特徴をもっているか。その個性、特徴を評価する。

③   Being  「在り方」ともいう。ここではDoingもHavingも何もなくても、ただ、あなたがいてくれるだけでよい、という気持ち。この気持ちが一番重要。

 

「ただ、あなたがいてくれるだけでいい」これが、子供、あるいは他に対する最大の評価である。

そして最後にはこうも言われた。

「あなたがあなたでいるかぎり、あなたは愛される存在だ」

 

最後まで読んでいいただき、心より感謝申し上げます。ありがとうございます。

 

 

 

【追記】
ある日、安倍総理大臣から宮本さんに「話を聞きたいから官邸へ来て欲しい」という電話があったとのこと。宮本さんは、いろいろしなければならないことがあって出かけられないので、総理の方からきてほしいというと、総理も忙しく「それはできない」とのことだったので、官邸へ出かけたとのことでした。

まあ、安倍総理も、少しは教育のことを心配しているんだなと思いました。

それから、先生は「話を聞かせてくれ」と言いますが、話を聞いて、真剣に対処してくれる先生か、いい加減のところでごまかす先生か、そういうことは子供たちにもちゃんとわかるそうです。そして、いい加減なところでごまかす先生にうっかりしゃべると、後で大変なことになる、ということも話をされていました。

 


「オール1の成績から先生になった」宮本延春さんの講演会 ①

2018年08月03日 | 人生

今、「オール1の成績から先生になった」という宮本延春(まさはる)さんの講演を聞いて帰ってきたところです。

 

家に着いてからある人のブログを拝見したら、名古屋の最高気温が40度を超えたということが書かれていて、この記録的暑さの中、冷房がしっかり効いた公民館で、素晴らしい話を聞き、とても良い時間を過ごさせてもらたと知りました。

 

宮本さんは1969年生まれで、両親は実の両親ではなく、もらい子だそうです。母はとても優しくいい人でしたが、父は呑み助のすぐ怒鳴るような人だったらしい。そして、親戚づきあいはどういうわけかまったくなく、家庭は貧しかったとのこと。

 

宮本さんが小学2年の時、前の席の体の大きな女の子が給食費を忘れ、宮本さんに「お前の給食費をよこせ」といわれ、返事をできないでいるうちに金を取られた。給食費を取られてしまったから、仕方なく親に話し、学校へ伝わり、職員室へ呼ばれ、そこに女の子もいて、その場で形だけの仲直りをさせられた。つまり、これでこの話は1件落着にされた感じで、不満もあったらしいが、女の子のグルーブからの仕返しが怖かったらしい。

(まあ、先生にしてみれば、まだ小学校2年の女の子を、そうきつく注意するわけにもいかなかったかもしれませんね)

 

同級生から何か無理を言われたとき、どう返事してよいかわからず返事ができないでいると、相手は、「こいつは何を言っても言い返せない奴」と考え、ますます図に乗っていじめがエスカレートしてくるということとも話されましたが、いじめについては、これ以上の話はされませんでした。

 

(それにしても、小学2年生の女の子が、こんなことをするのかと正直驚きました。きわめてまれな例だろうとは思いますが)

 

ところでいじめにあっている子は、相談相手があるとすれば、親か、先生しかいないそうで、親にも心配かけてはいけないと思ってなかなか言えないらしい。もし、子供からいじめにあっているという話を聴いたら、親としてどうすればいいかというと、宮本さんはおよそこんなふうに教えてくれました。

 

○そうか、つらかったろうな、よく話してくれた。お父さんはいつでもお前の味方だから、もし、これからもいじめにあうようなことがあったら、きっとお父さんに話してくれ。なあに、いじめる奴より、いじめられる方が強いに決まっている。いじめる奴なんか、ほんとうは弱いんだ。

 

ということで、共感的理解が必要だと話をされ、それを細かく言えば、①肯定から始める ②価値観を押し付けない ③子供の気持ちに寄り添うことだそうです。そして、指示命令ではなく、選択肢を提案するのがよいということも言われました。

 

また次のようなことも言われました。

○子供は成績がいくら悪くても、それで自殺しようとは思わない。自殺を考えるのは不安や恐怖があるからで、そういう不安や恐怖はいじめが原因である、と。

 

小学生の宮本少年は学校へ行くといじめられるので、ときどき学校をさぼって――毎日では学校をさぼっていることがばれるので――本屋さんで立ち読みして時間を過ごしたらしい。

 

ある時、巡回中の婦警に質問され、交番へ連れていかれた。そして婦警から男のお巡りさんに変わった。そのお巡りさんから「どうして学校をさぼるんだ?」と質問されるのを期待した――なぜ期待したかといえば、自分がいじめにあっていることを話せば、話が広がり、いじめがなくなるかもしれない――そう思ったが、男の警察官は「なぜ、学校へ行かないのか?」と聞くのではなく、ただ「小学生が学校をさぼるなんて怪しからん」と、叱るだけだったようです。

「オール1の成績から先生になった」宮本延春さんの講演会②


本当の父とは?

2018年07月28日 | 人生

中学生で15歳になる少女がいた。彼女の父親は血のつながっている本当の父親ではないが、彼女はまだそのことを知らない。

 

ある時、彼女の母親に友人から1通の手紙が来た。その手紙は、フランスに住んでいた母親が若かりし頃の恋人だった彼―—娘の父親――が他界したことを知らせるものだった。

 

それで母親は、娘に本当のことを知らせる時がきたと判断し、娘に「あなたの本当の父親は・・・」と本当のことを話した。

 

事実を知らされた娘は、なぜもっとそれを早く教えてくれなかったのか、今までほんとうの父だと思っていたのは「ニセモノの父だった」と騙され続けてきたような不信感に襲われた。

 

娘は思う。
「もっと早く知らせてくれてたら、その本当の父に逢うこともできたのに。いくら逢いたくても、もうその父の顔を見ることもできない。それを不可能にしたのは、ニセモノの父ではないか」
「私を妊娠していながら今の父と結婚するなんて何という不潔な母だ。それに父も父だ。他の男の”子”を妊娠している女と結婚するなんて、なんという不潔さだ」と。

 

そして、15歳の少女はすぐにでも不潔な父母のもとから飛び出したい衝動に駆られて悩むのだった。

 

「なぜもっと早く真実を教えてくれなかったのか」と迫る娘に対して、母親は言う。
「あまり幼いときに知らせても、“本当の父親のない子”という劣等感を持つようになってもいけないので、時期を考えていた」と説明する。

 

しかし娘は、
「私の父親の子を孕みながら、他の男の妻になるなんて不潔だ。その不潔な母から生まれた自分も不潔だ」と、どうしてもその思いを拭い去ることができず、悩むのだった。

 

そして、少女は他に相談相手もいないので、中学の担任の女の先生にその悩みを打ち明けた。

 

するとその先生は、
「私はあなたのお母さんを尊敬します。そういう恋人から棄てられたような悲しい状態にありながら、あなたをおろそうともせずに悲しい環境に打ち克って、あなたをここまで育てて来たお母さんを私は尊敬します。そのお母さんの過去を見ないで、お母さんと一緒に、あなたを自分の真実の子として育てて来たお父さんを尊敬します。一度直接お父さんの考えを聴いて御覧なさい」というのであった。

 

それで、少女は父親に尋ねた。
「なぜ他の男の子を孕んでいるお母さんを妻などにしたのですか?」

 

「私は彼女を好きだった。愛していたからだ。それだけだ。他の理由はない。愛する者を愛したとて、どうしてお前はそれを汚れたというのだ。過去は過ぎ去ったことで、もう過去はないのだ。私はお母さんの過去に引っかかろうとは思わなかった」

 

「なぜもっと早く、本当のお父さんが別にあるということをわたしに知らせてくれなかったのですか?」

 

「もし、お前にそれを知らせて、お前がそのお父さんを慕って行くというようなことになれば、そこに悲劇が起こるかもしれない。私はお前を愛しているから、お前を私から奪っていこうとするかもしれないその男を殺す気になったかもしれない。私はお母さんの過去を自分の家庭に持ち込まれ、お前の心の中に持ち込まれるのを好まなかったからだ。」

 

「だってお父さん、あなたはわたしの血のつづいているお父さんではない。本当のお父さんではない。本当のお父さんでもないのに、本当の父のような顔して私をだましつづけて来た」(娘泣く)

 

「15年間、自分の本当の娘と思って愛してきたのに、ただ、血がつながっていないというだけで、お前はわたしを“本当の父”ではないというのか。“本当の父”というのは、ただ血がつながっているだけで、お腹の中にいるお前を棄てたその男の方が“本当の父”だというのか。“本当の父”というのはそんな浅墓なことなのか。15年間も“本当の娘”として“父”としてお前を愛し育ててきた愛はそのままで何の価値も認められずに、空しくなって行くものか」

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

以上は古い『生長の家』誌の中に紹介されていたテレビドラマ(「中学生の群像」という番組)のあらすじですが、考えさせられるところがあったので、少し編集してここに紹介させていただいたものです。

 

そして、このドラマの最後は、
「過去はないのだ。今ここに、本当の父と娘とがあるではないか」という意味の言葉で、娘の心は落ち着き、the endとなったようです。

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

しかし、それにしても「本当の父親」ってなんですかねえ。
もし、自分がこの娘だったら・・・やっぱり、この娘のように悩むだろうし、
この父親だったら・・・やっぱりこの父親のように、娘に向かって同じことを言うだろうと思う。
しかし、娘だったら・・・はたしてこの父親の言葉に納得しただろうか?

多分、20代が終わるころまでは自分の運命をアレコレと考えざるをえなかったに違いないと思う。
そして、そのことがきっかけとなって、人間について、人生について、本を読み考えたりし、そうしているうちにも人生は先へと進んで行き、そのうちに結婚し、子供ができ親となり、さらに孫ができるころになると、きっとそれで良かったと思えるようになるのではないか。

そんなふうに考えられるようになるのは、自分も人生を生き、人生が必ずしも自分の思うようにはならないことを学び、父や、母の苦しみや、それに負けず頑張って自分を愛し、育ててくれたことを、自分の人生と重ね合わせて理解できるようになるからだろう。そうなったとき、父よありがとう、母よありがとうと、心から感謝できるようになっているのではないか。
そして、そんなことをぼんやり考えていると、自分の父、母が恋しく懐かしくなってきたことでした。

そういえば、もうすぐ8月、盆ですね。

          

          父母のしきりに恋し雉の声   (芭蕉)

 

          闇の夜に鳴かぬ鴉の声聞けば 生まれぬ先の父母ぞ恋しき   (道元禅師)