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after reading 'zoku hizakurige'

2011-09-17 | bookshelf
『続膝栗毛』一九画挿絵「巣鴨 庚申塚建場之画(すがもこうしんづかたてばのず)」
現在「お婆ちゃんの原宿」として有名な巣鴨は、中山道の駅(宿)と駅の間にある休憩所でした。


 一九先輩の『膝栗毛』-浮世道中膝栗毛(東海道中膝栗毛)&続膝栗毛(金毘羅参詣、宮嶋参詣、木曽街道、善光寺参詣、草津道中、中山道中)-を読み通すにあたって、様々な困難がありました。
 『東海道中膝栗毛』があまりにも有名なためか、続膝栗毛の存在が無くなってしまっていること―東海道中のような手軽な文庫で出版販売されていないどころか、初編から完結編までの翻刻(現代仮名遣いに直した)本が存在しないこと―近年漸く出版された影刻書を解読しなければ読めないと判ったことは、非常に残念に感じました。
 一九ファンや弥次喜多ファン、折角『東海道中膝栗毛』を読んで興味を持った読者の多くは、最後まで読みたいと思うことでしょう。なにぶん200年余り昔の本で、何度も再版されているうち、全巻オリジナルを収集することが困難(しかも現存数が少ない)らしいのですが、研究者の先生方には、『膝栗毛』シリーズとして追加編も含めた一貫した翻刻書を製作していただきたいです。そして、出版社には源氏物語と同じように、一般読者にも読めるような形態の本として、出版して欲しいと願っています。
 
 でも、どうしてこんなに可笑しくて面白いお話が、今になってもきちんとした形態で翻刻されていないのでしょうか。一九研究などはかなり進んでいるようなのに…。
 『続膝栗毛』―当初は「木曾街道膝栗毛」だと思っていた―を読み始めた頃は不思議に思っていましたが、十一編から実際に自分が翻刻に挑戦してみて、何となく理由がわかるような気がします。
 一九曰く「蚯蚓(みみず)のぬたくりし跡」「鉄釘(かなくぎ)の折れを見て、どうやらこうやら、にじくりはじめ」た様な変体仮名で構成された行書体の文章を、苦労して一文字ずつ判読して読んだ内容が、トイレや褌やうんこや小便のお話だったら、大学の学者先生は阿呆らしくなって「価値なし」と判断するのも無理ないです。それよりもっと高尚で意義のある書物を読む方に時間を割くことでしょう。
←は記憶に新しい十二編上で話題になった「吹筒」(実は公家の小便たご)をわざわざ文中にイラスト入りで説明した箇所。悪乗りしすぎ。
 でも、こういうユニークさが一九先輩独特の手法で、稀代の滑稽作家たる由縁であろうと思います。一九先輩は、膝栗毛みたいな滑稽本ばかり書いていた訳じゃありませんが、彼の魅力が思う存分発揮され、他に追従を許さない分野はやはり滑稽本にあると感じます。彼の書く滑稽本は、まず下ネタの落とし噺しで掴み、流行の芝居や能狂言のお話などを下敷きにして一九流の笑い話に仕立て上げたストーリーを挿入して、老若男女・どんな階級の者でも面白いと思われる作品になっています。筋だけ追って読む者は、笑って終りですが、文学や芸術などに心得がある人物が読めば、笑いの他に、中国の古典文学や故事成語、徳川幕府以前の歴史、近松門左衛門や西鶴、鶴屋南北など上方文学や芸能、日本古来の文学(和歌、俳諧など)その他興味深いキーワードがちりばめられていて、知的好奇心をそそられるでしょう。
 朋誠堂喜三二、恋川春町、山東京伝などの江戸戯作者巨匠たちの次世代に当たる一九は、ストーリーの素材を江戸以外に求め、諸国の方言や独特の風習など民俗学的な収集をして出版し、世に知らしめた最初の作家ではないでしょうか。
 一九先輩について書かれたものを読むと、「或る金持ちが一九の取材旅行に同行したらさぞ面白いだろう、と同道したが一九は始終黙って矢立てを出して何かを書いていて、宿屋でも書いたものを見ながら戯作の趣向を考えていて退屈だった、という話があるので、一九は奇伝にあるような滑稽な人物ではなく真面目な人物だった。」というような事が書いてあります。しかし、『膝栗毛』などの序や跋に書いてあるのを読んで一九先輩の性格を判断するに、同行した金持ち男が気に入らなかったからそんな態度をとったのではないか、と思うようになりました。
 一九先輩は、人物描写に長けています。ということは、人の心を見抜くセンスのある人だと思います。だから、金持ちの閑潰しにされた一九先輩は、ムカつくけれど無下に拒絶もできず(流行作家だから)、向うから去ってゆくように仕向けたのではないでしょうか。多分、行く先々で取材メモを取る振りをしながら、金持ち親仁の退屈そうな顔をチラ見して、可笑しさを堪えていたんじゃないかと。そう考えると、後まで残った金持ち親仁のつぶやきは、当人が気付いてないだけに滑稽至極。
 
 というように、一九先輩について書かれたもの―馬琴の「江戸作者部類」や鈴木牧之に送った手紙の記述、「日本奇談逸話伝説事典」や後世の研究者による伝記など―を読むよりも、実際に一九の作品を最初から最後まで読むことによって、読者自身が感じ取り何百年も昔の作家を身近に感じることができます。
 太宰治や夏目漱石が一作品で判断できないのと同じように、十返舎一九という小説家の作品は『浮世道中膝栗毛』のみで判断できないのです。個人的には『続膝栗毛』の方が、現代では忘れ去られた古跡や地名などが記述されていて、面白かったです。

 作者自身についての研究も重要だと思いますが、研究者の方々には、作品を一般人が読める状態にすることにも尽力していただきたいと強く願います。

 江戸時代の文字など、まさか自分が読めるだろうとは思っていませんでしたが、好きこそ物の上手なれってな具合に、のうらく者の私でもどうにかこうにか読めるようになりました。多分江戸時代の人も、こうやって文字が読めるようになったんじゃないかなぁと実感しています。そういった面でも、一九先輩の書いた本は、日本人の識字率向上に少なからず貢献してるんじゃないか、なんて思いました。
コメント
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