亀山は、15世紀の終わり頃には、文献にその名が見られる様になり、
町の成立時期と考えられている。16世紀には町のシンボルとも言える
亀山城が築かれ、以後は関氏等の城下町として発展を続けてきた。
伊勢の亀山城は、文永2(1265)年に、今の城の北西に当たる若山の
地に、関氏が築いたのが始まりとされている。
織田信長の伊勢侵攻以降、度々戦場となった。
天正18(1590)年、豊臣秀吉の時代に現在の鈴鹿川を見下ろす地に移
され、小田原攻めで功のあった岡本氏が入城し、城地はその後ほぼここに
確定していると言う。
その後、関ヶ原の合戦で西軍に与した岡本氏は、破れて当地で自刃した。
江戸時代に入って、寛永9(1632)年、幕府より丹波亀山城の天守解
体を命じられた堀尾忠晴は、何を勘違いしたのか、ここ伊勢の亀山城の
天守を壊してしまった。
以後天守は再建されることも無く、明治を迎えたと言う。
しかしこれには裏があり、敢えて間違えたように見せかけ、小大名に
不釣り合いな華美な天守を解体した、との説も有るらしい。
当の堀尾は翌年34歳の若さで死亡、この時嫡子は無く、養子によりお
家の存続を願い出るが、幕府に認められず、大名としての堀尾家は断絶
しているのも、何か因縁めいた謎を秘めている。
かつてこのお城は別名を「胡蝶城」と言い、姿の優美な城であったが、
明治の廃城令で、城内の建造物は悉く破壊された。
現在は天守台、石垣や堀、土塁の一部が残るのみで、正保年間に建てら
れた本丸東南隅の多門櫓が唯一の遺構として、今日の亀山城の代表的な
景観となっている。(続)
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