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Mr.Tanaka collection 'the sixty-nine stations of Kisokaido'

2011-09-18 | art
2011年9/1-10/2 田中コレクション「木曽海道六拾九次之内」展
中山道広重美術館 in岐阜県恵那市(中山道大井宿)

 私の一番好きな浮世絵師、歌川広重。今年は由比にある東海道広重美術館でも木曽海道の展覧会があるし、中山道の大々的な企画展覧会が相次いで開かれます。
で、由比の東海道広重美術館に行こうと思っていたら、先日の太田宿で中山道広重美術館の木曽海道展のチラシを見て、こちらの方が時期が早かったし大井宿も行ったことがなかったので、先日見に行きました。
中山道広重美術館の正面入口

美術館は、JR恵那駅からメインストリートを真っ直ぐ2,3分歩くと左手にあります。駐車場は契約駐車場ですが、美術館利用だと90分無料になりますし、その後30分毎70円(安!)なので車で行っても安心です。
 JRと美術館の間に旧中山道が通っていますが、美術館の建物は江戸時代の風情も感じられない現代的な建築物です。入口を入って受付をすませて展示会の入口に行くも、天井まである頑丈そうな木の板に閉じられていて、初めて行った者はちょっと肝を潰します。ここでいいんだよね、とまごまごしながら木の板の前に立つと、ガ-とその頑丈そうな木の扉がスライドして開き、中へ入るとガーといってしっかり閉じました。中は窓などなく、照明も落としてあるので、なんだか閉鎖的で息苦しい感じがします。お客さんは自分達を含めて数えるほどでしたが(平日だった)、たくさんいたら、窒息死するんじゃなかろうかと心配になるような展示室内でした。
 ガラス板の向こう側に展示してある浮世絵は、ガラスに暗い照明が当たって見難かったですが、すばらしいコレクションでした。私は、単に木曽海道六拾九次が全て揃いで展示してあるだけだと(それだって初摺なら凄い)思っていましたが、初摺だけでなく、後摺や変わり摺もあり、一つの宿場に初摺・後摺・異版と揃っているものも多く、その違いを見ながら(照明やガラスで見難かったけれど)、木曽海道六拾九次という浮世絵を楽しく鑑賞することができました。英泉画「鴻巣」や広重画「落合」などの初摺と後摺の配色の違いで、同じ版木なのに冬枯れから新緑に季節を変えてしまう、という多色摺り版画の妙に驚き、板元の保永堂竹内孫六も考えたな、と心の内でニヤリとさせられました。
2階にある浮世絵学習コーナー。多色摺り体験ができます。

 1階の展示は途中までで、2階へはまた木の自動扉から出て2階へ上がり、2階は普通に扉のない展示コーナーになっていました。
 
 このコレクションをした田中氏は、もともと恵那の人でなく、浮世絵にも素人な人だったそうで、たまたま恵那で事業を起こし成功して、恵那に骨を埋める決意をしてからその土地を知ろうと思って、中山道の大井宿ということから、広重の「大井宿」の浮世絵を購入したことから始まったそうです。浮世絵研究家コレクターだったら、偏ってしまっていた(英泉作品がおざなりになったとか)かもしれませんが、素人コレクターだったからこそ、全作品バランスよく揃っているのかもしれないな、と感じました。
 このコレクションは見ておいてよかったです。
戦利品。開館10周年記念のお煎餅とミニ風呂敷、体験した簡易浮世絵。

展覧会のお話は、これでおしまい。
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 歌川広重、本名:安藤重右衛門(幼名:徳太郎)は1797年寛政9年、幕府の定火消同人の子として江戸(現在の千代田区丸の内明治生命ビル付近)に生まれ、父母を失い13歳で家職を継ぎますが、15歳頃には歌川豊広に入門したそうです。
十才 安藤徳太郎 の署名がある広重の絵「美保松原図」
22歳で狂歌本の挿絵と錦絵でデビュー。といっても三流絵師で、山東京伝の弟子・東里山人と親しかったそうな。定火消の部下の同心職だった為薄給で内職などもしていたといいます。
 35歳に一幽斎と改め出版した「東都名所」で、ベロリン藍(ベルリンから輸入した絵具)を使い、ようやく個性が開花しました。翌年、家督を譲って浮世絵師として独立、37歳(1833年天保4年)の時、「東海道五拾三次」の製作に取り掛かり大ブレイクしました。
広重画の『絵本膝栗毛』。夢のような本。見たい!!
蔦屋重三郎が亡くなった年1797年に生まれた広重と同じ年に歌川国芳がいます。彼らより7歳年上の渓斎英泉(中山道六拾九次を最初に着手した浮世絵師)は、一九先輩の『続膝栗毛』や他にも挿絵を描いていますが、1826年一九先輩62歳の時刊行された『御膳浅草法』に30歳の広重は初めて挿絵を描き、翌年『宝船桂帆柱』にも描きました。国芳は1829年の『串戯(じょうだん)しつこなし』で挿絵を描きました(英泉も描いています)。国芳画の戯作は、現代の書籍で見ることができますが、広重挿絵のはまだ見たことありません。
 一九先輩死後に企画・出版された『絵本膝栗毛』と合わせて、見てみたい作品です。