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簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

石清水八幡宮  (東海道五十七次歩き旅・山城国)

2025-02-24 | Weblog
  八幡科手の交差点をそのまま真っ直ぐに進むと京阪本線の「石清水八
幡宮」駅である。駅には男山にある八幡宮上院に向かうケーブル駅が併
設されていて、多くの参拝客はこれを利用するという。



 しかし一の鳥居が立つ麓の「頓宮」から、二の鳥居を潜り、男山の登
山道を上るのが表参道で、これが正式な参詣道とされている。



 八幡宮は、古は「男山八幡宮」とも呼ばれ、桂川、宇治川、木津川の
三川が合流し淀川となる地に鎮座し日本三大八幡宮の一つとされ、伊勢
神宮に次ぐ国家第二の宗廟と言われる。

 八幡は京と難波を結び、天王山と対峙する交通の要衝地で、男山は平
安京の裏鬼門に当り、この八幡宮は都を守る神社として知られている。



 参道ケーブルは3分ほどで、山上駅に到着する。そこから参道を5分
ほど歩いたところに上院はあり、広大な境内を構えている。
荘厳な社殿形式を維持する本殿は、現存する八幡造りの本殿の中では最
古で、最大規模を誇り、本社10棟、 附(つけたり)棟札3枚と共に国宝
に指定されている。



 右に電車駅と一の鳥居が立ち「頓宮」の有る八幡宮下院を見て南下し、
八幡の町を抜けて行くのが高野街道で、何年か前に辿った道だ。

 一方東海道は八幡科手の交差点の先の旧道を右に折れ、左は大谷川と
京阪線、右に木津川の巨大な堤防とに挟まれた狭隘の地を川の流れに沿
って進む。



 その堤防上の道が旧京阪国道で、今でも当地の幹線道らしく、多くの
車が行き交っている。旧道は科手から尻江の集落を抜けて行くが、この
道に車が入り込むことはなく、通りは静かで、落ち着いた家並みが続い
ていて、車どころか人の姿を見るのさえ稀である。(続)





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はちまんさんの門前町  (東海道五十七次歩き旅・山城国)

2025-02-21 | Weblog
 八幡(やわた)は、京都府の南部に位置する人口7万人ほどの小さな
市である。昔から北側には桂川、宇治川、木津川の三川が流れ、水害の
生じやすい低湿地で有ったが、近年川の付け替え工事、護岸堤防、背割
り堤防等の工事により対策がすすんだ。



 三川はこの地で大きく湾曲し、市の西側で合流し、淀川と名を変えて
南に下っていく。このため八幡は三川合流の町としても知られている。

 その川に架かる淀川御幸橋を渡り、背割り堤防にある「さくらであい
館」で小休止をし、更に木津川御幸橋を渡って坂を下る。



 旧京阪国道八幡科手交差点の角に、ポケットパークが整備されている。
「茶文化薫るはちまんさんの門前町 八幡市へ ようこそ」の大きな看
板が見える。京阪国道の改修記念碑なども立ち、休憩スペースには災害
時用のかまどベンチなどが整備されている。



 更に「石清水八幡宮」の永代常夜灯(石灯籠)や「石清水八幡宮鳥居
通御幸道」の大きな石碑が立っている。
 ここは日本三大八幡宮の一つと称される八幡宮、地元では親しみを込
めて「はちまんさん」と呼ぶ神社の門前町でもある。



 神社の鎮座する男山は、良質な真竹が知られていて、あの発明王エジ
ソンが、白熱電球のフィラメントの改良に男山の竹を使い、1000時間の
点灯に成功し実用化させた話はよく知られている。
京阪の駅前にはエジソン像が、男山の山上には記念碑もある。



 茶は木津川河川敷の砂地を利用して栽培されているらしく、碾茶(て
んちゃ:抹茶の原料となる茶)は、地元で「浜茶(はまちゃ)」と呼ばれ、
品質がよく、色が美しいのが特徴で八幡の名産品と言う。


 
 これまでの道中では、殆ど茶畑を見ることがなかったので、当地が茶の
名産地であることは実感できていない。
まぁ、それ以前に、茶のことは知識も乏しく、よく解らないが・・。(続)



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さくらであい館 (東海道五十七次歩き旅・山城国)

2025-02-19 | Weblog

 淀川御幸橋の上からも、見慣れない塔と黒瓦葺きの大きな建物がよく
見えていた。何だろうと訝かりながら橋を渡ると、宇治川と木津川との
中間、背割り堤の左側に「さくらであい館」と言う新しい施設が出来て
いた。以前来た時には見られなかったものだ。



 「宇治川・木津川・桂川が合流する三川合流地域の地域間交流や地域
振興、観光周遊の拠点として人・物・情報が出会う、活気あふれるスペ
ース」(HPより)として、平成29(2017)年春にオープンした。



 数ある淀川河川公園の内の一つで、地域のランドマークである。正確
には「淀川公園 背割堤サービスセンター さくらであい館」と言う。
年末年始以外は無休で、9時から17時の間開かれる。ショップ、情報発
信コーナー、イベント広場、学習・会議室、トイレなど等を揃えていて、
殆どの施設が無料で利用できる。



 館の目玉は、地上約25mを誇る展望塔(9:00~16:30)である。
長さ1.4㎞にも及ぶ背割り堤に植えられた桜の花が咲く頃には、360度
の展望が人気のビューポイントとなり、大勢の人が訪れるらしい。
 周辺で桜祭りが開かれる時期は有料らしいが、それ以外は無料で上
がれるようだ。



 淀で思わぬ回り道をした遅れは、ここに来ても取り返えせてはない。
返す返すも勿体ない時間を費やした。今日予定した橋本の町まではあと
少し、何としても行っておきたいが、時間もだいぶ押し迫っている。



 展望塔にも上ってみたいが我慢して、ここでは少しの休憩に立ち寄る
のみとした。館内でこの時期だけらしい「桜餅ソフト」を頂いて、甘味
で疲れを癒やし、早々に腰を上げ、八幡の町中に向かった。(続)





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御幸橋 (東海道五十七次歩き旅・山城国)

2025-02-17 | Weblog

 府道13号線(旧国道1号線)を左カーブで、宇治川に架かる淀川御
幸橋(266m)を渡る。何年か前、京都の羅城門跡を背に、東高野街道
を歩いてこの地までやって来た事があるが、その時もこの橋を渡った。
それ以来の再訪だ。



 既に正面にはどっかと居座る男山(鳩ケ峰143m)が見えている。
中腹のこんもりと茂る木立の間には、「石清水八幡宮」の大屋根も認め
られる。八幡の町はこの神社の門前町で、この男山の山頂には上院が、
麓に下院が鎮座している。



 左側には、京滋バイパスの石清水大橋が、やや上りながら左カーブで
通されている。更にその奥少し低い位置を、京阪本線が宇治川を跨いで
いて、時折電車がガードを渡る音が長閑に聞こえてくる。



 この先には、宇治川との背割り堤を挟んで、木津川にかかる木津川御
幸橋(355m)が続いている。
渡れば八幡科手の交差点で、下りながら八幡の町中へと入っていく。
先程の京滋バイパスの高架下からここまでは、凡そ1㎞の距離である。



 淀川では大洪水を受け、「淀川改良工事」が行われ、宇治川が現在の
流路に付け替えられ、桂川の改修、連続堤防の修築なども行われ、現在
の三川合流部が形成されている。

 この改良工事に伴い大正2(1913年)に初代の御幸橋が開通している。
その後近代的な永代橋架に替えられたのは、昭和5(1930)年(年)7
月の事である。



 幅員も広げられた現在の橋は、三代目という。
地図の上でこの橋を見た折は「みゆきばし」と読んでいたが、正式な呼
び名は「ごこうばし」である。
 石清水八幡宮への皇室の使者が、必ずここを渡ったことから「御幸」
の名が付けられたと言われている。(続)





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三川合流地帯へ(東海道五十七次歩き旅・山城国)

2025-02-14 | Weblog

 予定よりも大幅に遅れたまま、淀宿跡と思われる地区を抜け、文相寺
の前で再び旧道に出て西を目指す。
 この辺り城下町時代の寺町の名残か、近くに大専寺がありこの先には、
長円寺、東雲寺、心鏡寺、西岸寺などが甍を連ねていてそんな町中を抜
けていく。



 やがて街道の右側には、京阪電鉄の淀車両基地が見えてくる。
敷地面積94,800㎡、車両収容能力は320両といい、同社の中では寝屋川
車庫に次ぐ規模の車両基地らしい。
 旧街道沿いに展開する「京阪淀ロジスティクスヤード(物流倉庫?)」
の敷地も、元々は基地拡張用地らしい。



 道筋から人家は乏しくなり、左に田畑を見て、右の金網フェンス越
しには車輌基地を見ながら進む。
 松ヶ崎記念病院の辺りでは、田圃越しの左手向こう側に宇治川の堤
防も見えている。

 その更に向こう側には木津川も近づいている筈だ。
線路の北側はここからは見えないが、桂川も寄り添って来て、いよいよ
三川の合流地点が近づいている。



 旧道は京阪本線の高架を少し下りながら潜り、車両基地の終端に沿う
ように右にカーブする。その先でファッションホテルに突き当ると左折
して、府道13号線の歩道に出る。
この道は高野山を目指した折に歩いた、懐かしい高野街道である。



 道なりに緩く坂を上ると、京都市伏見区から八幡市に入る。
京滋バイパスの高架を潜り、道なりに左にカーブすると、広々とした府
道の正面に緑濃い山並みが見えてきる。一般に男山と呼ばれる山だ。



 男山は正式には鳩ケ峰と言い、標高は143m程の山である。
ケーブルが通じていて、山上で降りれば石清水八幡宮が鎮座している。
嘗てこの神社は「男山八幡宮」とも呼ばれていた。(続)





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平行する二つの街道(東海道五十七次歩き旅・山城国)

2025-02-12 | Weblog


 思わぬ遠回りを余儀なくされ、予定よりも1時間半ほども淀への到着
が遅れてしまった。
 京阪本線の淀駅近くで、昔ながらの喫茶店を見つけ、常連らしい客た
ちの紫煙にまみれながらようやく遅い昼食に有り付いて、早々に腹に流
し込み、再び旧街道を歩き始める。



 京阪本線淀駅のガード下を抜け、伏見消防署の前で道なりに右カーブ
し南に向う。郵便局の先の淀下津町の角を右折、住宅地に入り込み更に
100m程で左折、同じ距離を歩いて左折すると突き当りが文相寺でそこ
を右折すると元来た道に戻る。



 ガイド本や資料によっては、この辺りを淀宿の中心として表記してい
るものが有ったが、通りは閑静な住宅地で、旧宿場町の面影はどこにも
残されていない。
 何か無いかと、この辺りではルートを外れ、住宅地の中を当てもなく
暫く歩いてみたが、史跡遺構の類いには気付かず何も見付けられないま
ま元の道に戻り淀新町を抜ける。



 東海道が抜ける道筋の今は、住宅の密集地であるが、嘗ての城下町
で有ろうか。狭くて不規則に入り組んだ道が複雑に絡み合っていて、
うっかり入り込んでしまうと、自分の居所がわからなくなってしまい
そうなところで有った。



 北側には京阪本線が走り、丁度この辺りの線路を隔てて向こう側に、
淀城址公園(淀城跡)が有る。

 何年か前、高野山を目指し京都・羅城門から鳥羽街道を歩いた折り
には、左に城跡公園を見ながら、府道13号線を歩いている。



 今回歩いている東海道はそれよりは少し南の、桂川と宇治川に挟ま
れた地だ。京阪本線を挟んで、その時の道筋とほぼ平行しながら八幡
の町を目指している事になる。(続)




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山城国・淀藩(東海道五十七次歩き旅・山城国)

2025-02-10 | Weblog


 京街道や鳥羽街道の結節点でもあり、川湊が開かれた淀の納所は京の
南の玄関口である。古くから軍事的な要衝で、室町時代には既に砦(城)
が築かれていて、重要な場所との位置づけである。
本能寺の変後、山崎の戦いでは一時明智光秀側が砦として使用している。



 秀吉の時代には、宇治川右岸に淀古城が築かれ淀殿(浅井茶々)が入
城している。更に徳川家康・秀忠の時代には、廃藩となった伏見藩に変
わり、山城国・淀藩が立藩され、松平定綱により宇治川と木津川の合流
地に淀新城が造られ、以後永井家、石川家、戸田家、松平家と藩主は代
変わりをしてきた。



 享保年間に稲葉氏が10代目の城主になると以降幕末まで続く事になる。
稲葉氏は石高10.2万石、幕府成立後に取り立てられた城主クラスの譜代
大名で、江戸城での控えの間は「雁之間(かりのま)」である。
 序列としては、上から五番目、下から三番目の中堅処と言った扱いで
はあるが、最後の藩主・正邦は老中職を拝命している。



 宝暦年間には落雷があり焼失で建物の大半を失うが、その後再建され
ることもなかった。
 鳥羽伏見の戦いでは、敗走し領内に逃げ込もうとした幕府軍を拒んで
入れず、幕府とは距離を置く立場を取った。
新淀城は、明治の廃城令により廃城となっている。



 淀城公園は駅の西側にあり、石垣が残されている。
近くには興杼(よど)神社も鎮座し、鳥居が立っている。
 神社は、応和年間に僧の千観内供が、肥前国河上村の興止日女大神
(よどひめおおかみ)を勧請したことに始まり、豊玉姫命、高皇産霊神、
速秋津姫命が祀られている。(続)





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東海道・淀宿(東海道五十七次歩き旅・山城国)

2025-02-07 | Weblog
 淀は城下町であり川舟の寄港地としても栄え、元和5(1619)年に
は淀宿が成立している。ただ宿場町としての規模は左程のものはなく、
江戸期の家の数800軒余、人口2800人余りで旅籠の数も16軒と少なく、
本陣・脇本陣は置かれていなかった。



 明治を向かえると人口は7.3万人余りで、町の規模も江戸期に比べる
と拡大している。美豆村と淀村を編入した淀町が京都市に編入されるの
は、昭和32(1957)年のことだ。
納所村は、淀町よりも早い昭和6(1931)年に編入されている。



 納所は昔から淀の中心的な所で、町中には「納所村道路元標」が有る。
河川の付け替えで、遺構が殆ど失われたとはいえ、桂川河畔には、朝鮮
通信使が上陸した船着き場の跡「唐人雁木旧跡」の碑、更に戊辰戦争に
関連する記念碑等も多い。



 駅前の府道124号に面した場所にも、「淀小橋旧址」碑がある。
嘗てここには淀城下と城外の納所を繫ぐ、長さ七一間(129m)、幅は
四間(約7.3m)の橋が架かっていたらしいが、現在では埋め立てられ
橋は無く、川も流れていない。



 北東面に「東南 淀川渡場径」と彫られ下に小さい字で「 渡舟場十丁
一口村十四丁 中島十丁 相島十八丁 森十九丁 野村廿三丁坊池廿丁 巨
椋湖十五丁」とある。

 更に南東面には「十一面観世音尊像 安養寺」と彫られ、小さい字で
「弥陀次郎開基 一口村 是南十五丁」とある。



 昭和3年に遺志で建立されたと言う道標が、京阪本線の高架下に立
っていた。

 東海道五十七次(京街道)の宿場町でもある淀の城下町は、京・羅
城門から南下し桂川左岸を来る鳥羽街道の終点でもある。
この道はその先高野街道から高野山へと続いている。(続)





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陸と川の結節点(東海道五十七次歩き旅・山城国)

2025-02-05 | Weblog
 「淀(よど)」は、京都市伏見区の南西部に位置する地域である。
競馬ファンの間では、「京都競馬場」がある場所としての知名度が高く、
今では「淀」という地名がそのまま競馬場の通称になっている。



 元々この辺りは淀川水系の桂川、宇治川、木津川の三川が合流する標
高10m程という低い三角州で、流れはいつも澱んでいたことから「淀」
呼ばれるようになった。

 明治に入ると初期の頃に木津川が、後期には宇治川がそれぞれ付け替
えられているので、この辺りの地形は大きく変化している。



 淀の「納所」は、京の南玄関口として古くから軍事的な要衝であった。
又川湊が開かれ、陸路の街道も通り、物流的にも人事的にも重要な場所
とされていた。
 ところが川の付け替えで嘗ての淀城の城下町や、淀宿当時の遺構は殆
ど失われ、何も残ってはい無いという。
見附の場所や宿場の中心が何所なのかも良く分かっていないらしい。



 「納所」は「のうそ」と読む。
昔当地では、淀の川湊に水揚げされ、その後平安京へ運ぶ様々な物資が
収められ倉庫が立ち並んでいた。この物を「納」める倉庫が立ち並んで
いた「所」という意味である。



 因みに、季節に先駆け出始めた野菜や魚などを「はしり」と言うが、
その昔は、三十石舟で運ばれた生鮮食品は、淀の川湊に陸揚げされると
鮮度を落とさないよう、都まで走って運ばれたという。
このことが、この「はしり」の語源とされている。



 クリーンセンターの施設内に迷い込み、思わぬ回り道で正午を大きく
過ぎたにも関わらず、昼食も食べそこねてしまった。
 食事場所を探しに、「納所」の交差点から京阪本線の「淀駅」の高架
を潜り、その競馬場が見える場所にやってきた。(続)





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思わぬ遠回り(東海道五十七次歩き旅・山城国)

2025-02-03 | Weblog
 高瀬川の橋が通れず、思わぬ遠回りをし、おまけにクリーンセンター
内に迷い込み、時間だけが押し、これまで随分と歩いているのに一向に
前に進めない。行き止まりでは、先ほどの若い女性の言う通り国道1号
線まで戻るより仕方が無い。



 国道まで戻り手前を左に曲がり、下の側道に出てそれに沿って歩く。
先程のサラリーマン氏が教えてくれたとおり、国道に上がる階段はなく、
北に向け300m程行くと交差する道路があり、これまで歩いてきた道は、
その先で国道に吸収される。



 ここでUターンし、坂を上れば宇治川大橋の北詰に出るので、右に曲
がれば街道歩きの本来のルートに乗れる。
 素直に向かえば良かったものを、偶然道路脇に立つ「淀競馬場」への
案内板が目に付いたものだから、ついその標識に誘われてしまった。



 こちらからでも行かれるなら、大路の方が解りやすくて安心だ、それ
にどこかで昼食もとりたい。堤防道に食事処はない。
 そんな思いから、そのまま先に進み横大路交差点に出てそこを左折、
京都外環状線道路を歩く事になった。
しかしこの判断がとんでもない間違いを犯すことになる。



 確かに道は解りやすかった。その先の外環横大路をバス停で確認しこ
こを左折すれば、後は一本道で安心して歩くことが出来る。しかしこれ
が何とも単調で途轍もなく遠かった。後で距離を測ってみると、3.5㎞
余もあった。



 素直に堤防道を歩いていれば、2㎞足らずで済んだものを、とんだ遠
回りをしてしまった。来た以上途中から引き返すことも癪で、味気ない
都会の幹線道路を、写真も撮らず、昼食も先延ばしにし、ただただ歩き、
疲れ果てて、ようやくにして淀納所交差点に出た。(続)





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