スターアニスの 『大和路 里の光彩』

アーカイブ中心の風景写真、趣味の書・刻字など・・いろいろと楽しんでおります。

天空の城・・・宇陀・松山城跡

2015-01-22 16:45:51 | 大和・飛鳥・宇陀・吉野の里散歩
昨夜からの雨が、少し小降りになったため、宇陀に向った。
いつも道路から見ている春日地区にある松山城跡の麓に霧がかかって・・・「大和の天空の城」になっているのでは、と思って・・・。

残念ながら、霧の発生は見られなかったが・・・・何処からの眺めがいいのか・・・いろいろと訪ね回ってきた。

早朝の朝霧に浮かぶ、大和の天空の城「宇陀松山城」が、きっと見られるはずだ。


▲今日の松山城跡。中央部の小高い山です。もう少し高い山裾から撮れればいいのですが・・・。バックに聳える山々が隠れています。


<宇陀松山城とは・・・>

宇陀松山城(秋山城)は、沢氏と並んで宇陀郡を領分する国人である秋山氏の本城(秋山城)として築かれた。

城跡は大宇陀区の市街地部(松山町)の東側にそびえる「古城山」一帯に存在し、少なくとも南北朝期には本拠を構えていたものと思われる。

天正13年(1585)豊臣秀長の大和郡山入部に伴い秋山氏は宇陀から退去し、以後、豊臣家支配下の諸将の居城となり、関ケ原の合戦の後には福島孝治が入城した。


城と城下はこれらの大名によって大規模に改修され、名を「松山」と改めたと考えられる。

しかし、元和元年(1615)に福島孝治が改易され、城は破却となり城郭としての役割を終えたが、近年の発掘調査により本丸御殿をはじめとした礎石建物や大規模な石垣、多彩な瓦・陶磁器類などが出土し、江戸初期の城郭の構造を極めて良好に残すことがあきらかになった。

また、城を破却した小掘遠州の書状が見つかり、城割(城を壊すこと)の内容が把握できる貴重な事例として注目を集めている。(宇陀市観光協会情報サイトより)

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

焼けてくれませんねぇ!

2015-01-21 19:21:12 | 大和・飛鳥・宇陀・吉野の里散歩
「かぎろひ」は、なかなか見られそうもありません。

こうなれば、感動的な朝焼けを狙うしかありません。

今朝(1/21)は冷え込むとの予報だったため、東の空が焼けるのでは・・・と、宇陀の本郷に向いました。

5時30分ころの雲の形は良かったのに・・・・少し焼けただけで・・・あっという間に消えてしまいました。

なかなか綺麗な朝焼けにも出会えません。

諦めずに・・・通い続けるしかなさそうです。












コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

薄明光線と山並み

2015-01-20 07:00:00 | 大和・飛鳥・宇陀・吉野の里散歩
冬空の下、陽射しはあるものの、日陰に入ると寒くなる。

昨日もそんな一日だった。

早朝は避けて昼間に飛鳥と宇陀の里を回ってきた。

飛鳥では、雲の隙間からの「天使の階段」(薄明光線)が見られた。






▲以上3枚は、1/17の撮影。


宇陀では、何年か前に写真の師匠に教えて貰った場所から山並みを撮ってみた。

この場所から「かぎろひ」を撮るのが夢なのだが・・・・。







▲以上3枚は、1/19の撮影。



コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明日香・小山田遺跡

2015-01-18 13:19:48 | 大和・飛鳥・宇陀・吉野の里散歩
15日に報道されて一躍脚光を浴びた飛鳥・小山田遺跡の現地説明会に行ってきた。

この遺跡は、甘樫丘の南側裾にあり、県立明日香養護学校の改築工事の調査で判明したもので、遺構の大きさや付近の地形などから、古墳は石舞台古墳より大きいとされ、舒明天皇の初葬墓の可能性が高いという。日本書紀に記される「滑谷岡」の可能性があるとか。

発掘現場は、明日香養護学校のど真ん中にあり、発掘箇所は高い塀で囲い、周りの高台からも覗き見ることが出来ない。


桜井市忍阪区にある宮内庁が管理する舒明天皇押坂内陵(段ノ塚古墳)がある住人のスターアニスとしては、この「滑谷岡」を見ない訳にはいけない。押坂内陵にも使われている板石状の榛原石の実物を確かめなければならない。

舒明天皇は641年に崩御。翌年、飛鳥の「滑谷岡」に埋葬され、その2年後の643年に押坂内陵に改葬されている。
この年代と符合するように、現場で見つかった土器などから7世紀中ごろの築造とされることから、舒明天皇の初葬墓と言われている。

また、645年の乙巳の変(645年)で滅びた蘇我蝦夷の墓や当時の大王の墓とする見方もある。
いずれにしても貴重な遺跡の発見であり、これからの調査に期待される。



▲説明会は10時からとなっていたが、9時からの前倒しで始まった。発掘現場には、150人ずつのグループに分けて案内された。




▲舒明天皇押坂内陵(段ノ塚古墳)で使われている同じ榛原石が見られた。


▲7世紀半ばごろの巨大な方墳の一部とみられる石敷き溝が現れていた。また、板状の榛原石の加工石が積まれている。


▲一番乗りだったため、ゆっくり見学できた。


▲報道のTVカメラも見られました。




▲説明会資料より










今日の説明会でも上空にヘリコプターが旋回していた。
そういえば、12月25日頃にも、飛鳥と我が里の上空にも報道各社のヘリコプターが飛び回っていた。今思えば、これがこの大発見の一報だったのでしょうね。

それにしても、この方墳の頂上部とされるところには、養護学校の校舎が建っている。これらの建物を建てるときに、何故、発掘調査をしなかったのか・・・・・。調査をしておれば、良かったのに・・・と思うのですが。当時は、そんな気運はなかったのでしょうね。

説明会を終えての帰り道、小山田遺跡の近くに住まわれる方に聞くと、養護学校の敷地は、昔は雑木林のこんもりとしたところだったとか。飛鳥のここら辺り何処を掘っても、何かが出てくるところで・・慌てて、建てたのは・・・ちょっと・・と、言われていた。

今、建っている校舎の下は・・・どんな遺跡が残っているのだろうか。


コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冬霞のなかに浮かぶ大和三山

2015-01-14 16:40:59 | 大和・飛鳥・宇陀・吉野の里散歩
昨日までの冬空から一転、今朝からは陽射しが見られました。

それではと、大和三山が見渡せる高台に向いました。

現地に着いた頃には、薄雲が陽射しを遮りました。

大和平野は冬霞で覆われ、信貴・生駒連山が浮かび上がっています。

こんな景色も綺麗です。



▲右端に二上山。左には耳成山、畝傍山が、浮かんでいます。


▲左端に香具山が・・・中央に畝傍山、右端は耳成山。左下に大神神社の大鳥居が見えます。


▲右下に大鳥居が見えます。


▲桜井市内・・・その奥には飛鳥方面が望めます。


▲冬霞が漂い・・・・このぼんやり感がいいですね。


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする