『サングラハ』第172号「近況と所感」

2020年08月08日 | 広報

 長い梅雨がようやくもう少しで明けそうです。本誌がお手元に届く頃には、なんとか明けているかもしれません。

 我が家のまわりでは、朝からクマゼミがジャンジャンと鳴くようになっていて、あと〇・五度で猛暑日という一日もあり、もう真夏の気配です。

 読者のみなさんは、いかがお過ごしでしょうか。物・身・心ともにご無事・ご健康であられますよう、いつも心からお祈りしています。

 ほんとうに心痛むことに、今年も各地で「想定外」の記録的豪雨が降り甚大な被害が出てしまいました。

 心からお見舞い申し上げ、一日も早い復旧-復興をお祈りします。亡くなられた方のご冥福をお祈りし、ご遺族の方に心からお悔やみ申し上げます。また復旧のために力を尽くしておられる関係者の皆様には、心から感謝と敬意を表します。

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 新型コロナウイルスの感染状況のほうも、いったん収まるかのように見えましたが、緊急事態宣言解除後、危惧したように、第二波だと思われる状況になってきてしまいました。

 コロナ、豪雨と、ほんとうにきついダブルパンチです。

 しかし、幸いにして、治療薬・治療法の開発もワクチンの開発もかなり進んできているようで、少し希望が見えてきたように思われます。

 とはいえ、日本だけの問題ではない、世界的爆発的流行(パンデミック)としての「コロナという公案」への答えを見出し、本格的収束を迎えるには、さらなる持戒、さらなる忍辱、さらなる精進、さらなる智慧、そしてさらなる物心両面での社会的・世界的連帯=布施が必要なのだと思われてなりません。

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 香川県はしばらく感染者もなく小康状態だったので、七月から九月初旬まで水曜講座と日曜講座を各二回再開することにして、昨日、久しぶりに講義をしてきたところです。DVD録画は、カメラの向こうでみなさんが聴いていてくださるとイメージしながらやっていますし、手抜きは一切していないつもりですが、やはり実際に目の前で聴いていてくださるみなさんのお顔を見ながら講義する、そしてご一緒に学んでいくのとでは、かなり、相当、丸でに近いくらい手応えが違うものだ、と感じました。

 東京で講義ができるようになるまでには、もうしばらくかかってしまいそうで、とても残念です。忍辱の修行を続けましょう。そして、遠すぎない再開-再会を祈りましょう。

 こういう状況がまだしばらく続きそうなので、あまり得意な分野ではないのですが、そろそろオンライン講義も考えなければならないかなと思っているところです。

 せめて高松のほうだけでも、小康状態が続いて講義を続けられるといいのですが、残念ながらこの数日間は少しずつ感染者が増えてきていて心配です。

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 水曜講座で取り上げている『正法眼蔵』「一顆明珠(いっかみょうじゅ)」の巻は、東京と藤沢では何度も講義したのですが、こちらではまだでした。いちおうしっかり理解できていたつもりで、準備にあまり手間暇はかからないと高をくくっていたのですが、改めて読み直していると、まだまだ読みが足りないところがあることに気づき、現代語訳も大幅に修正しました。

 「古典は成長する」とは、何度かご紹介した作家埴谷雄高(はにやゆたか)がドストエフスキーに関して言った言葉ですが、確かに読む側の成長につれて、テキストそのものから読み取れるものも成長する-深まっていくものです。

 今回、特に心に残ったのは、「盡十方世界(じんじっぽうせかい)是一顆(これいっか)の明珠(みょうじゅ)」「全宇宙は一つの明珠(一体なる輝く珠)である」ということを知的に理解するだけでなく、全身心的に会得すると、「黒山鬼窟裏(こくさんきくつ)に向って活計(かっけい)を作(な)す」「暗黒の山の暗黒の洞窟の中の亡霊がたむろしているようなところに直面してもしっかりと活きる手立てを得る」ことができるということでした。

 お先真っ暗、まわりはわけのわからない奴らばかりと感じられる世の中にあっても、宇宙との一体性・空・一如を体感できていれば、しっかり生きてちゃんと死ねるということですね。

 そしてもし体感・体得が不十分で、しっかり生きられずちゃんと死ねないと感じたら、学びを続けるしかない。何度もご紹介したクリシュナムルティの言葉のとおり、「いったん始まると、学びに終わりはない」ので、筆者も学び続けます。

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 ここのところ、東京でも高松でも学びの焦点を『正法眼蔵』と般若経典に当てていて、当然ながら、二つを繰り返し読み直しています。そして、これも当然ながら、改めて「やはり深い!」と感じています。「わかったつもりだったけど、まだまだだったなあ」と。

 そんな中で、また新たに心に響いた『摩訶般若波羅蜜経(まかはんにゃはらみつきょう)』(鳩摩羅什訳)「幻聴品(げんちょうほん)」の一節をご紹介します。

 

 〔実体としての〕自我は幻のようであり夢のようであり、生きものというのも知る者も見る者もまた幻のようであり夢のようである。……物質的現象は幻のようであり夢のようであり、感受、想念、意思、思考は幻のようであり夢のようであり、眼から意識に至る接触という因縁から生まれる感受は幻のようであり夢のようであり、布施という修行から智慧という修行に至るまで幻のようであり夢のようである。……仏道は幻のようであり夢のようである。

 

 我は幻の如く夢の如し、衆生乃至知者見者(しゅじょうないしちしゃけんじゃ)も亦幻の如く夢の如し。……色は幻の如く夢の如く、受想行識は幻の如く夢の如し、眼乃至意触因縁生の受は幻の如く夢の如く……檀那波羅蜜乃至般若波羅蜜は幻の如く夢の如し。……仏道は幻の如く夢の如し。

 

 これは、大河ドラマなどで信長が最後に詠う「人間五十年(じんかんごじゅうねん)、下天(げてん)の内を比ぶれば、夢幻の如くなり」(幸若舞「敦盛」の一節)という言葉のような「すべては夢幻のようにはかない、空しいものだ」という無常感の話と同じではないことは、ご一緒に学びを続けてきた方にはおわかりのとおりです。

 私たちが感じている「現実」は、ありありとまさに実感的、に現われているものですが、よく気づけば、現われて消えてヽいくものです。現われて消えていくものは、「実体」ではなく「現象」なのでしたね。

 般若経典の「夢・幻」の譬えは、私たちが実体だと勘違いして執着しがちなものはすべて現象だということを表現しています。

 すべてが実際現象なのならば、必ず現われて消えていくのですから、とどめようがないという意味で、どんなにこだわっても執着しても無理・無駄だということは明白です。こだわりきれない・執着しきれないのです。

 ならば、こだわり執着するのをやめてはどうか、ということです。こだわり執着するのをやめれば、心はさっぱりと軽くなる、はずです。それを善なる心の働きの一つとしての「軽安(きょうあん)」というのでしたね。

 そして、夢にもいい夢と悪い夢があるのですから、どうせ見るならいい夢を見ましょう。どうせ描くならいい幻を描ヴィジョンきましょう。それができるかどうかは業(カルマ)次第です。

 そして、すべては夢・幻・現象ではあっても、同時にそれらはすべて一体なる宇宙の働きでありプロセスです。「盡十方世界是一顆の明珠(じんじっぽうせかいこれいっかみょうじゅ)」であり、宇宙の光・エネルギーの一つの現われが私でありみなさんであるわけで、生きている間も宇宙、死んでも無にはならない、光の世界としての宇宙に還っていくだけです。

 ところで最近、二人の有名な作家が「死んだら無」対「死んだら永遠」という対談をしたそうですが、どちらも大乗仏教の死生観・コスモロジー心理学の死生観とは違うようで、大乗仏教では「断見(だんけん)」と「常見(じょうけん)」という「悪見(あっけん)」の中の二つの偏った見方=「辺見(へんけん)」のに分類されるような見解なのではないかと推測されます。あえて買って読んで確認してから反論するという気にはなれないのですが、テレビで報道されていたので、ちょっと一言コメントしたくなりました。誤解であれば、失礼をお詫びします。

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 今回も、力作をお寄せいただいた執筆者のみなさんと、続けてご愛読いただいている読者のみなさんに、心から感謝申し上げます。引き続き、お付き合いいただけると幸いです。

 


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