一昨日の講座の後に話したことが、参考になったようなので、皆さんにもシェァさせていただきます。
私たちは、むずかしい問題にぶつかると悩みがちです。
しかし悩むというのは、しばしば問題を感情的に捉え、ああでもないこうでもない、どうしようと、どうどう巡りしているだけのことがあります。
そういうふうになっている人、特に教え子には、「悩むな、考えろ」と忠告することにしています。
「気持ちはよくわかる、本人ほどではないけどね。…でも、悩むと問題は解決するようにできてるのかな? ならば、どんなに悩んでもいいんだけど。
悩むといい気持ちなのかな?
……だとしたら、悩むことは、役に立たない。いいことは何もない。だったら、悩まないで、考えよう。」
「考えるには、深呼吸でもして、リラックスして、冷静さを取り戻して、この問題はどういうものか、なぜ起こったのか、どうすれば解決できるか…と順を追って、見ていけばいいんだよね。」
「でも…」という人もいるでしょうが、出先の電車のなかなので、続きはまた後で。
参考になりそうな人、参考にして下さい(「メンタル・ヘルスに万能薬なし」ですから)。
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深呼吸・リラックス・そして冷静さ、とても大切なことだと改めて気付かされました。
他人の話は論理的に聞ける…つもりなんですが…。
自分のことは、自分がいちばんコントロールできるはずなのに、何故か難しいですね。
気を付けたいです
たしかにぐちゃぐちゃと悩んでいるときには考えに踊らされて自分では考えていないように思います。
そういうわけで「悩むな、考えろ」は理屈としてひじょうによくわかります。ぜひそうしようと思います…
が悩みの際中にいると実際にはそれはなかなか難しい。というかまさに難しく感じてしまうわけですね。
ここが難しいと感じます。続きをお待ちしています。
昔よりはだいぶ冷静に『考える』という事ができるようになってきた気がします。
何か起こった時に、瞬間的に気持ちに火がついてしまうのは
なかなかなおらないのですが…その後の気持ちの整理の仕方が昔と比べると違います。
学びをもっと深めて、この先の有限である人生、少しでも有意義なものにしたいです。
ちょっと実存主義かぶれした類いの本ですね。
そうした本には、悩めば悩むほど人生は深まり、味わいあるものになる、みたいなことが書かれていました。
当時は、そんな考え方に惹かれたりもしましたが、確かに悩んで何か得したかといえば、何も思い浮かびません・・・。
悩むということは言ってみれば、コスモスの停滞なのでしょうね。
停滞も少しの間であればあってもいいけど(なくてもいい?)、いつまでも停滞しているのは、時間の無駄、人生の無駄だと思えるようになりました。
悩んでいることに得はない。
クヨクヨ悩まないで解決策を考える、考えたら実行するということが、人生を深化(進化)させるんですね。
先生から学びました。
「自分のことは自分がいちばんコントロールできるはずなのに」、できないのは、なぜでしょう?
軽い宿題です。よかったら、考えてみて下さい。
>三谷くん
そうですか、難しい? 難しいと感じてしまう?
続きはまた書こうと思っていますが、その前に、これもちょっと宿題にしましょう。
よかったら、考えてみて下さい。面倒なら考えなくてもいいですけどね。
>RYOさん
話を簡略にするために「悩むな、考えろ」というのですが、より哲学的・詳細に考察すると、有益な悩みと無益な悩みを区別する必要があるとは思います。
現代の日本で健康でふつうの経済状態にある人の悩みは、無益なものである場合がけっこう多いと思うので、そういう言い方をしました。
しかし、フランクルのいうような「苦悩する力」、不条理な――のように思える――出来事について悩み抜く勇気は、質の高い人生には不可欠だと思います。
その両者を区別し、無益な悩みはやめて、解決法を考え、見出し、実行する、ということです。
厳しい、しかし有益な悩みは逃げないで悩むほかありませんね。
…といっても実際に難しく感じ、またお書きになっているように回復を図ることは難しいです。
そのような状態にあるときには「ムリ!」という思いが強くまさにリアルに感じられ、回復するための思いはじつに弱く流されてしまうようです。
これは教わったとおりそのようにセルフトークをしているからその通りに感じているのであり、いいほうに目を開き・そちらを向き・ずっと近づけることが大切というのは半ばわかっているようで実際にはそのように思っていないため、なのだと思います。
しかしそういうときには「どうせ無理」という常識の壁はとても分厚くなっており、やる気にならないというのが実際のところです。
コメントへの返事が他の人より遅れてゴメン、ゴメン、平身低頭。
外出していて三谷くんのまでを読み、帰ってきてPCでぱっと見てRYOさんを読んだら、香織さんのを見落としたようです。
学生時代より明らかに進歩した、でもまだまだ成長可能性たっぷり、ですね?
これからも一緒に持続可能な学びをしていきましょう!
学んできたとおり、「リアルに感じられる」ということは、「リアルである」ということではありませんね。
「どうせ」というのは「どうしたにせよ」という言葉の略ですが、これはほんとうにリアルで論理的な思考なんでしょうか。
こういう言葉が浮かんできたら、「私は、これまでどうしたというほど、どうかしたのか?」、「私は、未来のことが絶対にそうなることがわかる超能力者、予言者なのか?」、「すべて未来のことは確立・傾向性・可能性の問題で予め決まってはいない」と反論できるといいですね。
久々に寄らせて戴きました。
7/31の記事に宿題の答えが出ているようですが、
敢えて読まずに考えてみたいと思います。
宿題)自分のことは自分がいちばんコントロールできるはずなのに、できないのは何故?
私の答え)『自分のことは自分がいちばんコントロールできるはず』という仮説がそもそも間違っている。
まず「私がコントロールできるものは何か」について考えてみます。私の身近にあり、自らの意思やその他の外力で勝手に動き出さず、かつ軽く弱く柔らかく適度に靭性,塑性があるものは、比較的コントロールしやすいものであると言えます。
次に、人間の心がどういう性質のものかについて考えてみます。
例えば、自分が「やせよう」と考えたとします。そのために、運動したり、食事を制限したり、薬を飲んだり、いろいろな試みをしてみます。ただ、その試みは、苦しいものなので、くじけそうになります。
このように、しようとしたことにブレーキを掛ける作用を「負のフィードバック」と言います。
物の作用に例えると「バネ」の作用に似ています。
バネは、押し縮めようとすると、延びようとします。延ばそうとすると、縮もうとします。この性質は、いわゆる「負のフィードバック」そのものです。
このように人間の心は、バネのような弾性を備えるものなのです。だから、コントロールしやすい物ではありません。
お元気ですか。ひさしぶりのコメント、有難うございます。
「仮説がまちがっている」というご指摘、ある意味でそのとおりだと思います。
無意識化しているアイデンティティの変えにくさを、バネというのはとてもいい比喩だと思います。
無意識のアイデンティティの負のフィードバックをどうそらすか、31日の解答も読んでみてください。