昨夜からの雨が、少し小降りになったため、宇陀に向った。
いつも道路から見ている春日地区にある松山城跡の麓に霧がかかって・・・「大和の天空の城」になっているのでは、と思って・・・。
残念ながら、霧の発生は見られなかったが・・・・何処からの眺めがいいのか・・・いろいろと訪ね回ってきた。
早朝の朝霧に浮かぶ、大和の天空の城「宇陀松山城」が、きっと見られるはずだ。
▲今日の松山城跡。中央部の小高い山です。もう少し高い山裾から撮れればいいのですが・・・。バックに聳える山々が隠れています。
<宇陀松山城とは・・・>
宇陀松山城(秋山城)は、沢氏と並んで宇陀郡を領分する国人である秋山氏の本城(秋山城)として築かれた。
城跡は大宇陀区の市街地部(松山町)の東側にそびえる「古城山」一帯に存在し、少なくとも南北朝期には本拠を構えていたものと思われる。
天正13年(1585)豊臣秀長の大和郡山入部に伴い秋山氏は宇陀から退去し、以後、豊臣家支配下の諸将の居城となり、関ケ原の合戦の後には福島孝治が入城した。
城と城下はこれらの大名によって大規模に改修され、名を「松山」と改めたと考えられる。
しかし、元和元年(1615)に福島孝治が改易され、城は破却となり城郭としての役割を終えたが、近年の発掘調査により本丸御殿をはじめとした礎石建物や大規模な石垣、多彩な瓦・陶磁器類などが出土し、江戸初期の城郭の構造を極めて良好に残すことがあきらかになった。
また、城を破却した小掘遠州の書状が見つかり、城割(城を壊すこと)の内容が把握できる貴重な事例として注目を集めている。(宇陀市観光協会情報サイトより)
いつも道路から見ている春日地区にある松山城跡の麓に霧がかかって・・・「大和の天空の城」になっているのでは、と思って・・・。
残念ながら、霧の発生は見られなかったが・・・・何処からの眺めがいいのか・・・いろいろと訪ね回ってきた。
早朝の朝霧に浮かぶ、大和の天空の城「宇陀松山城」が、きっと見られるはずだ。
▲今日の松山城跡。中央部の小高い山です。もう少し高い山裾から撮れればいいのですが・・・。バックに聳える山々が隠れています。
<宇陀松山城とは・・・>
宇陀松山城(秋山城)は、沢氏と並んで宇陀郡を領分する国人である秋山氏の本城(秋山城)として築かれた。
城跡は大宇陀区の市街地部(松山町)の東側にそびえる「古城山」一帯に存在し、少なくとも南北朝期には本拠を構えていたものと思われる。
天正13年(1585)豊臣秀長の大和郡山入部に伴い秋山氏は宇陀から退去し、以後、豊臣家支配下の諸将の居城となり、関ケ原の合戦の後には福島孝治が入城した。
城と城下はこれらの大名によって大規模に改修され、名を「松山」と改めたと考えられる。
しかし、元和元年(1615)に福島孝治が改易され、城は破却となり城郭としての役割を終えたが、近年の発掘調査により本丸御殿をはじめとした礎石建物や大規模な石垣、多彩な瓦・陶磁器類などが出土し、江戸初期の城郭の構造を極めて良好に残すことがあきらかになった。
また、城を破却した小掘遠州の書状が見つかり、城割(城を壊すこと)の内容が把握できる貴重な事例として注目を集めている。(宇陀市観光協会情報サイトより)