中世以降、東海道の吉田宿(現豊橋)以西のルートが度々変更された
のは、時代と共に生まれた信長・秀吉・家康に代表される尾張・三河の
支配者の存在や、その支配地域の位置的な関係にもよるが、地勢的な要
因も大きかったようだ。
特に鈴鹿山脈の峠越ルートは度々変わっていて、これまでは美濃周り
のルートも多用されている。急峻な鈴鹿峠を越えるより、比較的容易な
関ヶ原を抜ける道が好まれていた。
米原・関ヶ原は冬の積雪が多く、通行に困難を来す事もあるが、後の
の東海道ルートに比べると二日ほど行程が短縮されるメリットは大きか
ったようだ。
また峠越もさることながら、今より大きく北に入り込んだ伊勢湾をど
うのり越えるかも問題であった。更に尾張と美濃の境付近に流れ込む暴
れ川と言われた、木曽三川の下流域の状況は、当時の渡船や架橋の技術
の事も有り、街道のルート設定には大きな影響を与えていたようだ。
鎌倉時代、鳴海から笠寺を経て宮宿に至る辺りの伊勢湾は、鳴海潟と
呼ばれる遠浅の海が深く入り込んでいた。干満の差が大きい伊勢湾で、
干潮時に出来る広大な干潟は、中世に於ける東海道では重要なルートと
なっていた。
馬も人もこの干潟道を、干潮を見計らって渡っていた。
その距離凡50町(約5.5㎞ 1町は109m)と言われている。
これは後の東海道より1キロほど短くなっていた。
幾ら干潟とは言え、1里半程の距離を歩く事に不安を感じなかったのか。
途中で潮が満ちてくる危険はなかったのか。
歩く距離の短さに惹かれて、時間の短縮を図っていたらしいが、陸路に比
べれば命がけである。(写真は本文とは無関係)(続)
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