環境問題と心の成長17

2009年08月20日 | 持続可能な社会

 近代の産業社会と神経症的欲求

 前回、個人の心の問題として、成長のプロセスで適当な時に適当な程度に自然な欲求を満たされないと、それへの無意識の固着・こだわりが起こり、「神経症的欲求=欲望」の構造が出来上がってしまうということを述べました。

 このことは、近代西欧の集団的な心の問題にもそうとう類比的に当てはまるのではないか、と私は考えています。

 近代社会における「欲望」の大部分は、過去に貧しい経験をしたために、生理的・物質的な欲求に固着してしまったか、安定性に問題があったために、安全を守るためのお金が果てしなく欲しくなってしまったか、あるいは愛と所属が満たされなかったために、絶えず自分のまわりにちやほやしてくれる取り巻きをおいておけるような権力やお金が欲しくなったか、お金で無理やりにでも他人に自分を承認させたくなっているのか、といったところに原因があるように見えます。

 なかでも大きいのは、生理的・物質的欲求への固着でしょう。

 近代以前の西欧社会は、全体としては生産力のかなり低い貧しい農業社会だったと思われます。

 そこでは、社会のメンバー全員の「生理的欲求」さえ十分満たされていたとはいえないでしょう。

 そのために、長い前近代を通じて、社会全体として生理的欲求を満たすための物質に対する集合無意識的な固着・こだわりが強く蓄積していたのではないかと推測されます。

 すなわち社会全体の深層心理として、物質的富への神経症的欲求の構造が形成されてしまっていたと思われるのです。

 近代の合理主義―科学―科学技術―産業の発展は、西欧先進国においては市場経済を成立させ、前近代の物質的な貧しさからの脱出を相当程度実現しました。

 しかしその時、すでに社会全体に神経症的な欲求の構造が出来てしまっていたために、市場経済は同時に大量生産―大量販売―大量消費を目指す経済システムとなって、人間が生物として生理的に生きていくために必要・十分な「適度な」量にとどまらず、それをはるかに超えた「過度な」物質的富を生産し消費し続けるという事態を招いたのではないでしょうか。

 前近代の自給自足に近い経済では、物は基本的に使うために作られたのですが、市場経済では、物はなによりもまず売るための商品として作られます。

 ということは、まず需要があってそれに対して適量の供給がなされるというのではなく、利潤追求のために適量かどうかとは関わりなく供給がなされるということです。

 近代の経済人は(現代の経済人も)、基本的にたとえ需要がなくても売りたい・供給したいという動機を抱えています。

 なるべく多くの商品が供給され、購入され、消費されるには、なるべく多くの需要が必要です。

 そのためには、近代人の欲求の構造が神経症的になって生命維持のためには必要がないものまで果てしなく欲しがる「欲望」に変質していることがかえって好都合だったでしょう。

 しかも、その欲望が高まれば高まるほど消費も高まり利潤も高まりますから、近代では「広告・宣伝」というかたちで消費者の欲望をさらに意図的に掻き立てることも行われるようになっています(現代はいっそうそれが激化しています)。

 売る側の利潤追求欲と買う側の消費欲は、近代社会においては車の両輪のように対応して、経済を活性化するメカニズムとして機能してきたといってまちがいないでしょう。

 つまり「欲望」が経済成長の動因として社会的に肯定されるようになっているということです。

 そうした事情のため、近代社会では神経症的欲求・果てしない欲望があたかも人間の変えることのできない本性のように見えてしまうのではないかと思われます。

 近代的な欲望には確かに貧しさからの脱出―豊かな社会の形成の動因となったというプラスの面もあったのですが、しかし本質的には神経症的欲求が社会に蔓延したという大きなマイナス面もあることを見ておく必要がある、と私は考えています。

 ある集団のメンバーのほとんどが病気だと、病気がふつうに思えてしまい、正常でないことが見えなくなりがちですが、それでも本質的にいえば病気は病気であり、治さなければなりませんし・治すことができるのではないでしょうか。

 社会システムの一機能にまでなってしまった欲望・神経症的欲求を治癒することは困難ではありますが、しかし決して不可能ではないし、環境問題を根本的に解決するためにはその課題に取り組むほかない、と私は考えています。


 ニヒリズム・快楽主義と欲望

 近代社会で自然な欲求の構造が欲望に変質してしまった原因として、満足できてこなかったための神経症的な固着ということ以外に、もう一つニヒリズムの問題が重なっていると考えられます。

 近代人が経済的・物質的な繁栄を異常なまでに求める心理の底に潜んでいるのは、お金があればありとあらゆる物質的・感覚的な刺激を買い求めることができるという思いなのではないでしょうか。

 基本的にはお金や物が欲しいというより、それによる刺激が欲しいのです。

 なぜ刺激が欲しいかというと、近代人は根本的に空しいので、その空しさを一時的にでも紛らわせてくれる快楽が欲しくなるからです。

 パスカルの言う「気晴らし」です。

 例えば、金があっていろいろと遊んでいればその時は空しさをほぼ忘れていられます。

 死んだら無になるにしても、生きている間は金があれば日々快楽を追求し気晴らしをしながら、やがて死んでしまうことを忘れていることができるわけです。

 近代人が行なっている余分な消費―浪費は、いらないものを買って手に入れることによって何かを得た・充足したという感覚を味わうために行なわれているのであり、それは結局のところ根源的な空しさを紛らわせたいという半ば無意識の強迫的衝動に動かされている、と見てまちがいないと私は考えています。

 満たしえない空しさを満たそうとするので、当然ながら満たされず、それでも満たそうとするという心理的メカニズムで、欲望は果てしなくなってしまうのだと思われます。

 近代人の果てしない欲望の底には、実はニヒリズムという深淵が潜んでいると思われます。


 神経症的欲求の治癒

 では、どうすればいいのかということですが、そのヒントはやはり欲求の階層構造論にあると思います。

 個人としても社会集団としても、人間は生理的・物質的欲求の充足だけで最終的に満足できるものではありません。

 そのことに気づいた個人は、段階を踏んで適度に欲求を満たしながら自らの欲求のレベルを上げ人間的な成長を遂げ神経症的欲求を治癒していくことができます。

 それが可能であることは、私自身セラピーやワークショップを実践していて実感することです。

 また、もしそのことがはっきり社会的・文化的にも広く認識―合意されれば、社会そのものを、生理的・物質的欲求だけではなく安定・安心欲求、愛と所属の欲求、承認欲求を適時に適度に満たしうるシステムに変えていくことを社会全体の目標とすることもできます。

 先進国ではすでに生理的・物質的欲求の充足はかなりの程度実現しているのですから、文化的合意に基づく適切な教育・誘導があれば、人々は物質的欲求への神経症的固着から解放されて、より高次の欲求の充足に向かえるようになるでしょう。

 そして、承認欲求から自己実現欲求あたりまでの欲求が満たされた人々は、もはや環境を破壊してまで物質的欲望を追求する必要はないと感じるはずです。

 そのことは、北欧諸国とりわけスウェーデンという実例を見ていると、単なる推測や希望的観測ではなく、国家レベルですでに実現しつつあることだと思えます。

 基本的欲求に関してはすでに十分に満たされている「福祉社会」では、国民の多くが環境を破壊してまで物質的欲望を追求する必要はないと感じていて、国を挙げて「緑の福祉国家」の確立に向かうことができているのです。

 すなわち、原理的には簡単で、基本的欲求が順次満たされ、自己実現まで到達できれば、物質的な富は必要なだけあればいいというふうに人間の心は変わるはずです。

 さらに自己超越のレベルにまで達して空しくなくなれば、空しさを紛らわせるための余分なものはいらなくなるわけです。

 そういうわけで、従来の「意識的な学習と意思によって欲望を抑制する」というアプローチの一定の有効性は十分に認めていますが、環境問題の根本的解決には、意識的コントロールだけではどうにもならない無意識の欲望状態を自然な欲求構造に変え、欲求のレベルを上げていくという意味で「心を成長させる」ことが決定的に必要不可欠であり、かつ可能だ、と私は考えています。




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コメント (2)
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