環境問題と心の成長18

2009年08月27日 | 持続可能な社会

 仏性と環境

 前回の最後に「自己超越のレベルにまで達して空しくなくなれば、空しさを紛らわせるための余分なものはいらなくなる」と述べました。

 仏教的用語で言い換えれば、覚れば「少欲知足」ないし「無欲」になるということです。

 あるいはより正確に言い換えれば、貪りという煩悩が自利利他円満という「願」あるいは一切衆生を救いたいという「大欲」に昇華されると言ってもいいでしょう。

 「而今の山水は古仏の道現成なり」(『正法眼蔵・山水経』)、「この山河大地みな仏性海なり」(『正法眼蔵・仏性』)と覚れば、自分と自然が分離していると錯覚して、実体だと錯覚した自分(たち)の欲のために自然を汚したり壊したりすることなどありえなくなります。

 自然は自分と区別はできても分離することのできない、自己と不二なる存在なのですから、自然を汚し壊すことは自己を汚し壊すことになるからです。

 究極の話をすれば、すべての人が覚れば環境問題など雲散霧消するはずです。

 人間と自然の関係が「山河大地日月星辰までも修行せしむるに、山河大地日月星辰、かへりてわれらを修行せしむるなり」(『正法眼蔵・諸悪莫作』)というふうになった時、環境破壊も含め「諸悪さらにつくられざるなり」(同)ということになるからです。

 それはまちがいなくそうなのですが、問題は、生まれつき覚った人は存在せず、またすべての人が成長の過程でいったんはかなり実体視された「自我」を形成せざるをえず、そのかぎりにおいて多かれ少なかれ自然な欲求が自我的・実体的に歪まざるをえないということです。

 そこで、環境問題を真に克服するためには、自我以前から自我確立、そして自己実現から自己超越という「心の発達」の問題を視野に入れる必要がある、と私は考えています。

 そして、環境問題に関しては、特に欲求、欲望に関わる心の発達の問題が重要なので、まず先に述べましたが、続いてより全般的な「心の発達」について述べていきたいと思います。


 自我と無我は対立概念か

 近代という時代は、人間の個人としての自我の価値や権利が発見されてきた時代です。

 特に戦後日本は、決定的に個人・「自我」が人間の基本だということになった個人主義的な民主主義の社会です。

 それに対して過去の仏教には、過去の集団主義社会の倫理という面がありました。

 そのため、集団に対して自己主張をしないことと仏教的な無我がしばしば取り違えられてきました。

 「滅私」・「無私」イコール「無我」というふうに捉えられたのです。

 典型的には、まさに「滅私奉公」という言葉があったとおりです。

 例えば戦前の日本仏教では、村や所属団体あるいは国のために、私情を棄て、自分を殺して尽くすことと無我はほとんど完璧に混同され、「自我を無くして公のために滅私奉公することが無我だ」といった説法が堂々となされていました(市川白弦『日本ファシズム下の宗教』、『仏教者の戦争責任』〔法蔵館版著作集に収録〕など参照)。

 現代でも、その混同はかなり強く残っているようで、しばしば「自我を無くして無我になれ」といった言い方を耳にします。

 また戦前・戦後を通じて「悟りとは赤ん坊のようになることだ」といった説法も耳にします。

 つまり、日本の仏教界ではしばしば、「自我」は「無我」と対立するものとして否定的に捉えられてきたのではないかと思われます。

 しかし、「自我」と「無我」を対立するものと考え、「自我を無我にする」ことが仏教の目標であると捉えるのは、仏教の本質的理解として適切ではない、と私は考えています(詳しくは拙著『自我と無我』PHP新書、参照)。

 問題を整理しておくと、「自我」という言葉の心理学的な大まかな意味は、「感覚したことをまとめ、認識し、考えて、意思決定をする主体」といったことでしょう。

 そうだとして、覚りを開いたら、感覚をまとめ、認識し、思考して、意思決定をする主体という意味での「自我」がなくなるのでしょうか。

 もし大人が、ほんとうに分別・物心がついていない、自我の確立していない赤ん坊のようになったら、まわりの人の世話になりっぱなしで、自分で生きていくことさえできなくなるでしょう。

 そういう「自我」がなくなったら、社会的に適応した行動ができません。

 いかに覚ったといわれる仏教者でも、自我を働かせなくては社会生活を営むことができないのではないでしょうか。

 代表的には般若経典や龍樹が洞察したとおり、確かに人間は言葉を使って社会を営むために、世界が言葉で把握されたとおりにそれぞれ分離した実体の集まりとして存在しているかのような錯覚を抱きます。

 そしてなにより「自分」が他と分離したそれ自体で存在している実体であるかのような錯覚を抱いています。分別知・無明です。

 「実体」とは、それ自体で存在することができ、それ自体の変わることのない本性をもっており、永遠に存在することができるものを意味していますが、仏教は、すべては他とのかかわり・つながりによって生滅するものであり(縁起)、時の流れのなかで変化するものであり(無常)、ものの性質は他とのかかわりで変わり、時間のなかで変わるものですから、変わらない本性というものはない(無自性)と捉えていて、すべてのものの実体視を否定します。

 そういう意味で、仏教的にいえば実体視された「自我」もまた錯覚――『般若心経』の言葉を借りれば「転倒妄想」――であることはまちがいありません。

 しかしもう一方よく考えてみれば、感じ、認識し、考え、意思決定する主体という意味での「自我」がなければ、修行することもありえないのではないでしょうか。

 もっとも典型的には、ブッダの

 「比丘たちよ、みずからを洲とし、みずからを依処として、他を依処とせず、法を洲とし、法を依処として、他を依処とせずして住するがよい。比丘たちよ、みずからを洲とし、みずからを依処として、他を依処とせず、法を洲とし、法を依処として、他を依処とせずして住し、事の根元にまで立ちもどって観察するがよい」(『雑阿含経』、増谷文雄訳)

という遺言が示しているとおり、縁起の理法にそって正しく見、正しく考え、正しく語り、正しい行為をし、正しい生活をし、正しい努力をし、正しい気づきを保ち、正しい坐禅を修行する、八正道の主体としての「みずから」は否定されるどころか、むしろよりどころとするように勧告されています。

 これは、大乗仏教における六波羅蜜の主体としての菩薩についてもおなじだと思われます。

 つまり、ブッダ以来、仏教においては、さまざまなものとのつながりのなかで、一定の性質を一定期間保持しながら、一定期間は生きている現象的な主体という意味での「自我」は否定されないどころか、むしろ修行のよりどころとして尊重されるべきものと捉えられてきたのではないでしょうか。


 無我は非実体性を意味する

 また、「無我・アナートマン」は、もともと原語の意味からしても「アートマンではない」ということであり、アートマンとは実体ということで、「実体がない」、というか「実体ではない」という意味です。

 そこで、インド学・仏教学の泰斗・故中村元先生などは、「無我」よりも「非我」と訳したほうがいい、と言っておられました。

 先にも述べたとおり、それ自体で存在することができ、それ自体の変わることのない本性をもっており、永遠に存在することができるものを「実体=アートマン」といい、そうしたアートマン=我=実体などこの世にはどこにも無い、というのが「我に非ず」=「無我」(または非我)の本来の意味だと思われます。

 「無我」とは、後に般若経典など大乗仏教では「人法二無我」「人法二空」という言葉で明快にされているとおり、人間であれその他の存在であれ世界のどこにも実体=我は無いということであって、現象としての「個人の自我が無い」とか「個人の自我を無くする」ということではないようです。

 ただ、中国と朝鮮半島を経て仏教が日本に伝来するプロセスのどの時代からか、すべての存在の無我性・非実体性を自覚した結果、自分にもよけいな執着をしなくなった心ないしパーソナリティ状態をも「無我」と呼ぶようになってインド仏教本来の「無我・アナートマン」の意味が不明瞭かつやや矮小化され、かつ「自我」という言葉も実体視された自我に執着している心ないしパーソナリティ状態と混同されたために、「自我」と「無我」は対立するものと捉えられてしまったのではないか、と推測されます。

 しかし、「無我」という言葉の本来の意味はそうではなく、これまで誤解されがちだったのと異なり、「覚り」とは、自我を否定することではなく、自我の実体視を否定、というより克服・超越することだ、と捉えることができるのではないでしょうか。

 そう捉えることによって、自我以前からいったん自我を確立し、そして自己実現段階に発達し、さらに自我の実体視の克服という意味での自己超越に到るという「心の発達」の段階として、覚りを位置づけることができるのではないか、と私は考えています。



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