目覚めのための推論的理解:唯識のことば8

2017年01月31日 | 仏教・宗教

 かなり昔の『サングラハ』誌に連載し、その後、外付けのメモリーに眠っていた「唯識のことば」を少し書き直し、アトランダムだった内容も少し順序立てて、再活性化する試みを続けています。

 アクセス解析によれば、たくさんの方に読んでいただけているようで、とても喜んでいます。有難うございます。引き続きご愛読をお願いいたします。

 今回は、連載では第一回目だった、新年にちなんだ「夢」の話です。


 ……人が目を覚まして、夢の対象をはっきり認識するならば、それはただ識(心の働き)があるだけである。……

 たとえば人がまさに夢の中にあって、まだ目覚めていないならば、この〔それが夢だという〕自覚は生まれないが、もし人がすでに目覚めているならば、まさにこの自覚があるように、もし人がまだ真如の悟りを得ていないならば、この自覚はないが、もし人がすでに真如の覚りを得ているならば、かならずこの自覚がある。

 もし人がまだありのままの真理の覚りを得ていないならば、唯識ということについて、どのようにすれば推論的な理解(比智)を起こすことができるだろうか。

 聖なる教えと真の理論とによって、推論的に理解することができるだろう。

                        (『摂大乗論現代語訳』七七頁)


 唯識では、自我も外界も「夢・幻」のようなもので、「実在していない」といいます。

 しかし、ふつうの実感としては外界も自分もありありと存在しているわけで、納得しにくいのですが、それには表現の問題もあって、ただ「何も無い」といっているわけではなく、「他の者・物と関係なく、それ自体で、いつまでもある」という意味で「実体的に存在する」と思うのは妄想だというのです。

 〔自我や外界が現われては消えていく「現象」として存在するといえば存在していること、現象していることを否定しているわけではありません。〕

 しかし自我もその他のものも実在する(はずだ)という妄想の夢を見て、執着し、思いどおりにならないと苦しみうなされているのが私たちふつうの人(凡夫)です。

 そして、夢を見ている人はそれが夢だとは思っていないように、「実在すると思っているだけだ」といわれても、なかなかそうは思えません。

 しかし、悪い夢を見てうなされているとき、起こしてもらうと、初めぼやけた頭で「うん? 夢かな?」と思い、はっきり覚めると「なんだ夢か」とほっとすることがあるように、人生で悩み苦しんでいるとき、唯識のことばをよく聞くと、「そうか、自分の心の持ち方で自分を苦しめてるのか」と少し気が楽になりますし、はっきり覚めれば、究極のやすらぎ=涅槃に入れることになっています。

 唯識を学び少し目の覚めかかった、しかしまだそうとう寝ぼけて悩んでいる私たちとしてはどうすればいいのでしょう。

 「もし人がまだありのままの真理の覚りを得ていないならば……どのようにすれば」いいのか。

 答えは明快、「聖なる教えと真の理論とによって、推論的に理解すること(比智)ができる」と。

 唯識がしっかり理解できる・自分のものになると、智慧そのものではありませんが、「比智」が得られます。

 そして、推論的な理解・比智でも、かなり心を楽にする効果があることは確かです。

 初夢以来、とてもいい夢を見ている方は、もちろんどうぞそのまま夢を見続けていただいてかまいません。

 しかし、悪夢に悩まされがちな私たちは、しっかり目を覚ましてほっとするために、今年もまず比智から始まって実智に到る覚醒の歩みを続けることにしましょう。



 *比智から実智に向けた学びの講座 1) 2) を続けています。ご縁を感じていただける方はどうぞご参加ください(高松講座関係者のみなさん、3月の会場が変更になっています。ご注意ください。)。



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