我が里の隣村、桜井市脇本にある「脇本遺跡」から、7世紀の柱列跡が見つかり、県立橿原考古学研究所による現地説明会が催された。
調査で明らかになったのは、南北に3つの柱穴、8メートルが一列。東西に6つの柱穴、12メートルが二列。
説明によれば、この12メートルは更に西に向って伸びていると思われるが、これは今秋に始まる発掘調査で確定される。
既に、第3・4・5次調査で同じような柱列が出てきており、これらを繋ぐと東西100メートルを超える大規模な施設となる。
この柱列は、建物なのか塀であったのか・・・今ははっきりしない。柱はすべて抜き取られているが穴の大きさから推計して太さ直径35~45センチの柱が使われており、かなり立派なもの。
南北に8メートルとなると、当時の棟で6メートルを超えるのは余程大規模な施設だと、説明されていた。
▲説明員の前にある柱列穴6つの延長上には水田が・・・更に電柱から向こう側にも同じ柱列が確認されている。水田にも同じ柱列が見つかれば・・・100メートルを越す建物か塀の施設が・・・。秋以降の調査が待たれます。
▲今回の調査で出土した須恵器と鞴(ふいご)の羽口。これらは6世紀後半のものと説明されていた。
東西南北の方位を揃えて建てていることや、西側に延びる柱列の長さ、遺構の地層、出土した土器から柱列の遺跡は、7世紀のものと推定したとか。
この頃といえば、「日本書紀」に673年、天武天皇の娘、大来皇女(おおくのひめみこ)(661~701年)が、伊勢神宮に斎王として仕える際、この辺りにあったとされる「泊瀬斎宮(はつせいつきのみや)」で心身を清めたと記されており、この関連性が注目され、大来皇女が居た宮殿ではとも推定され・・・引き続いての発掘調査が期待されます。
尚、大来皇女とは大伯皇女とも書かれ、伊勢斎宮の初代斎王となられた方です。母は天智天皇皇女の大田皇女(持統天皇の同母姉・・・明日香村の越塚御門古墳の調査で被葬者とされた方)で、同母弟に大津皇子がおられます。
「万葉集」に、謀反人として倒れた大津皇子を二上山に移葬されたときに詠まれた歌として、
『うつそみの人なるわれや明日よりは 二上山を弟背(いろせ)とわが見む 』 と詠まれています。
他に5首詠まれている方でもあります。
▲この辺り一帯に宮跡らしい遺跡が次々と見つかっています。<説明会のパンフより>
▲国道165号のすぐ横です。(水色部分が発掘現場です。)道路拡張工事に伴い、調査されてきました。今後は、手前の水田などが調査の予定とか・・・。<現地に掲示されていた写真より>
工事などあるとこうしたものが出てきます。青森の三内丸山、佐賀の吉野ヶ里もそうですね。
吉備池がわからない風香です(泣笑)
意紫沙加宮跡。M長さまを先頭に是非掘り当てて!?下さいませ。
まずは手始めに小倉山界隈の調査からいかがかしら(笑)
すぐに発掘許可がおりる事でしょう(笑)
写真ですが、句の選定が進むと共に課題山積ですね。
お互い!?頑張りましょう(笑)
忍阪3人衆には周囲の皆様もたじたじだったんではないでしょうか(笑)
万葉歌をはじめて一番はじめに手がけた句がこの句でした。それだけ思い入れも強かったように思います。
その大来皇女の泊瀬斎宮跡が、忍阪から下った真正面に位置するとは。
航空写真からも読み取れるように、まさに隠口の初瀬はすばらしい環境にありましたね。
そうした風土に更に触れてみたくなりました。
泊瀬斎宮の跡だとしたら、そして大来皇女が身を寄せていたところだとしたら、個人的にちょっとうれしいです。
大来・大津の薄幸の姉弟のドラマチックな生涯を思うと、いっときでも平穏な日々が存在したことに安堵する思いです。
大来皇女にとっては恋人のような弟であった大津皇子は私も大ファンです。
遥かなる昔々のこと、ほんの少しづつ明らかにされているのですね。
発掘調査をすれば何か出てくるようですね
最新の科学的な調査でいろいろなことが明らかになるのでしょう
周辺の建物の下にも何か潜んでいそうですね