中山道大井橋東側にある大井宿案内板
中山道広重美術館へ行ったついでに、大井宿散策をしました。
中野村高札場跡と秋葉灯籠。ここから左手に行く。
大湫宿(京都方面)から徒歩でしか通行できない旧中山道も、恵那市街に入ると生活道路になるので(駅前通りまで西から東へ一方通行。駅前通から大井宿内は東から西へ一方通行。)、中野村高札場から車で美術館へ向かいました。中山道の一本北の路地にある料理旅館信濃屋(東から西を見る)。昔の旅籠の佇まい。
恵那駅から西側の中山道は、特に街並み保存をしていないので、普通に生活を営んでいる民家や商店が細い道沿いにぎっしり。時代は変わっても、人の生活が感じられる街はいいものです。江戸時代の建築が残っていなくたって、それは詮方ないこと。江戸時代の建築物が全てじゃないし。ただ、開発という名の下に無下に壊してしまうのは哀しいです。中山道にはめ込まれた道標。
美術館で浮世絵を堪能して、徒歩で大井宿へ。阿木川にかかる大井橋。欄干に木曽海道の浮世絵が。
阿木川は澄んでいて鯉も泳いでいました。宿場の側溝の水も綺麗で小学生達が遊んでました。反対側も鉄道が走っていて、のどかな風景です。
この橋を渡ると右手に上の画像の案内板があります。江戸時代の宿場の風景や建築物は、だいたい似かよっているので慣れると物珍しくなくなりますが、各宿場にある資料館や中を見学できる家屋はできるだけ見学して、説明を受けると、新たな発見があり楽しさが増します。大井宿の見所は大井宿本陣跡(門のみ)と中山道ひし屋資料館。ひし屋資料館では、館員の丁寧な説明がよかったし(私の脈絡ない質問にも的確に答えてくださった)、来館者は無料ポストカードをもらうことができます。
土蔵の中に展示したあった旅装束の人形
↑こんな人達が歩いてたんだな、と妄想しながら歩いていくと普請中の家が。その前には明治天皇行在所と書かれた石碑が立っていました。
明治天皇が宿泊された旧旅籠
見ていたら、作業をしている人が中を見せてくれました。ここは宿場の中でも1,2を争う大きな旅籠で、本来ならば大名以上の宿泊は旅籠ではなく本陣の筈ですが、本陣が消失していたので、この旅籠が選ばれたそうです。宿泊までの3ヶ月間で敷地内に特別の部屋とお風呂などを建てなければならなかったそうな。裏庭へ行くと、幾つも扉が連なった土蔵がありました。この旧家は改装して来年公開されるそうです。と作業人だと思っていたら語り部だったおじいさんが説明案内してくださいました。貴重な体験ができて感謝感激です。宿場の東にある五妙坂の途中にある高札所
高札所のある急な坂道を歴々の人物がのぼったのだな、と妄想していたら、学校帰りの自転車の学生さんが立ちこぎで一気に上っていきました。江戸時代は自転車はない。この先は甚平坂など坂だらけ。想像しただけで私は頭がクラクラしてきました。暑さのクラクラもあって、ここから駅のお土産屋さんへ寄って車で帰宅。文明の利器に感謝です。
資料館の窓際に「萬歳」と書いてある赤い紙の暖簾を発見した時は、『木曽街道続膝栗毛六編上』の大井宿でのエピソード―弥次さんが茶屋へ入って一服した吸殻が、お侍の羽織にとんで怒らしてしまい、ぺこぺこ謝って許してもらったが、実はお侍じゃなく萬歳衆の一員だった―を思い出し、実際にこの宿に萬歳(三河萬歳か?)が居たのか、なんて思って質問したところ、萬歳は萬歳でも「ばんざい」で、天皇陛下万歳に使用したものだということでした。
実際に、一九先輩が萬歳に出会ったのは軽井沢の日野宿で、同宿した一九は、飯盛に煽てられ萬歳が徳若万歳を舞ったのを見て、偶然水無月29日の夜だっただけに(旧暦6月末は一年の半分が過ぎた節目「夏越の祓(なつごしのはらえ)」の日)感慨深かったと『木蘇街道続膝栗毛四編』の附言に記しています。