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大般若経の愉しみ 3

2010年03月03日 | 心の教育

 身の回りの用事――雑用ではなく「作務(さむ)」と捉えるようにしていますが――に対処するために、記事の更新が滞っています。

 アクセス解析を見ると、更新をしていない時にも、毎日、200人前後の方が見てくださっているのに、申し訳ないなと思います。

 そこで、今日は作務の間を縫って、久しぶりに大般若経のことばのご紹介をします。

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 若し菩薩摩訶薩(まかさつ)、世世に常に仏を見たてまつることを得、恒に正法を聞きて仏の覚悟を得、仏の憶念(おくねん)教誡(きょうかい)教授を蒙(こうむ)らんと欲せば応に般若波羅蜜多を学すべし。(大般若経初分学観品第二之一)

 もし菩薩・大士が、いつの世にも常に仏を見たてまつることができ、いつも正しい真理の教えを聞いて仏の覚りを得、仏のお考え・誡め・教えのおかげを受けたいと望むならば、まさに般若波羅蜜多を学ぶべきである。


 「般若」のサンスクリット語の原語はプラジュニャーで、無分別智=すべてをばらばらに分離した実体と見ることのない智慧を意味する。

 仏陀とはそういう智慧を体現した人のことをいう。

 そういう意味でいえば、仏陀・仏の本質は般若の智慧にあるのであって、「幻の如く、陽炎の如く、夢の如く、水月の如く、響の如く、空花の如く、像の如く、光影の如く、変化事の如く、尋香城(蜃気楼)の如く……」と喩えられたような、目に見えるかたちに現象した身体にあるのではない。

 だから、真に仏を見るということは無分別智を自ら覚ることを意味している。

 さらにだから、「いつの世にも常に仏をみたてまつ」りたいと「望むならば、まさに般若波羅蜜多を学ぶべき」なのである。

  と言われても、目に見えない、それどころ普通の分別的な知恵では認識できない仏の本質はなかなか実感できないので、方便として仏像が作られたのだと考えていいだろう。

 今、混迷する時代のなかで心の安らぎを求めて、「仏像ブーム」なのだという。

 私も美しい仏像を礼拝することは好きだが、しかし「世世に常に仏を見たてまつることを得……んと欲せば」という条件つきの「応に般若波羅蜜多を学すべし」という「べし・ねばならない」はとても納得できるので、それと同等、あるいはそれ以上に好んで「般若波羅蜜多」を学び続けようと思う。

 そして、有り難いことに、学びは愉しみであるので、大変な無理はしなくても続けることができそうである。