通りでは、記憶に残る屋号の店も二三見かけ、古い店構えに出会うと、
当時の光景が何とは無く蘇ってくる。
歓楽街でもあった、この名古屋で最大の盛り場には映画文化の最盛期、
「あしべ館」「トヨトミ館」「双葉館」「円頓寺劇場」などの映画館が
あり、さらに寄席や芝居小屋もあったそうだ。
しかしこれらの映画館がいつ開館し、いつまで営業を続けていたのか、
どこに有ったのか、残念ながら殆ど覚えも無く記憶にも残っていない。
そんな中、通りの中程にあった劇場、「開慶座(カイケイザ)」の事だ
けは強烈に覚えている。
元々は明治の中頃に、名古屋では数少ない浪曲小屋として開館した由
緒ある劇場である。
当時は地方客や、堀川舟便の船頭などの娯楽施設として賑わったという。
戦後浪曲人気が低迷すると、寄席や漫才、女剣劇の股旅物などを打ち、
一時人気を博したものの次第に赤字に転じてしまった。
窮余の策で、昭和30年代の初頭にはストリップ劇場に転換した。
その劇場も商店街の衰退と共に昭和61(1991)年に閉館となっている。
今は、その建物も撤去され、広い更地は駐車場に変わってしまった。
商店街の通りから少し奥まった敷地の壁際に、写真が貼られたショー
の案内板が有り、それが通りからは見えそうでなかなか見えなかった。
当時この前を通る度に、何とか見えないものかと、中を窺ったりもした。
子供から大人になりかけた狭間で、心を大いに惑わされたものだ。
「円頓寺商店街」では、昭和31(1956)年から毎年7月に行われて
いる「七夕まつり」が、途切れることもなく開催されている。
子供の頃毎年楽しみにしていた祭は、今も続いているらしい。(続)
にほんブログ村
当時の光景が何とは無く蘇ってくる。
歓楽街でもあった、この名古屋で最大の盛り場には映画文化の最盛期、
「あしべ館」「トヨトミ館」「双葉館」「円頓寺劇場」などの映画館が
あり、さらに寄席や芝居小屋もあったそうだ。
しかしこれらの映画館がいつ開館し、いつまで営業を続けていたのか、
どこに有ったのか、残念ながら殆ど覚えも無く記憶にも残っていない。
そんな中、通りの中程にあった劇場、「開慶座(カイケイザ)」の事だ
けは強烈に覚えている。
元々は明治の中頃に、名古屋では数少ない浪曲小屋として開館した由
緒ある劇場である。
当時は地方客や、堀川舟便の船頭などの娯楽施設として賑わったという。
戦後浪曲人気が低迷すると、寄席や漫才、女剣劇の股旅物などを打ち、
一時人気を博したものの次第に赤字に転じてしまった。
窮余の策で、昭和30年代の初頭にはストリップ劇場に転換した。
その劇場も商店街の衰退と共に昭和61(1991)年に閉館となっている。
今は、その建物も撤去され、広い更地は駐車場に変わってしまった。
商店街の通りから少し奥まった敷地の壁際に、写真が貼られたショー
の案内板が有り、それが通りからは見えそうでなかなか見えなかった。
当時この前を通る度に、何とか見えないものかと、中を窺ったりもした。
子供から大人になりかけた狭間で、心を大いに惑わされたものだ。
「円頓寺商店街」では、昭和31(1956)年から毎年7月に行われて
いる「七夕まつり」が、途切れることもなく開催されている。
子供の頃毎年楽しみにしていた祭は、今も続いているらしい。(続)
にほんブログ村
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます