神仏基習合の説教

2006年06月07日 | 心の教育



          水面の波紋――十和田湖から奥入瀬川への入口付近



 今日は、キリスト教主義の学校のチャペル・アワー(つまり礼拝)の説教に行ってきました。

 明日は、仏教主義大学の「仏教心理論」の授業に行きます。

 それは、私の中では何の矛盾もありません。

 私にとって、キリスト教のエッセンスと仏教のエッセンスと神道など日本の伝統的精神のエッセンスと現代科学のコスモロジーといろいろな心理学の統合的な理解は、ぜんぶとてもうまく調和するものですから。

 宗教的立場としては、わかりやすく「神仏基習合」と呼んでいます。

 今日の神仏基習合的な説教の題は「本当の自信と謙虚」でした。

 やや長くなりますが、その後半の本題の部分を、ネット学生のみなさんにもシェアしたいと思います。

                     *

 では、本当の自信とはどういうものでしょうか。

 それは揺るぎない事実に裏付けられた揺るぎない自分自身への肯定感、自己承認だと私は考えています。

 さてでは、揺るぎない自信を持てるような揺るぎない事実などというものがあるのでしょうか。

 私はあると思います。

 そのもっとも根本的なものが、私たちは誰もがみなすべて生まれてきたという事実です。

 そんなことは当たり前ではないかと思われるかもしれません。

 確かに当たり前です。

 しかし、その当たり前の事実の深い意味をよく自覚している人は多くない、と思うのです。

 どなたか、自分で自分を生んだ方がおられるでしょうか。

 おそらく私の知るかぎり、かつても今もこれからも、世界の中で自分を自分で生むことのできる人は一人もいないと思います。

 どなたか、自分の命を自分で作った、自分で買ったという方がおられるでしょうか。

 それから、生まれるに際して、条件を付けられた方がおられるでしょうか。

 一人もおられないでしょう。

 つまりが、私たちの命は自分で生んだものでもなければ、自分で作ったものでもなく、自分で買ったものでもありません。

 まったくただ、まったく無償で、まったく無条件で与えられたもの、プレゼントされたものです。

 私たちの能力や長所や業績などの根源である私たちの命、生きているということそのものが、自分の功績ではない、無償・無条件のプレゼントであるという事実に気がつくと、私たちは謙虚にならざるを得ません。

 「いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。」(新約聖書、コリントの信徒への手紙Ⅰ 4:7)

 しかしこの誰もが生まれたものだ、命はプレゼントだという事実に、本当の自信の根拠もあるのだ、と私は考えています。

 私たちの命が自分で生んだものではないということは、私たちの命を生んだものがあるということです。

 その私たちの命を生んだもののことキリスト教では「神」と呼んできました。

 ここで大切なことは、「神」という言葉を使うかどうか、その言葉に伴うイメージが好きかどうか、その言葉に関してキリスト教が教えてきた教えを信じ込むかどうかではない、と私は思っています。

 重要なのは、私たちが生まれたということが事実である以上、私たちを生んだ私たち個人個人を超えたいわば「より大いなる何ものか」が存在することも事実だと考えざるを得ない、ということです。

 私たち人間の命は、当たり前のようでもあり不思議なようでもあることですが、心を持っています。

 その心で、自分が生きているということを感じたり考えたり、さらに自分を生かしているより大いなる何ものかのことを感じたり考えたりすることができます。

 そこに人間が、他の生命でない物はもちろん、他のどの生命とも違う特徴があるといっていいでしょう。

 人間は大いなるなにものかから生まれたものでありながら、その大いなるなにものかのことを感じ考える存在なのです。

 現代人に納得しやすいように、その大いなる何ものかのことを「宇宙」とか「自然」と呼んでおくことにすると、人間は宇宙・大自然から生まれたものでありながら、自らを生み出した宇宙・大自然のことを認識する存在です。

 しかも、人間の心には理性だけではなく感情の領域がありますから、大いなるもの・大自然を認識した時には、まさに自然に感動し、賛美せざるを得なくなります。

 (十和田湖、奥入瀬渓流、八甲田山の美しさには感動せずにはいられませんでした。)

 大自然・宇宙は、自分自身の中に自分自身の一部として、自分を認識し、感動し、賛美する心のある生命として人間を生み出しているのです。

 これは、気づくと誰でも納得のできる事実ではないでしょうか。

 そして、それが、宇宙の中に人間が心のある生命として存在する宇宙的な意味なのではないか、と私は考えています。

 「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ 3:16-17)

 私たちは、自分がそういう神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいること、現代風に言い換えれば宇宙の自己認識器官、自己感動器官としての心を持っているということに気づいた時、いわば宇宙的な、絶対的な自信を持つことができます。

 この自信は、誰にでもある確実な事実に裏付けられていますから、人と比較する必要も、無理をする必要もありませんし、揺らぐことはありません。

 そして、そういう本当の自信は本当の謙虚と矛盾するどころか、表裏一体のものだと思います。

 今日の聖書の言葉は、特定宗教としてのキリスト教を信じ込むかどうかということを超えた、誰にでも通用する事実を指し示している言葉なのではないでしょうか。

 古代的で現代の日本人にとってはあまりにも宗教的な表現ですが、現代の言葉で読み直すことによって、私たち自身の生きている事実を照らしてくれる言葉として聖書を学ぶことができる、と私は考えています。



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1 コメント

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Unknown (豆タンク)
2006-06-08 01:18:16
聖書の言葉、はじめて読みましたが、こういうふうに読んでみるととても深くていいですね。

自分を「神の神殿」だとはあまり思いにくいのが現状ですが、しかし事実は現代的に言い換えられているとおりに、まさにそのとおりだと思います。

それが心から納得できると、宇宙的な自信と謙虚さになるとのこと、そうなりたいです。

さらに授業、よろしくお願いします!

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