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気の向くままに

山、花、人生を讃える

「365日の紙飛行機」

2019年06月04日 | 人生

或るブログに「なんとか48」というアイドルグループの歌の動画があり、再生して聞いてみると、歌詞がとても良かった。それで歌詞を検索したのだが、下にあるのは、検索した歌詞をそのままコピーさせてもらっていたもので、久しぶりにそれを見て、あらためてとてもいい歌詞なのに感心し、ここにも掲載させてもらうことにしました。

こういう素敵な歌詞が、若者たちの間で歌われているとしたら、とても素晴らしいことだと思う。

 

4,5年前に息子の結婚式の余興でアイドルグループの「恋するフォーチュンクッキー」の一部分を踊る羽目になったが、その歌詞もとても素敵だったのを思い出します。このような歌がたくさんの若者に歌われるなら、「未来は明るい」と感じるのは私だけではないだろう。

 

相変わらず暴力沙汰を繰り返してマスコミをにぎわす大人は、童心に返り、若者と一緒にこのような歌を歌い、踊るようになったら、暴力沙汰も消えていくに違いないと思う。

 

  「365日の紙飛行機」  作詞 秋元康

    朝の空を見上げて
    今日という一日が
    笑顔でいられるように
    そっとお願いした

    時には雨も降って
    涙も溢れるけど
    思い通りにならない日は
    明日 頑張ろう

    ずっと見てる夢は
    私がもう一人いて
    やりたいこと 好きなように
    自由にできる夢

   ✱人生は紙飛行機
    願い乗せて飛んで行くよ
    風の中を力の限り
    ただ進むだけ
    その距離を競うより
    どう飛んだか
    どこを飛んだのか
    それが一番大切なんだ
    さあ 心のままに
    365日

    星はいくつ見えるか
    何も見えない夜か
    元気が出ない そんな時は
    誰かと話そう

    人は思うよりも
    一人ぼっちじゃないんだ
    すぐそばのやさしさに
    気づかずにいるだけ

    人生は紙飛行機
    愛を乗せて飛んでいるよ
    自信持って広げる羽根を
    みんなが見上げる
    折り方を知らなくても
    いつのまにか
    飛ばせるようになる
    それが希望 推進力だ
    ああ 楽しくやろう
    365日

✱繰り返し

    飛んで行け!
    飛んでみよう!
    飛んで行け!
    飛んでみよう!

 


「神はいる」と思うようになったきっかけ

2019年06月03日 | 人生

 

私が「神はいる」と思うようになったのは、谷口雅春先生の『生命の実相』を読んだのがきっかけだった。

当時私が思っていたのは、もし仮に神が本当にいたとしても、目に見えない神を納得できるように説明することは至難と思っていた。ところが、この本を読んで、「神はいない」と考えるよりも、「神はいる」と考える方が、はるかに理論的であり、知的であり、実際の人生と照らし合わせても、いろいろの面で筋が通っていることを知り、読み進むにしたがって感動を覚えながら「神はいるんだ!」と思うようになりました。そして、次の1節が、その思いを決定的にした。

 

○「神は人間がこしらえたものであって、神など存在しない」という人がいるが、それは一面においてはそうかもしれない。しかし、人間の中に神がいなかったら、人間はその神をこしらえることもできないのである。人間が神を造ったということは、人間の中に神がいるからであり、人間の中に神がいるということは、神が人間を造ったという事でもある。

 

と、凡そこのようなことが書かれていた。

 

さて、神とか仏とかいう言葉から神罰とか仏罰という言葉を連想する人もいるかもしれないが、それは常識的に考えておかしな話だと思う。

 

先日、スポーツの世界でコーチの暴力がまた話題になったが、そのような人間の世界でも非難されるようなことを、神様がすると考えるなら、それはナンセンスというほかはない。

 

「罰」という言葉を使って、もし脅しをかけることがあるとしたら、罰はなくともその脅しそのことが、人間として褒められたことではないし、子供によく言われる「神様の罰が当たるよ」などと言うのも、やめた方がよいに違いない。

 

           合掌す 君のいのちに

           礼拝す 吾のいのちを

           聖なるかな 神の愛ぐし児

           聖なるかな 神の愛ぐし児       「いのち柱の歌」より  谷口雅春作詞

 

わたしには、はるかに遠いけれども、一歩づつでも進んで行こう思う。  

 

 


今のうちに、愛妻孝行

2019年05月30日 | 人生

月刊誌に次のような人生相談が書かれていた。

 

≪相談内容≫

30年連れ添った妻に先立たれて1年、子供もいないので一人ぼっちの生活になり、心に穴が開いたような状態となり、毎日ため息ばかりついています。妻は明るく社交的な性格だったため、「いつまでも落ち込んでいては妻が悲しむ。外に出て何かしないと」と思いながらも、その気が起きません。どんな気持ちで毎日を過ごしたらいいのでしょうか。(55歳、男性)

 

と、こんな内容の相談である。

 

すると、その回答者もまた、18年間連れ添った妻に病気で先立たれ、そして子供もいなかったので、1年ほどは寂しい思いをしたとのこと。しかし、1周忌が過ぎてからは気持ちを入れ替え、奥さんの供養に勤めながら、何事も明るく前向きに思い、念じ、その様に日々の生活を送っているうちに、「人間の生命は永遠生き通し」という教えが心に染みて来て、気がつけば悲しみも薄れ、普通の生活が送れるようになったとのこと。

 

まあ、寂しさに負けないだけの強い意志が必要なようだが、これを見習うことができるかどうか私には自信はない。
それよりも、今のうちに後悔しなくてもいいように、できるだけ、愛妻孝行を心がけていこうと、そんな気持ちになったことでした。


男は女性の支えあればこそ

2019年05月27日 | 人生

NHK「歴史秘話ヒストリア」、副題「日本人ペリーと闘う 165年前の日米初交渉」を見ました。

 

日本が鎖国から転じて開港した件について、今まで武力を背景にしたペリーの恫喝に屈して開港した、というのが一般的な理解と思うが、この番組では、日本側もこの日の来るのを予期し、そのためのできるかぎりの準備もし、残された日米交渉の記録をたどりつつ、幕府も武力衝突とならない程度によく交渉し、健闘していることを紹介していました。

 

これは日本人にとってうれしい話でしたが、もう一つそれとは別の嬉しい話がありました。

 

それは、ペリー艦隊に水や食料を寄付した浦賀在住の一人の漁師がいたというのでした。
大きな黒船を目の前に見て、ただ驚くいているばかりの日本人を想像していましたが、なんと一人の漁師が水と食料を寄付したというのですから、実に素晴らしいと思いました。そして、船で使っていた鉄の大鍋がペリーから御礼としてその漁師にプレゼントされたとのこと。その大鍋がテレビで紹介されていました。

 

多くの外国人が日本見聞記の中で、「日本人は人懐っこく、いつもにこにこしている」という様な意味合いのことを書いているらしいが、ここでも、その敵意をもたない人懐っこい一面が現れているように思う。

 

また、横浜で幕府側と交渉していた当時、ペリー自らが農家(名主)に遊びに出かけたらしく、その時、名主の妻や妹からお菓子や酒のもてなしを受けたようで、その時の日本女性の印象についてペリーはこう記しているとのこと。

 

○若い娘は、姿良く美しく、その振舞いは活発である。また女性は周りから大切に扱われ、本人も自覚し、品位を保っている・・・・と。

 

ときどき、日本の国柄の一つとして、「男尊女卑」「封建的遺物」ということが言われますが、わたしはそういう一面があることは認めますが、必ずしもそうではないと思っていて、このペリー提督の見聞記もそのことを証明している気がします。「男尊女卑」は明治から云われるようになったと聞いていますが、私が尊敬する勝海舟も、山岡鉄舟も「男尊女卑」という見方に対して、本の中で「それは正しい見方ではない」と反論していたのを思い出します。それは言わば、人々の注目を浴びやすい野球のピッチャーと、それを陰で支えるキャッチャーの様なもので、それを男尊女卑とみるかどうかは、人それぞれの解釈ではないかと思います。 

 

ところで、番組の中のこれらのエピソードを「へえ~!」という気持ちで見ていて、思い出したことがありました。

 

それは今から17年前、私が53歳の時、自宅を火事で焼き、火災保険は入ってなくて銀行のローンで、すぐ新築しました。それから3年後、わたしは以前から、「船の仕事を辞めたい」と思っていましたが、そのせいか、ある面白くないことがあって、本当にやめたくなりました。しかし、生長の家の教えでは、「嫌なことや辛いことがあっても、その嫌なこと辛いことはあなたを磨くために起きて来るのだから、そこから逃げてはいけない。あなたがその事を卒業しない限りは、たとえ逃げても、環境は心の影だからまた同様なことが起きてくると」いう様に教えられています。

そんなわけで、逃げてはいけないと思っても、自分が辞めたいと思っているせいか、心の奥から「お前は会社をやめたいと思っているくせに、経済的に心配だから辞めることもできず、このまま会社にしがみついていくつもりか。それでは男として情けないだろう」という囁きがきこえてくるのでした。

 

それで、辞めるべきか、辞めざるべきか、ずいぶん悩みましたが、最後は「迷っていても仕方がない、何とかなるはずだ」と、思い切って辞める決意をし、家内にそのことを話しました。家内は突然の話に心配そうでしたが、反対もせず、「お父さんがそうしたいなら・・・」と承諾してくれました。

 

この様に、家内も了解してくれたことが、自分にとってどんなに救いだったか。もし、「辛いだろうけど、何とか頑張って」などといわれていたら、ずいぶん苦しい立場になっただろうと思います。そして今更ながら、その時のことを有難く思うのです。

 

そして、このあとはこちらが就活もしないのに、祈りがきかれ、驚いたことに或る会社から「是非わが社に来て欲しい」という電話をいただき、そこに再就職しました。

 

その会社は横浜にある日本一の客船桟橋をホームポートにする会社で、近くに「山下公園」、「港の見える丘公園」があり、辞めるには惜しくもありましたが、3年勤めた後、60歳になったのを機に、その会社も退職しました。この時も、家内としてはまだ働いて欲しかったはずですが、何も言わず、「いいよ」と言ってくれたので、本当に助かりました。

 

それからもう一つ、現役を退いた後、女性と接する機会も多くなり、家内から「女の人を敵に回すと怖いよ」と度々脅かされ、いや、教えられ、できるだけ女性を敵に回さないよう心掛けている次第です。(笑) 

ま、それはともかく、言いたかったのは、男尊女卑というよりも、男は女に支えられているということでした。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


「人生の光となった言葉」から

2019年05月18日 | 人生

生長の家の月刊誌に「人生の光となった言葉」というコーナーがあるのですが、そこに次のような体験が書かれていました。
とても良い話なので、紹介させてもらいます。

 

 

今から20年前、Aさんは青年会全国大会の会場準備をしている時、警察から「高校生のお嬢さんを補導した」と連絡があったとのこと。
その娘さんは友人とカラオケに行き、タバコを吸ったらしい。

 

Aさんがその電話を受けたとき、とっさに思い浮かんだのは。本の中の次の1節だったとのこと。

 

○「信じていたのに騙されました」という人があるものだが、その人は信じてはいたけれども、屹度善念を送らなかった人に違いない」
                                                 (生長の家創始者 谷口雅春著『光明道中記』)

 

それでAさんは、「日頃、仕事にかまけて、6人の子供たちのことは放りっぱなしだったことを反省しました」と書いている。

 

そして、帰りの電車の中で、同書に書かれていた、

○子を信ずるとは放っておくことではない。『善い子だ、ありがとう』と念じ称え、感謝の念を送ることである。

 

と書かれていたのを思い起こし、必死に念じ続けたとのこと。

そして、Aさんは次のように書いている。

 

帰宅し、殴られるかもしれないと覚悟をしていた娘には、「二度とするな」とだけ言って寝ました。
すると翌日、娘は金髪を元の黒髪に戻し、超ミニスカートも改め、煙草もやめました。
そして生長の家の役も引き受けるようになったのです。今その娘は2歳の娘を育てながら青年講師として頑張っています。

 

と、このように書き、最後は、こう結んでいます。

 

あの時以来、私は「皆神の子で素晴らしい」という教えを忘れることなく、すべての人への礼拝を心がけています。

 

ということでした。これは「言うは易く行うは難し」ですが、しかし、いくら難しくても、自分自身が幸福になるためにも、そして自分の接する人たちの幸福のためにも、努力していかなければならないと改めて思いました。

 

「自分はこの程度の人間だ」「あいつは、あの程度の人間だ」などと思っている限りは、いくら良くなろうと思っても、よくなれっこないことは、はっきりしているのだから。

 

わたしは近頃、「虹のじゅもん」というブログの詩のコーナーにある「「海の誓い」という素晴らしい詩の一節を思い出したりしながら、自分を勇気づけることが多くなりました(年のせいかな)。

 

      海はきっと覚えている
      真剣なまなざしを
      固い誓いを

      海は待っているに違いない
      叶った夢の報告を
      叶わなかった夢の報告を
      新しく見つけた希望を

      海は信じているだろう
      私達が本気で生きていると
      一生懸命生きていると

 

全文を読みたくなった方は、ここをクリックして下さい。(「海の誓い」に直通します)

https://blog.goo.ne.jp/xanadu-23/e/e14dc9389880a2db5c99f27b9e2c58cf


ある、いい話

2019年05月16日 | 人生

10日(金)~12日(日)は嬉しい楽しい練成会があった。

 

11日は県外からのゲスト講師を招いていたので、特にこの日は200人を超える参加者があり、道場に入りきれないぐらいの大盛況だった。わたしはパソコンに張り付いて参加者の名前などを入力しながら、ゲスト講師の話を聞いていた。以下はその覚書です。

 

 

或る一人の女性が空港の売店で、何となく本を買い、お菓子を買った。そして椅子に腰を下ろし、買った本を読み始めた。そして、お菓子をバッグから出してつまみ始めた。と彼女は思っていた。

彼女の隣には男性が座っていたが、彼女がお菓子をつまむと、隣の男性も、そのお菓子をつまんで食べる。彼女がつまめば、男性も同じようにつまむ。

その男性の様子に、彼女は「なんて図々しい男」と思いながら、素知らぬ顔で本を読み、お菓子をつまんでいった。その繰り返しで、ついにお菓子は最後の1つになった。

彼女はその最後の1つを、隣の男性はどうするだろうと思い、その一つには手を出さないことにした。

すると男性は、その最期のお菓子を手に取って、半分に割り、その半分をニコニコと彼女に差し出した。

彼女はその男性の、まるで自分のお菓子を人さまに分けるかのような、悪びれもしない平然とした態度に、ますます「なんて図々しい奴」といよいよ腹が立った。が、彼女は何も言わず、搭乗時間が来て機内の人になった。

そして落ちついてから、何かを出したくなってバッグを開けると、なんと、先ほど食べたと思っていたお菓子が、バッグの中に入っているのに気がついた。

それでようやく、自分のお菓子だと思って食べていたのは自分のものではなく、隣にいた男性のものだったと初めて気づき、恥ずかしさでいっぱいになった。そして、男性に謝りたいと思ったが今となってはどうにもならなかった。

そして最後に、彼女がこの経験から学んだという結論的な話があり、それが思わずホロリとなるとても良い話だったが、そこがどうしても思い出せない。あとは自分で想像するよりほかはないのだが・・・まるで何も浮かんでこない。

それとは別に、この男性は、「なんて図々しい女」とは思わず、最後の一つを半分に割り、ニコニコと彼女に渡すとは、実に素晴らしい紳士がいるものだと感心させられた。

 

話が長くなるが、ここまで書いてきて、10年ぐらい前の私の兄の話を思い出した。

 

兄の車のボディーに少し傷がついていて、「私がどうした?」と聞くと、

「小さい子供を乗せた若い母親にぶつけられた」という。

「それでどうした?」とさらに聞くと、

「何も言わずに許してやったよ。最後に、運転席に乗った母親に、あんたいい人にぶつかってよかったなあといってやったら、嬉しそうに笑っていたよ」と愉快そうにいう。わたしは大いに感心して、

「ふ~ん、偉いねえ!」と言うと、

「自分の娘と思ったら、文句も言えんだろう」

とのことだった。そう言ったときの笑った顔が実に良かったのである。それで、もし自分にもそんなことがあったら、「あんたいい人にぶつかってよかったなあ」とにっこり笑って、同じセリフを吐いてやろうと思ったのでした。


人間はあらゆる年齢において美しい

2019年04月19日 | 人生

このブログを開始したのは10年前の4月11日、つまり10周年を迎えました。

今日までよく続けて来られたと思いますが、これも訪問してくださる方がいればこそと、心より感謝申し上げます。ありがとうございます。

 

さて、先日古希を迎えた私ですが、わたしはこの年になっても夢、理想持って生きていられることを幸せに感じ、有難く思っています。今現在は満足できないところが多々あるけれども、まだまだこれからいくらでもよくなれるという希望があるということは、ありがたいことだと思う。一度だけでなく、幾度もこの世に生まれて来て、経験を積み重ねながら向上し、素晴らしくなっていくのが人間ではないかと思う。

 

先日、わが家に掛けてある生長の家の日訓に、

「人間はあらゆる年齢において美しい」とありました。

 

とても美しい言葉だと思う。以下はその詳細ですが、私と同じように、このような美しい人間観、人生観を喜んでくださる人もいると思い、本から抜粋したものをここに掲げさせていただきます。

 

実相の表現身としての根本的願い:なぜ、われわれはいつまでも若く美しくありたいと願うのであろうか。それはわれわれの生命の実相(実のそのままの相)が、いつまでも、若くして美しいからなのである。なぜなら人間は大生命(すなわち神)の分身であり、神は永遠に老いることなく、永遠に美しいのであるからである。われわれの肉体はその永遠に若く老いず美しき実相が、時間空間面に映像されたところの表現身であるからである。表現身が実相身の永遠の美と若さとを表現したいと欲するのは当然のことなのである。

 

人間はあらゆる年齢において美しい:≪前略≫ 実相永遠の美は現象身の一時期だけに限ってあらわれるのではないのである。何も青春時代の肉体や容貌にのみ“神の子”の実相の美しさがあらわれて、老年の肉体や容貌には“神の子”の実相が現れないわけではないのである。人間はあらゆる年齢において美しいのである。(以下略) 

 

神の最高傑作としての人間:まだ充分語ることも歩くこともできない幼児の美は誠にも“神の傑作”と言ってもよい美である。幼児で、外敵や気候の変化に対して抵抗力をもっていないで、誰かの助けを借りなければ死んでしまうような赤ん坊が大人から愛されて護られて生きのびることができるのは、その肉体や容貌に表現されている幼児美の魅力の力である。
 幼児の美は、青春の美と種類が異なる。青春の美には、どこかセクシーな美が感じられる。美の表現にもその生命体の表現の時期に応じて、異なる雰囲気を伴っているものである。異なる美の表現をしながら、いずれも神の傑作なのである。それは善とか悪とかの問題ではないのである。生命体の“中心”に“変わらない不変のもの”があり、その“不変の実相”の美しさの“いろいろの面”が時期や年齢を通じてあらわれるのである。(以下略)

 

人体の美・精神の美・魂の美:≪前略≫ かくのごとくして人間の表現の美はいろいろの時期の段階に随って変化してくるのだけれども、その表面の変化の奥に変わらない「その人なるもの」――生命の実相が一本“幹”として貫いて存在するのであって、その人の年齢や時期においてあらわれてくる美は、それは樹木に喩えれば、同じ変わらない幹から生じたところの季節によって芽を吹いたる異なる美、春の若芽のふくらみの美から、やや若葉が開いた時の新緑の美、それから盛夏になって… ≪中略≫ それぞれの時期に発現する美は、他の時期にはみられない“代替えすることのできない美”であるから、それは絶対美であって比較を絶した美しさなのである。

 

人間の美の最も根源的なもの:人間の遺伝の根源的なものは、“人間の生命は神より発祥したものであり、その神の万徳を継承する”というのが根源的遺伝であり、その神からの遺伝の中に最高の美があり、それを“神の子・人間”は継承しているのである。環境、境遇、教養等の変化によってそれ以外のものが遺伝するように見えても、それは第二次的なものであることをわたしたちは知らなければならないのである。

 

以上は生長の家の創始者谷口雅春著「如意自在の生活365章」からの抜粋でした。

 

        ≪夢≫

      


古希を迎える

2019年04月09日 | 人生

先日(6日)、古希の誕生日を迎え、娘夫婦に会食料理のご馳走でお祝いをしてもらいました。

自分もいつの間にかそんな年になってしまったのか、というのが実感です。

 

なんとなく60歳までは元気でいられるという気がしていたし、保険などに頼りたくないという気持ちもあって、健康保険、生命保険も入らずにきましたが、結局70になった今も元気で、薬や医者のお世話にもならず、よくここまでこれたなと思います。

 

娘のことですが、彼女が就職するとき、

「お父さんはどんな会社に就職してもらいたい?」と聞くので、

「自分の就職したいところに就職すればいいんじゃないの?どうしてそんなことをお父さんに聞く?」と言うと、娘は

「私の友達の親はみんな、大きな会社がいいと答えるそうだよ」と言うので、

「大きな会社がいいとは言えないよ。どんな部署に配属されるかもしれないし、どんな仕事をするのかもわからない。反対に小さい会社でも、頼りにされて働き甲斐ができていいかもしれない。それに、大きな会社でも業績が悪化することもあるし、今小さくても、成長することもあるから、小さい大きいにこだわらず、自分が就職したいと思うところへ就職できるのが一番だと思うよ。

 

と、そんな話をしたことがありました。娘は独身時代、楽しげに会社の話をよくしてくれ、また結婚してからも、数年後に旦那の田舎に新築し、その自宅から歩いて通える距離の会社に就職しましたが、そこでも大事にされているらしく、産休中に一人目の子供を連れて会社に挨拶がてら遊びに行ったりまでしている話を聞くと、ほんとうに恵まれている奴だなあと思います。

 

ついでに二男の話をしますが、結婚した相手の娘の親と一緒に食事をした時、「本当にいい息子さんで、どうやって育てたんですか」と聞かれたことがありました。普通ならお愛想と思い、「いえいえ、不束な息子で」と答える所かと思いますが、その時、わたしは「僕も、自分にどうしてこんな息子が生まれてきたのか不思議に思っている」と正直に答えたものでした。

 

それどころか、ある奥さんからは、お宅の息子さんが仕事をしているのを見て、こんな人をぜひうちの娘の相手に欲しいと思って、息子さんの後をつけたことがあるんですよ。その時の車がお宅の庭に止まっているのでびっくりしました。お宅の息子さんだったんですねえ。といわれたこともありました。

 

家内の育て方がよかったのか、あるいは親父の私が、家にいないことが多く、それが良かったのかもと思ったりしているわけですが、ともかく、この私が古希を迎え、そして、年寄り臭く、恍惚気分で娘、息子自慢をせっせと書いている。何か本当に年寄りになったような変な感じです。

 

                ≪古希の花束≫

                             


神様に手紙を書く

2019年03月22日 | 人生

50歳ぐらいの時、労働組合への出向を命じられた。

 

私はどちらかと言えば「武士は食わねど高楊枝」が好きなので、賃上げ要求を主な仕事とする労働組合への出向は気が重かったが、ある組合支部に3年在籍し、そこで10社を担当することになった。

 

仕事に慣れてきた2年目の秋のある日、ある小さな会社の組合員から電話がかかってきた。


「今年の初めにはボーナスは出すと言っていたのに、ここにきて社長が一銭も出せないと言い始めた。手当も削られ、ボーナスまで出せないでは、みんな困るんだから、何とかしてくれ」というのであった。

 

それでさっそく会社に出向き交渉に臨んだ。当時はバブルがはじけて以後、日本経済の低迷が続いていて、内航のタンカー業界は石油会社から運賃を下げられ苦しい経営が続いていた。

 

そういう事情を社長は一所懸命説明するが、こちらはこちらで、組合員を代弁し、手当も削られ、ボーナスも出せないではやっていけない、苦しいのは分かるが、それでは労働意欲もなくなる、などといってお互いに譲らず、そのうちにだんだんと頭に血が上り、声も大きくなり、まるで喧嘩口論のようになった。

 

間仕切りされた部屋の外では、6,7人の事務職員たちが仕事をしていて、私たちの大声はつつ抜けだったようだ。そして、事務職員の中に40歳ぐらいになる社長の娘さんがいて、その娘さんがたまりかねたのか、私たちがいる部屋に入って来てこう言った。

「お互いにだいぶ頭に血が上っているようですが、それではよい交渉は出来ないと思いますので、今日のところはここまでにして、後日、改めてということにしたらどうでしょうか?」

 

予期せぬ突然の仲裁に、私は頭から冷水を浴びせられた気がし、「しまった」と思いながら、迷惑をかけたと謝ることにも気づかず、あいさつも忘れ、無言でその会社を出た。

 

娘さんに仲裁に入られたことにより、わたしは弱い者いじめをするヤクザの借金取りか、あるいは時代劇ドラマの悪代官、悪徳商人になった気がして、どうにも情けなく、家に帰ってからも悶々としていた。そして「こんな無様なことになったのも仕方がないじゃないか」と無性に神様に言い訳したい気持ちになっていた。同時に、「こんな問題を、素人の自分がどうやって解決できるんだ!」と文句を言いたい気持ちでもあった。そして、ふと神様に手紙を書こうと思いつき、「そうだ!」と、すぐにパソコンに向かい、神様に手紙を書き始めた。それは「気持ちを伝えたい」とラブレターを書いた時のことを思い出させた。

 

そして、事の成り行きを書き、自分の気持ちを書き、社長の言い分、組合員の言い分、その間に立ってどうしていいかわからないこと、そして最後に、どうぞ神様、双方にとって最も良いようにお導き下さい、というようなことを夢中になって書いた。2時間ぐらいして書きあがり、それをプリント・アウトし、便せんに清書し、封筒に入れた。

 

書き始めた時は悶々としていたが、書きながら、頭の中がだんだんクリアーにっていくのを感じ、書き終わったときにはすっきりしていた。そして布団に入って寝た。

 

翌日、その手紙を神棚に供えた。
そして、気がつけば、ウソではなく、大げさでもなく、本当に晴れ渡った青空のような清々しい気分になっていた。そして、神様に手紙を書くことはこんなにも効果があるのかと驚いた。しかも、その雲一つない晴れ渡った青空のような気分は、その日だけでなく、1ヶ月以上も続いてくれた。他にも仕事がある中で、本来なら再交渉を思い憂鬱なはずのところを、まったくそのことが苦にならないばかりか、ずーとそのような気分でいられたことは本当に有難かった。そして嬉しいことに、再交渉もしなかったのに、こちらの希望通りボーナスは満額支給された。

 

満額支給は会社が奮発してくれたからだが、私が晴れ渡った青空のような気分になれたのは、間違いなく神様のお蔭である。こうして、私は心に重荷を背負ったときには、神様に手紙を書くことを覚えた。神様に聞いてもらったと思うだけで、下駄を預けたように、随分気持ちが楽になるのである。

 


ラブレターの思い出

2019年03月21日 | 人生

私が中学3年のとき、ほんのちょっとしたきっかけから好きになった同級生の女の子がいた。

 

中学を卒業して、わたしは男ばかりの全寮制の高校に入学した。男ばかりの全寮制というというところに魅力を感じたのである。

 

ところが、入学して間もなくの頃、ひそかに好きだったその彼女から手紙が来た。と言ってもラブレターと云う訳ではない。あまりよく覚えていないが近況報告であり、そちらはどうですか?という程度のものだったと思う。それでも、好きだった彼女から手紙が来たのは私の心に油を注ぐには十分だった。彼女から手紙が来なければ、心の中にしまっておかれるだけのはずだったのに、燃え上がるように火がついて、何度かの手紙のやり取りの後、ついに一か八かで、「好きだ」というようなことを書いた。

 

すると彼女からは、「あなたはあくまで私の大切な友達です」という返事が来て、あえなく失恋となった。

失恋したからには悲しいけれども、嫌われたくはないと思って、あっさりあきらめ、それっきりとなった。

 

ところが、私が4年生となり横浜で半年間の実習をしているとき、社会人となった彼女からまた手紙が来た。もちろんラブレターではないが、また私の心に火が付いたのは言うまでもない。

 

前回はわたしはまだ高1の子供だったが、4年生になったわたしはその時よりも大人になっている。私は好きでたまらない気持ちをどうしても彼女に伝えたい気持ちになっていった。しかし、「好き」とか「好きでたまらない」と書くのは簡単だが、それではいかにも軽すぎて、自分の気持ちとは大きなギャップがある。だから、「好きでたまらない」とは書けない。それを言わずして「好きでたまらない気持ち」を伝えなければならなかった。それで何とか自分の気持ちを言葉で言い表したいと思い、書いては破り、書いては破りを何度も繰り返し、そうして、どうにか「これなら」と思うものが書けて、それを投函した。

 

すると彼女からは次のような返事がきた。恥ずかしいが、今となっては笑い話なので書かせてもらうが、こんなふうだった。

 

「あなたの手紙を読んでいると汗が出てきます。もう少し淡々とした手紙が書けないものでしょうか」

 

他のところは覚えていないが、ここだけは今も鮮明に覚えている。そういうわけで、二度目もまた失恋となったが、なぜか嬉しさもあった。もちろん失恋した寂しさはあったが、自分の気持ちをどうにか言葉に表し、そして彼女に汗をかかせ、自分の気持ちを伝えることができたという妙な満足感があったのである。

 

わたしは中学3年の時、国語の宿題で「走れメロス」の感想文を書くことになったが、その当時は、文章を書くのが大嫌いで、どうにも困って苦し紛れに「何も感動しなかったから、感想文を書こうにも書きようがない」と書いて、こっぴどく叱られたことがあった。また普通高校へ進学しなかった理由の一つには、そんなことから大学の卒業論文というものに恐怖を感じていたからでもある。

 

しかし、必要に迫られて書いては破り、書いては破りとラブレターを書いているうちに、いつのまにか苦手意識はなくなり、心に思うことを言葉に表現できるようになりたいとさえ思うようになった。

とは言っても、相変わらず淡々とした文章は書けないのだが・・・。

この記事を読まれた方は、次の記事も合わせて読んでいただければ嬉しいです。

神様に手紙を書く

 


男たちの願望

2019年03月20日 | 人生

私が会社を退職するとき社長に挨拶に行くと、社長は「退職するにはまだ早いが何をするつもりか」と聞くので、わたしは「ボランティアでもやりたいと思います」と答えた。
すると側にいた重役が、「重役たちもみんなそういうことをいうなあ」というので、わたしは一瞬不思議に思ったのをよく覚えている。

 

しかし、よく考えれば別に不思議ではないかもしれない。
男性は小さいころから、例えば私の世代で言えば、月光仮面のような正義の味方に心をときめかせ、憧れを抱く。
しかし、いつまでもそのような夢を見ているわけにもいかず、やがて、子供なりに「しなければならない」ことに追われるようになる。勉強や、部活、受験。そして就職。やがては結婚し、子供が生まれ、家族を支える立場になる。

 

そのようにして、夢は現実の彼方へと忘れ去られていくが、やがて退職して「しなければならない」ことから解放される年代になると、また子供の頃に抱いた願望が蘇ってくる。それが「退職したらボランティアでもしたい」となるのではなかろうか。

 

男たちの心の中には「義侠心」とか「正義の味方」願望が誰の中にもあるようである。それが、時に「男のロマン」と言われるものだと思うが、「水戸黄門」や「大岡越前」などの時代劇ドラマが、現役を退いた人たちに根強く人気があるのはそのためではないだろうか。現実にはなかなか果たせない夢を、テレビドラマを見ながら知らず知らずのうちに、自己とヒーローとが一体化され、自分の中にある「弱い者の味方」、「正義の味方」願望を、これらの時代劇ドラマが満足さてくれるからだろう。

 

しかし、誰の心にも、どうして幼いときから「正義の味方」とか「弱い者の味方」願望が生まれて来るのだろうか。考えてみれば、不思議である。

 


感動した「ある夫から妻への手紙」

2019年03月01日 | 人生

 感動した「ある夫から妻への手紙」

 

以下に紹介するのは、ある県の生長の家白鳩会(婦人の組織)の幹部をしておられるA子さんの話。

 

Aさんは遠縁にあたるご主人との縁談があり、結婚した。

両家とも「生長の家」の教えを信仰している。

A子さんが30歳を過ぎて地方講師になると、その活動に忙しくなり、家を留守にすることが多くなった。するとご主人は、

「お前が喜ぶことをいつもしたいと思っているのに、いつも邪険にして、俺と生長の家とどっちが大事なんだ」と不機嫌になって怒鳴ったりするようになった。

しかし、A子さんはA子さんで、「私だって一生懸命やっているのに、不機嫌になって大人げない」と主人を裁いていたとのこと。

 

とはいえ、とA子さんは言葉をつないで、

「主人は言葉通り、私を喜ばせようと、いつも私を助けてくれました。例えばダイヤル式電話で何軒かの家に連絡するのは大変だろうとプッシュホンに替えてくれたり、手書きでは捗らないだろうと、名簿や資料作りのためにワープロやパソコンを買ってくれ、使い方まで丁寧に教えてくれました」などなど。

 

そして、「忘れもしない平成23年2月4日の深夜」と言葉をつづけます。

「主人は寝室の書斎で仕事をしていて、電灯の光がわたしに当たらないように黒い傘を差し掛けてくれていました。その時、主人の思いやりを感じ、心遣いのない自分を大反省しました。その日から、日記に『神の子、田中○○さん (ご主人の名前)、ありがとうございます。うちの主人は日本一、世界一、宇宙一、あなたのお蔭で幸せです』と毎日書くようになった」とのこと。また、それだけではなく、あるとき、ご主人にラブレターも書いた。

 

すると、ご主人から次のような返事がきたとのこと。その素晴らしい手紙を読んで、私まで感動して涙が・・・。そして、自分も真にこのような夫にならなければと思ったことでした。それで自分の胸に刻み込むべく、そして、ときどきは思い出すように、その手紙をここに載せてもらうことにした。

 

以下が、その夫からの手紙です。

 

○世界中で、一番かわいい君へ

 毎朝、総本山の鈴を鳴り響かせ、日本一、世界一、宇宙一と元気に景気良く送り出して呉れて、ありがとう。毎日おいしい食事を、ありがとう。どんな時も笑顔でいて呉れて、ありがとう。≪中略≫

 仕事で悩んだとき、親身に話を聞いてくれ、神癒祈願を出し、上司や部下、仕事先の名前を霊牌に書いて、ご先祖様に祈って呉れた時は本当に嬉しかった。

 たまには二人でゆっくり過ごすことも、お忘れなく。全人類の幸福と全世界の平和という高邁な理想に向かって、ひた走る君にエールを送ろう! 

 君にあえて本当によかった。 君の応援団長より

 


「助け合いのバトン」

2019年02月25日 | 人生

ある本を読んでいたら、その中にとても良い話がありました。

それは「少年の主張全国大会」で審査員特別賞を受賞した中学3年生の女子生徒の話とのことで、以下のように紹介されていました。

      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

彼女の父親は、地震と津波、さらには福島第一原子力発電所の事故を受けて、寝たきりの祖父と生後2ヶ月の弟を含む家族8人を連れて、何とか安全なところへと車で逃げたそうだ。とこか当てがあったわけではないが、新潟を目指したという。そして、新潟に着くと消防署に行き事情を話すと、消防署の人は、

 

「大変でしたね、でも、もう大丈夫ですよ。私たちも新潟中越地震の時には、福島の人に助けられましたからね」

 

と言って、避難所を紹介してくれたという。それだけでなく、寝たきりの祖父のための病院も手配してくれた。その病院に着くと、今度はその看護士が、

 

「大丈夫ですよ、私たちも新潟中越地震の時には、福島の人に助けられました。今度は私たちがお役に立つ番です。安心してください」

 

と、ねぎらいと励ましの言葉をかけてくれたそうだ。
それを聞いた中学生の彼女は「助け合いは次につながる」ことを実感し、「絶望の中でも光を見ることができた」と言った。

 

と、このように短く紹介されていました。(生長の家、谷口純子先生著『平和のレシピ』より)

これは「助け合いのバトン」と題した主張の中で語られた話とのこと。

とても良い話なので、紹介させてもらいました。


母の切なる願い

2018年12月27日 | 人生

以下は感動させられた一郎(仮名)さんの話です。

 

一郎さんが中学生の頃、母は何かあるごとに、一郎さんに「親に感謝しなさい」というので、一郎さんは「親が子供に親への感謝を強要するとはなんと都合のいいことか!」と思っていた。

 

やがて一郎さんは高校3年生となり、大学受験のため土日も家で勉強するようになり、母の日常を目にするようになった。すると、母が普段言っていることと、やっていることの差が目に付くようになり、ますます心の中で母を批判するようになっていった。

ところが大学生になったとき、結婚当初の話を父から聞かされたという。

 

≪父の話≫

母は独身時代はとても元気な人だった。しかし、結婚後、第一子を流産し、第二子は死産、第三子は2歳で亡くし、それから気弱になり床に伏せる日が多くなった。そして思い悩んでいた時、近所の人から勧められ、『生命の実相』を読むようになった。

『生命の実相』を読んで親に感謝することの大切さを知り、母の両親は仲が悪くて、その原因は父にあると思って父を嫌っていたが、父に感謝するようになってから元気を取り戻した。そして第四子が生まれ、第5子が生まれた。それが一郎さんだという。

 

一郎さんは今まで母が床に伏せっていた姿など見たことがなかったので、父からこの話を聞かされて、母にこんな過去があったことを初めて知った。

 

そしてくどいほど「親に感謝しなさい」と言っていたのは、母自身の辛い体験から生まれた、子を思う「母の切なる願い」だったということを知り、母を裁いていたことを心から反省したという。

 

 

わたしの母親は休む暇もなく働きづめだったが、梅雨時のように雨が降り続くときは家の中で縫物をしていて、母がゆっくり座っていることが嬉しく、また母がそばにいることが嬉しかったことが思い出された。

 

私が結婚するとき、母は結婚相手の家を探し、そしてその近所の人たちにその両親や家内のことなどを探偵の如く訊いていたということを、結婚した後で家内からきいた。当時はこれも親の愛とは思いつつも、恥ずかしく「余計なことを」思っていたが、今思えば、ただ有難いばかりである。

 

一郎さんの母は、私の母でもあるような気がして、いや、すべての人の母でもある気がして目頭が熱くなりました。 


「神の御業の顕われんがためなり」

2018年12月26日 | 人生

昨日はイエス・キリストの生誕日でした。

 

イエスの言葉で好きなのはたくさんありますが、特にわたしが好きなのは次のような話と、その時にイエスが言った言葉で、それはざっとこんな話です。

 

誰かが生まれつき盲目の少年を指さして、「彼が盲目のは親の罪であるか、彼の罪であるか?」とイエスに質問した。それに対してイエス・キリストは次のように答えたという。

「親の罪にも非ず、少年の罪にも非ず、ただ神の御業の顕われんがためなり」と。

 

そして、イエスは少年の目に泥を塗ってやり、少年にこう言った。

「池に行って、その泥を洗え。見えるぞ」と。

そして少年は言われたまま、池に行き目を洗った。するとイエスが言った如く目が見えるようになった、という話です。

 

わたしはこのイエスの言った
「親の罪にも非ず、少年の罪にも非ず、ただ神の栄光顕われんがためなり」という言葉が、イエスの言葉の中でも、特に好きな言葉です。

 

天理教祖はイエスと同じく、

「罪というてないけれど、ちょいとホコリがついただけなり」と、教えられたそうですが、生長の家の創始者・谷口雅春先生は、これをわかりやすく次のように説明されている。

 

「水(H2O)はいまだかつて濁ったことがない。濁っているように見えるのはただ泥が濁っているだけであって水そのもの(H2O)が濁ったのではない。それが証拠に、しばらく静置しておけば泥は下に落ちて、水は元の透明になります」と。

 

人間の本質は、たとえどんなに罪に汚れ、穢れているように見えても、その本質はいろいろな宗派の教祖が説いておられるように本来罪なきものである。そしてすべては「神の栄光(人間の本質)顕われんがためなり」なのだと思う。そうであってこそはじめて、人類は、わたしたちは、明日への希望が持てるのだと思う。

 

昨日25日は「大晦日(おおつごもり)の大祓い」式があり、神官をしつつ、「神の栄光あらわれんがためなり」というイエス・キリストの言葉が思い出されたことでした。