五間の土橋が架けられていたと言う、筋違橋の東で右の旧道に入ると
立場のあった欠町で、岡崎城下はいよいよ近づいてくる。
家康公の城下入りを前に、この立場にやって来た旅人は、暫し足を留め、
茶をすすり一息ついていたのであろう。
住宅地の中を暫く道なりに行くと、四叉路の角に冠木門が復元された
緑地がある。
そこには「岡崎二十七曲がり」と書かれた石碑が建っている。
ここが世に知られた、東海道一の曲がりくねった街道、「岡崎二十七曲
がり」のスタート地点である。
この先の東海道は、岡崎の城下を幾度も折れ曲がり、凡一里の道を行
くことになる。
元々東海道は、岡崎の町中を流れる乙川の南を通り抜けていたと言う。
しかし城は川の北側に建ち、城下の町並もその足元に広がっていたので、
このままでは旅人は、わざわざ川を渡って城下を訪れる事も無く素通り
してしまい、賑わいが失われてしまう。
そこで岡崎五万七千石の城主となった田中吉政は、城の整備と共に、
矢作川に橋を架け、城下の町割りの整備を進めると同時に街道を外堀
の内側を通るようにした。
社寺さえも整備の為に移転させ、10年掛けての付け替え工事であった。
道を幾つも曲げる事で城下の防衛を強化すると同時に、広がった町筋
に色々な店舗を並べ、旅人を留まらせ、経済効果をも狙ったのである。
結果、城下の町並を隈無く巡る迷路のような、「二十七曲がりの道」が
出来上がった。
これにより城下は賑わい、「岡崎女郎衆」を目当てに、ここを泊まりと
する旅人も増え、思惑通り町は賑わいを取り戻したという。(続)
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