『♪♪ 坂は照る照る鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る
馬がものいうた鈴鹿の坂で おさん女郎なら乗しよというた
坂の下では大竹小竹 宿がとりたや小竹屋に 手綱片手の浮雲ぐらし
馬の鼻唄通り雨 与作思えば照る日も曇る 関の小万の涙雨』
沓掛の集落を抜け、道なりに暫く行くと、地域の文化創造施設として
建てられた「鈴鹿馬子唄会館」が有る。
地域の集会所を兼ねた建物で、内部では鈴鹿馬子唄や鈴鹿峠の歴史文化
を伝える展示をすると共に、無料で入館できる休憩施設ともなっている。
それに併設された天文台のある「鈴鹿峠自然の家」が目の前に見える。
嘗ての小学校で、廃校になり転用した施設で、青少年のための自然研修
設として、キャンプ場やグランドが用意されている。
東海道、東の難所が箱根なら、西の難所は鈴鹿峠である。
特に伊勢側からの上りは急峻で、旅人達を大いに苦しめたという。
そんな峠を越える人々の、荷物運びの手助けを駄賃付けでするのが馬子だ。
当然足腰の弱い旅人のため、馬に人を乗せることもあったらしい。
「鈴鹿馬子唄」は彼らが良く口にする労働歌であるが、更には「関の小
萬」に纏わる当時の流行歌だとも言われている。
小萬は関宿の旅籠・山田屋で生まれた。
成人すると、良人の敵を討とうと当地で行倒れた母に代わってその志を
引き継いだ。
亀山での武術修行に明け暮れ、幾多の困難に耐え修行を積み、18歳の
折見事亀山城下で敵討ちの本懐を遂げた。
小萬は36歳の若さで死んだが、関の福蔵寺に埋葬されている。
関宿との縁も深く、馬子唄にも小萬は再三登場する。
敵討ちの女性として伝えられているが、一方でそうでは無く遊女の話だ
という説も有るらしく、伝説には諸説が入り交じっている。(続)
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