いろはに踊る

 シルバー社交ダンス風景・娘のエッセイ・心に留めた言葉を中心にキーボード上で気の向くままに踊ってみたい。

魅せられて 42編

2005年08月12日 07時29分19秒 | 娘のエッセイ
 二年ほど前、私がその展示場へ足を踏み入れたのは、ほんの気まぐれからだった。
エルーテ・彼の絵を、私は特に好きな訳ではなかった。ただ、横浜のバルセロナ
展の小さなブースで見かけた、アルファベットを型取った一枚の絵が、おぼろげに

心の隅っこに残っていたのだ。(また、あの絵がみられるかもしれない)そんな気
持ちから、小さな会場へ、私は恐る恐る入っていった。

 展示即売の会場というのは、美術館と違い、画廊側の『売ろう』という意識と、
見ている人達の『買いたい』という気持ちが渦巻いている空間だ。

だから、のほほんとただ絵を見たいだけ、という人間は、余程気を強く持っていな
いと、キツイ場所になってしまうのだが。

 お気楽な私は、そこでアートアドバイザーなる同じ年頃の女性と、世間話に花を
咲かせた。ふと、話が途切れた時、彼女が言った。

「ところで、この中でどの絵が一番好き?」
「うーん、あれっ」と言いながら、迷わずに私は真っ正面にあった一枚の絵を指差
した。それから一時間後、なんと私は、六十回ローンの手続き書にサインをしてい
た。

 そしてお気に入りの絵を毎日見ている間に、あろうことか、私はすっかりエルテ
の虜になってしまっていたのだった。今思えば、その頃の私が、エルテ展などとい
うものに行ってはいけなかったのである。例えば見るだけでも……。

 そう、ご想像の通り私は、そこでまたエルテの描く女性に恋をした。青紫色の
物憂げな瞳、形の良い唇。『彼女が欲しい』その思いを断ち切ることは、身体を
脱水機に入れられる様に辛く、到底無理なことだと観念した。その時、私は思っ
た。女性の容姿に惚れる男性の気持ちとは、こんなものだろうか?と。

 今も私は、彼女達に向かって『なんて、綺麗なの』と瞳を見つめ、囁き続けてい
る。絵と異性は似ている。惚れる時に必要なものは、自分が良いのだからいいと
いうエゴイズムだけで、他には理由も何もいらないからだ。
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3 コメント

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今エルテは (おや)
2005-08-12 07:58:57
 娘が買い求めたエルテの絵。私達もこれにはまった。以前、横浜西口側ににあった、日進(電気器具総合小売店)の店内には、100点ほどのエルテの絵が展示されていた。

 ここの経営者は相当の収集家であったようだ。買い物がなくとも家内とよくその鑑賞に出かけた。ちよっとした美術館であった。



 娘が買い求めたエルテの絵二面は、新婚家庭には場所を取ると言うことで実家に置いていった。

今もその絵は、二面並んで娘の部屋に飾られている。

 私達にとつては、亡き娘への思い出の絵となっている。見るたびに様々の思いを起こさせる。
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講評 (荒木)
2005-08-12 17:44:21
 うまいです。ただ残念なことに私、この画家の絵みたことがない。だから、もう一歩適切なコメントができぬ。

 ラストがいつもしゃれている。今回のも結び三行みごとにきまりました。

 

 あちこちしゃれた表現があるのもいい。
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自己紹介 (エルテ(ERTE))
2005-08-12 18:51:23
 1892年本名、ロマン・ド・テイルト将軍の息子としてロシアに生まれる。

 エルテは、アールデコ様式を土台にした代表的作家として、1920年代には、幻想、官能、ウイットといった独自の世界を華麗に、緻密に表現するスタイルを開花させていた。

 それは、西欧的エレガンスと東洋的エキゾチシズムの絶妙な融合という点で意義深いものとされている。

 エルテの名が世界的に知られるようになったのは『アルファベット』をモチーフとしたリトグラフが始まりで、1920年代の作品であった。

 主に、二ユーヨーク、パリで活躍し、巨匠エルテは、1990年に97歳の生涯を閉じました。
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