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別記事のお知らせ

2006年06月17日 | 歴史教育





 最近、エッセイ用に使っているもう一つのブログ「宇宙塵のざわめき」(ブックマークに入れてあります)に「日本の心と仏教」という記事を掲載し始めています。

 『ダーナ』という仏教雑誌の連載ですが、掲載からしばらく時間を置いてブログ公開することを出版社に了承していただいていますので、前のものから掲載していきたいと思っています。

 よかったら読んでみてください。

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雨の古都

2006年06月16日 | 歴史教育



         羅生門跡:小さな公園の中に石碑が立っているだけ




         羅生門模型:近くのお堂の中の小さなガラス・ケースに入っていた




             羅生門跡の公園のアジサイ




         西寺跡:草に覆われた土壇と石碑が残っているだけ



 昨日は、折角の京都なのでせめてもと、少し早めに着いて、数時間歩きました。

 『空海の『十住心論』を読む』(大法輪閣)などを書いていて、もちろん東寺は行ったことがあるのですが、それと並ぶ西寺の跡には行ったことがありませんでした。

 それと、若い頃、芥川龍之介の短編『羅生門』にはとても感銘を受けたので、一度、羅生門跡にも行ってみたいと思いながら、これも行ったことがありませんでした。

 地図によると東寺-羅生門跡-西寺跡は同じ通りにあります(昔の都の造りのことを考えると当たり前なのですが)。

 こういうものの距離感覚は歩いてみないとわからないので、歩いてみたいと思ったのです。

 雨の中でしたが、さびさびとして、わずかに残った石碑に、遠い昔を偲ぶにはふさわしい天気でした。




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十七条憲法の講義への反応

2006年01月14日 | 歴史教育

 昨日で、今年度最後の授業もすべて終わりました。

 2つの学部では、聖徳太子の『十七条憲法』の全文を紹介し、解説しました。

 それは、日本人としての、正当な自信・誇りを持つことができるようになることが目的でした。

 もちろんすべての学生ではありませんが、感じでいうと8割以上の学生が、その意味を理解してくれたようです。

 以下、やや多いのですが、あえて紹介しておきます。

 一言いっておきますが、私は政治的には、右でも左でも、いわゆる中道でもありません。

 私たちは、それらのそれぞれに妥当な主張を統合したいと思っているのです。

 それが、成功しているかどうかはみなさんの評価にお任せするとして(拙著『聖徳太子『十七条憲法』を読む』〔大法輪閣〕、ケン・ウィルバー/拙訳『万物の理論』〔トランスビュー〕参照)。



 3年 男

 十七条憲法の素晴らしさはよくわかりました。

 これは聖徳太子のことに限りませんが、日本の歴史教育が過度な自虐から脱却し、かつ右翼的にならない、正当な教育を行えるようになるにはどのくらいかかるのでしょうか。

 先生の仰る通り、まずは自分の生きる姿勢を固めてから、市民として考えていきたいと思います。

 1年間ありがとうございました。


 2年 男

 十七条憲法には、おどろきました。真摯さ、聡明さというのが、簡単な文面なのにすごく伝わるものなのだなと感じました。

 聖徳太子という人について、今まではもはや神話と同じ感覚で見ていたのに、本を読んだだけで、その理念や情熱を、横にいるかのように感じます。高潔な志と、誠実な文に心が動きました。

 やはり日本国憲法はだめです。誇れない。美しくないので。しかし、私は十七条憲法の国に生まれたことをとても誇りに思います。

 ……できることをやらねば。


 2年 女

 憲法らしくないと思うけれど(道徳の教科書のようで……)、自分の国の昔の憲法に感銘を受けました。特に「まごころを持つ」くだりの所は、何かとはっとさせられる気になりました。

 こんなことが、この国のルールとされていたことに、日本人であることに誇りをもつことができました。

 現代人として、大人として(先日成人式でした)、先人の方々に恥じるようなことだけはしないように、しっかり地に足をつけて、進んでいこうと思います。


 3年 女

 大昔に制定された憲法が、今施行されている憲法より、理に適っていることに驚きました。

 確かに現在の日本は、十七条の憲法はいくら良いからといっても、状況的に採用することはできないでしょう。ですが、個人個人のルールとして仏教の教えの根付いた十七条の憲法を採用することは可能であると思います。

 また、私個人としては国を挙げての1大意識改革よりは、1人1人が信じ、納得し、それが次第に地域・国全体に波及していく方がルールの在り方としては良いのではないかと思います。

 世界情勢に敏感である政府が悪いというのではなく、ただ振り回されるような確固としたものがない政府が私はあまりよくないのではと思います。

 1年間、この授業をとって、仏教に対する考え・理解が深まったとともに、自然そして世界の見方の新たな視点を得ることができたように思います。

 1年間ありがとうございました。


 3年 男

 十七条憲法と聞けば、日本人であれば誰でも聞いたことあると思います。私も、もちろん知っていました。けれども「どういったものか」ということを深く考えたことはありませんでした。

 けれどもこの授業で扱われ、触れていく中で、改めてこの憲法の大切さと尊さを感じることができました。同時に自分自身の国の憲法について、能動的に考えていこうという姿勢を持っていなかったことに対してとても恥ずかしく思いました。

 まず第一に、前期でも学んだことではありますが、大戦後アメリカによって形成されたものが今現在の憲法なのです。つまりアメリカ主体で出来上がった憲法の下、私たちが生きてきたのだ。そのことを冷静に考えてみると、とても虚しく思いました。ただ流されているだけだったんだなと思いました。

 ですから、もう一度、きちんと読み、日本人である私自身、どういったものかということ能動的に理解しようとする姿勢を持っていきたいと思うようになりました。私自身の〝心〝と〝頭〝を使い、こういった作業していかなければならないと思いました。

 おそらく、私と同じような若者は多数いると思います。ですから、そういった多くの人たちもまずは、憲法に触れていくことから始めていくことが大切だと思います。そういった人たちにも私のように〝触れ合う機会〝に出会うきっかけがあればいいのにと思います。

 戦争やアメリカといったさまざまな要因のもと、今の憲法はあるわけだが、聖徳太子は初めに憲法を作った際に、平和が第一と唱えているのです。このことはとても大切なことだと思うし、人として生きていく上でかけがえのないことだと思います。

 同時に授業でも先生がおっしゃっておられましたが、われわれは和の国を目指した聖徳太子の子孫なのです。

 今のままの日本は〝無関心社会〝だと思います。私は今回十七条憲法を見てきて、1番にこういった社会について見直していかなければならないと思いました。特に私たちの世代の人間が、本来の憲法の意味を考えていかなければならないのだと思いました。

 聖徳太子の和というものは、「まあまあ、と事なかれ主義ではなく、きちんと話し合い、意見が合わなくても、対立するのではなく、きちんと理解し合い、仲良くしなさい」というものであり、こういったことも素敵なことだと思いました。それだけではなく、聖徳太子は、人間だけではなく自然や万国をも視野に入れ、考えていたのだ。7世紀初頭にもかかわらず、世界基準になるようなことを考え出していたという点にも感服しました。

 何度も述べましたが、十七条憲法については本来の形をもっと理解して、見直していこうという日本人の姿勢がこれから大切になっていくと思いました。


 聴講生 女

 率直にいえば、今、国会議員にこれを講義してほしいです。本当の賢者が治めるならば、憲法はこの十七条でこと足りるようにも思います。

 しかし、現実問題としては、現在、国を治めている方々がこのような憲法が存在していることを国民に知られるのはいやでしょうね。自分たちとずれがありすぎる。

 国会議員の方々が、なぜ先生の教えを正面から受けないのか? ずっと不思議でしたが、その理由が少しわかったような気がしました。

 民主主義の欠点の話はとても興味深く聞きました。現在の政治が民衆のレベルに合っているというのは、とても反省すべきことだと思いました。小市民でいるのは、本当は楽しくない。

 正しい教育を受けたことに感謝して、まず国民に、それから願を持つ人間を目指します。人間同士の平和と自然との調和を心がけます。


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『十七条憲法』の授業

2005年12月10日 | 歴史教育

 大学の授業も残り少なくなってきました。

 後3回、論理療法の話と聖徳太子『十七条憲法』の話とどちらがいいかと希望を書いてもらうと、1つのクラスでは大多数が『十七条憲法』でした。

 これは私にとってうれしい予想外でした。

 唯識を中心に仏教の話をした後で、

 「ところで、こうした深さと普遍性のある仏教を日本に導入した責任者は、聖徳太子です。

 そして太子は、驚くほど深く仏教を理解していたんです。

 その仏教精神を核に、人と人とが平和に、人と自然が調和して暮らすことのできる「和の国・日本」をみんなで創ろうという呼びかけ・国家理想を語ったのが『十七条憲法』なんです。

 これが日本の最初の「憲法」です。

 明治憲法や現行憲法の前に、いわば日本の「国のかたち」・国家理想として最初にあったのは、『十七条憲法』です。

 そもそも「憲法」という言葉自体、明治憲法を作ったとき、英語では constitution に当たる言葉をどう訳すかを考え、『十七条憲法』から「憲法」としたんですね。

 ここに語られている国家理想を知るということは、日本人としてきわめて正当な国民的アイデンティティを確立することにつながるので、こっちをきみたちに伝えておきたいという気もしているんだけどね。」

と話したことに反応してくれたのでしょう。

 昨日から始めましたが、学生たちは非常に感動して聞いてくれたようです。

 彼らはやはり「日本の子」、精神的な意味での「聖徳太子の子孫」なんだなあ、と感じたことでした。

*これから話していく詳しい内容については、拙著『聖徳太子『十七条憲法』を読む』(大法輪閣)を参照していただけると幸いです。


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ゴータマ・ブッダ略伝2

2005年12月08日 | 歴史教育

 とことん実践してみた結果、結局、そうした苦行では覚れないと判断したゴータマは、再度、徹底的な禅定を試みる決心をします。

 そして、苦行で汚れた体を河で洗い、ちょうど通りかかった村の少女スジャータの捧げるミルク粥を飲んで体力を回復しました。

  それから、ただひとりネーランジャラー河(尼蓮禅河、ガンジス河中流南岸)のほとりの菩提樹の下に坐り、「覚るまではけっしてこの座を立たない」と決死の覚悟で、静かに禅定・瞑想・思索を始めます。

そして長い禅定の果てについに覚り(成道)、覚った者になったとされています。

 後に固有名詞のようになった「仏陀(Buddha)」 とは、もともとは一般名詞の「覚りを開いた人」という意味です。

 前428年、35歳のことだとされています。

 日本では、12月8日――ちょうど今日ですね――のこととされており、お寺では「成道会(じょうどうえ)」という法要があり、特に禅の道場ではこの時期、「臘八摂心(ろうはつせっしん)」という集中的な修行が行なわれます。

 ブッダが覚りを開いた場所は「ブッダガヤー」と呼ばれ、今日に到るまで仏教の重要な聖地になっています。

 覚りを開いた後、彼は自分の覚ったことがあまりにも深く高くてとても人には理解できないのではないかと考え、教えることをためらったのですが、ヒンドゥー教の最高神ブラフマナー(梵天)に3度も強く請われ、あえて教える決心をした、という伝説があります。

 その後、旧友の修行者5人なら、自分の達した境地を理解できるかもしれないと思い、聖地ベナレスの郊外にある「鹿の園(鹿野園)」というところに行きます。

 かつての仲間は、苦行を捨てたゴータマを最初は無視しようとしたのですが、その姿があまりにも爽やかで輝くようなので、思わず出迎え、教えを聞くようになり、弟子になったといわれています。

 ここで、仏教の教団が成立したわけです。

 その後、毎年雨期には一ヵ所にとどまって定住生活(雨安居・うあんご)をしましたが、それ以外の時期にはつねに国中を遊歴して教え続けました。

 最後には、現在のネパールの国境に近いクシナーラーというところで80歳で亡くなりました(「入滅」とか「涅槃に入る」とかいわれます)。

 ブッダの伝記は、ちゃんと語るともっともっと長くなり、また感動的なのですが、私の任ではないので、友人の羽矢辰夫さんの著作などにゆずることにしましょう(『ゴータマ・ブッダ』『ゴータマ・ブッダの仏教』〔どちらも春秋社〕)。

 ブッダは何を覚り、何を教えたのか。

 次回から、これまた簡略に、私の解釈をお話していきたいと思います。


*写真はスコットランド国立博物館所蔵のガンダーラ仏


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ゴータマ・ブッダ略伝1

2005年12月08日 | 歴史教育

 すでによくご存知の方も多いでしょうが、ごく簡単に伝記的なことをお話しておきます。 

 仏教の創始者ゴータマ・ブッダ(仏、仏陀、Buddha)は、紀元前463~383年頃の人だと考えられています(他にもいろいろな説があるようですが)。

 ネパールの釈迦族の国王・浄飯王(シュッドダーナ)の長男として生まれ、俗姓をゴータマ・シッダッタといいます。

 国の中心はカピラ城といって、中部ネパールの南のタラーイ盆地にあり、誕生地はその郊外のルンビニー園だったといわれています。

 日本でふつう「お釈迦さま」とか「釈尊」といわれるのは、釈迦族出身の聖者という意味です。「釈迦牟尼(しゃかむに)」という場合の、「牟尼」が「聖者」に当たります。

 生後まもなく母のマヤ夫人が亡くなり、叔母に育てられました。

 若いころから、人生にはなぜ、病気や老いや死という苦しみがあるのだろうという深い疑問があって、王家の長男という恵まれた立場に安住していることできませんでした。

 しかし、王族の義務として跡継ぎの子をもうける必要がありますから、16歳で妃を迎え、ラーフラという男の子も生まれました。

 しかし、どうしても悩みを解決しないではいられなくなり、29歳で親も妻子も財産も立場もみんな捨てて修行者になりました。

 ふつうの家庭・社会の生活から出ていくという意味で「出家」といわれます。

 (それに対してふつうの家庭・社会生活をする人を「在家」といいますね。)

 そして、ほとんど死にそこなうところまでいろいろ苦行を重ねたり、あちらこちらいろいろな師を尋ね歩いたりしたのですが、いまひとつ満足できませんでした。

 最後にアーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタという二人の仙人について禅定を修行し、どちらからも後継者になることを期待されるほどの境地に達したにもかかわらず、自分ではそれでは納得できなかったといいます。

 そこで山林に籠って6年間、瘠せさらばえて肋骨が見えるくらいまで苦行に苦行を重ねたのですが、それでも自分で納得できる覚りを得られませんでした。

 こうした常識的な安定した生活に安住しないだけでなく、既存の宗教的な方法についても、ぎりぎりまで実践し師から認められるまでになっても、自分で納得できるまではどんなに苦しくても安住しないという姿勢が、「覚り」という大きな飛躍をもたらしたのだといっていいでしょう。


*写真は釈迦苦行像:神奈川新聞のWEB記事より


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智慧・覚りと慈悲

2005年12月07日 | 歴史教育
 さて、これから仏教の創始者であるゴータマ・ブッダのことをお話ししていきます。

 いろいろお話しする前に、まず最初にご紹介したいのは、次のようなブッダの言葉です。


 生きとし生けるもののすべてが安楽で、平穏で、幸福でありますように。いかなる生命、生物でも、動物であれ、植物であれ、長いものも、大きなものも、中くらいなものも、短いものも、微細なものも、少し大きなものも、また今ここにいて目に見えるものも、見えないものも、遠くにいるものも、近くにいるものも、すでに生まれたものも、これから生まれるものも、一切の生きとし生けるものが幸福でありますように。

                        (『スッタニパータ』「慈悲経」145~147)


 結論から先に言うと、仏教のエッセンスは智慧・覚りと慈悲にあると思います。

 そして、智慧・覚りは慈悲を生み出すものであり、慈悲は智慧・覚りに裏付けられたものである、という切っても切れない関係にあります。

 覚りといっても、それによって「生きとし生けるものすべてが安楽で、平穏で、幸福でありますように」という慈悲の想いが自然に湧いてくるのでなければ、ほんとうの覚りとはいえないでしょう。

 慈悲といっても、こだわりや無理のある、悪い意味での人間的な愛情・愛着では必ず問題が起こりますから、覚りに裏付けられていなければほんものになりません。

 前々回あげたようないろいろ多様にある「仏教」という文化・宗教現象は、つまるところ、慈悲と覚りにつながるかどうかで、どのくらい時代を超えた普遍的な価値があるかを量ることができる、と私は考えています。

 なるべくそこに焦点を絞って、話を進めていきたいと思います。


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仏教の6つの側面

2005年12月05日 | 歴史教育

 ここで、ちょっと復習を。

 人間は言葉を使って生きる動物です。

 言葉なしには文化的な生活はまったく成り立たないでしょう。

 言葉によって、世界とは何か、社会とは何か、私とは何か、だから何をすべきか、何をしてはいけないか、何をしていいかといったことをはっきりと分かっていないと、ちゃんと生きていくことができません。

 (ただしあまりにも当たり前になっていると、改めて言葉にしろと言われてもできにくいということがありますが。)

 そういう言葉によって語られる体系的な世界観・人生観・価値観のセットを「コスモロジー」というのでしたね。

 「コスモロジー」は、ギリシャ語の「コスモス(世界)」+「ロゴス(秩序・言葉)」から来ています。

 さて、仏教も一つのコスモロジーです。

 しかも、「仏教」と呼ばれる文化現象は、複合的なコスモロジーだと考えられます。

 前回あげた事項のうち、2番目のシリーズは、宗教学では「呪術」と呼ばれるようなものです。

 ですから、こうした仏教の営みは、「呪術的仏教」と呼ぶことができるでしょう。

 加持祈祷が中心になっていますから、「祈祷仏教」と呼ぶ学者もいます。

 1番目のシリーズの特に輪廻、地獄-極楽という話は、「神話」に分類されます。

 「仏教神話」あるいは「神話的仏教」です。

 実際の仏教の営みとしては、葬式や法事が中心ですから、「葬式仏教」と呼ばれることもあります。

 しかし、「葬式仏教」という言い方には、かなり否定的なニュアンスがありますので、私としてはむしろ「先祖・祖霊崇拝仏教」あるいは「供養仏教」と呼びたいと思います。

 これは日本人にとって、とても本質的で大切なものだ、と私は考えています。

 3番目のシリーズは、各宗派の唱える言葉で、こうした仏教を「宗派仏教」と呼んでおきましょう。

 4番目は、「文化的仏教」あるいは「仏教文化」あるいは「観光仏教」と呼べるでしょう。

 5番目は、「哲学的仏教」あるいは「仏教哲学」と呼ぶことができます。

 そして、私の理解では、仏教のもっとも核にあるものは、「覚り・智慧」と「慈悲」ですが、それを「霊性的仏教」と呼びたいと思います。

 日本の伝統的な仏教は、こうした6つの側面に、さらに神道と儒教と道教などが習合した、非常に複合的なコスモロジーだと考えられます。

 そして、かつての日本人の平均的な心理的発達のレベルが呪術と神話の段階にあったために、文化現象としての仏教の主な部分はほとんど呪術・祈祷仏教と神話・供養仏教のかたちで営まれてきました。

 その担い手が「宗派仏教」だったのです。

 しかし、近代になって、仏教の前近代性(呪術性、神話性)が否定されるようになり、その担い手である宗派仏教はしだいに力を失いつつあるようです。

 近代人にとって、いまだにそれなりに魅力があるのは、観光の対象であるような仏教文化と、教養の対象であり学べば理性的に納得できる仏教哲学・哲学的仏教でしょう。

 そして、「霊性的仏教」こそ仏教の核心である――と私は考えていますが――ことを、はっきりとつかんでいる人は、残念ながら必ずしも多くないように見えます。

 この授業では、哲学的仏教の考え方を学びながら、霊性的仏教こそ仏教の核心であること、しかしそこがしっかりと押さえられていれば、現代でも他の側面が意味を持ちうること、この2点について述べていきたいと考えています。

 まず、次回から、原点である釈尊、ゴータマ・ブッダの教えのポイントについてなるべくわかりやすくお話ししたいと思っています。


*写真は西教寺の阿弥陀如来



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I have a dream!

2005年11月29日 | 歴史教育

 今日も朝から大学の授業で、ゆっくり記事を書けません。

 もったいぶるわけではありませんが、人間は宇宙の傑作か失敗作かという問いへの私の解答例はもう少し待って下さい。

 授業は、前期でほんとうの自信とは何かとコスモロジーが終わり、後期、仏教の心理学・唯識の概説も終わったところです。

 今年は残念ながらついてこられなくなった学生もかなりいますが、それにしてもついてくる学生はちゃんとついてきています。

 今日は「無住処涅槃」という大乗仏教の目指す究極の境地の話をしました。

 かなり高度な内容なのですが、大半の学生がしーんと聴き入ってくれました。

 個人の人生の「目標」や「夢」ももちろんあったほうがいい。

 しかしそれを超える、社会をよくしたいという「理想」というのがある。

 そのためには自分の人生すべてを捧げてもいいという心を「志」という。

 さらにもっとすごいのが、生きとし生けるものすべてが幸せになるまでは、あえて果てしなく生まれ変わり死に変わって輪廻し続けるという境地=無住処涅槃という大乗のコンセプトです。

 そういうすごい話が大乗仏教にはあるんですね…と。

 こんな今時受けそうもない話に聴き入っている彼らの様子を見ていると、聖徳太子や聖武天皇や行基…などの努力が千数百年をへて、伝わり実るかもしれないと、期待を抱かせられます。

 「美しい日本」を創りたい若者はいる、いてほしいと思いながら、仕事を続けています。

*写真は鞍馬の紅葉

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人間は宇宙の最高傑作か失敗作か?

2005年11月24日 | 歴史教育

 ところで、「人間は宇宙が137億年かけて作り上げてきた作品だ」、そして少し先取りして「労作だ」とも言いました。

 しかしよく考えてみると、作品といっても傑作もあれば失敗作もあります。

 いったい人間はどちらなのでしょう?

 「傑作」とか「労作」というに値するのでしょうか?

 人類史のポイントをごく大まかに見てみましょう。
 
 (この年表は、セーガンのものに増補訂正を加えたものです。数値は宇宙150億年といわれていた時のものですが、大まかな感じはつかめると思います。)

 12月31日の詳細

11時59分16秒   農業の発明、奴隷制の発生
              
11時59分33秒   新石器文明、最初の都市、森林破壊の始まり
      
11時59分49秒   シュメル、エブラ、エジプトに最初の王朝、占星術発達
 
11時59分50秒   アルファベットの発明、アッカド帝国
         
11時59分51秒   バビロニアのハンムラビ法典、エジプトの中期帝国
   
11時59分52秒   青銅鋳造、ミケネ文化、トロヤ戦争、オルメカ文化〔大型彫刻を残したメキシコ             文化〕、羅針盤発明
               
11時59分53秒   鉄鋳造、アッシリア帝国、イスラエル王朝、カルタゴ創設

11時59分54秒   老子、孔子、ソクラテス、イザヤ、エレミヤ、ゴータマ・ブッダの登場
                          
11時59分55秒   ユークリッド幾何学、アルキメデスの物理学、プトレマイオスの天文学、ローマ             帝国、イエスの誕生、大乗仏教の興隆
    
11時59分57秒   インドでゼロと十進法、ローマ没落、イスラム帝国   
11時59分58秒   マヤ文明、中国の宋朝、ビザンツ帝国、モンゴル帝国、十字軍

11時59分59秒   ルネッサンス、ヨーロッパと明朝による探検航海、科学での実験の方法

現在すなわち新年   理性・人権思想・科学・技術・産業の発達、植民地化-地球化、世界大戦、             核兵器、環境破壊                    

 こうして見てみると、人間は、文明の始まった時にはすでに身分制、奴隷制をつくって、人が人を支配・抑圧・搾取するということを行なっていたようです。

 これは、どう考えても、あまりいいこととは言えないのではないでしょうか?

 そして長い間――たぶん5000年以上1万年くらい――そういうことを続けてきました。

 すべての人には生まれてきただけで人権があるという考えや民主主義が世界的な標準になったのはごく最近のことなのです。

 しかも、まだ世界中で完全に実現されてはいないのですね。

 一方では、人権のなかでも最低限であるはずの生理的な意味での生存権さえも十分保証されていない飢餓状態の人々が多数いる国々があり、もう一方では食べすぎてダイエットをしなければならない人のたくさんいる国々もあります。

 これでは、世界的な規模で平等・公平・公正が実現されているとはお世辞にもいえないではありませんか。

 また、古代の帝国の誕生はいうまでもなく戦争の結果です。

 残された文化遺産を見ると、確かに「輝かしい」と表現されるような面も確かにあるのですが、それらを作るための富の相当部分は戦争と搾取によって獲得されたもののようです。

 しかも、おそらくそれ以前の部族、氏族国家の頃から、人間は戦争をし続けてきたらしいのです。

 日本はここ50年あまり直接戦争に関わっていないので実感がないかもしれませんが、特に20世紀、人類はかつてない規模の世界戦争を2度も行なっています。

 そして、21世紀になっても、人類全体としては戦争を完全にやめることはできていません。

 それどころか、幸いにして広島と長崎以後は使われてはいませんが、いまや人類が何十回も絶滅・自殺できるほどの核兵器があるようです。

 もちろん、国際連盟、国際連合、その他、様々な世界平和の努力は行なわれてきています。

 幸いにして、今のところ、大規模な全面戦争は行なわれていません。

 しかし、「紛争」や「テロ」という名前の小規模の戦争は以前として収まらず、全面的な戦争の廃絶-恒久平和という人類の理想はなかなか実現するようには見えません。

 さらに、農業の発明以来、人間は様々な技術によって、自然をコントロールし、豊かな生活を作り上げてきましたし、その富を基礎にして様々な芸術・文化も創造してきました。

 しかし、古代文明は例外なくといっていいくらい、森林を滅ぼして自滅したようです。

 「文明の後には砂漠が残る」という言葉さえあるくらいです。

 特に近代文明は、2~300年の産業活動によって、自然を汚染し、自然資源を使いつくし、人類自身の生きる基盤を壊そうとしているのではないか、と私には見えます。

 人類の文明の繁栄は、どうも、自民族・自国民の搾取か、他民族・他国民の侵略・略奪か、さもなければ人間以外の自然の侵略・略奪・破壊によって築かれたという面があることは否定できないのではないでしょうか?

 こうして人類史をおおまかに見ただけでも、いったい人間は宇宙の傑作なのかそれとも失敗作なのかという疑問が浮かんできませんか?

 その答えは、当然、みなさんそれぞれが出すべきものですが、次回、最後に参考として筆者の解答例をお話しすることにしたいと思います。


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近代のプラス面

2005年08月31日 | 歴史教育

 「近代」または「近代化」は、西洋から始まったことです。

 これまでお話ししてきたとおり、日本は西洋に遅れて、明治維新の文明開化と敗戦によるアメリカ化の2段階を経て、いやおうなしに「近代化」してきた、あるいはさせられてきたわけです。

 半ば(あるいはそれ以上?)強制的だったという問題をいったん置くと、近代化にはもちろんたくさんのプラス面がありました。

 このプラス面のことばかりいっていれば、「進歩派」知識人と見なされて、進歩派のみなさんには受けがいいのですが……。

 しかし、これまでお話してきたとおり、近代的なコスモロジーには根本的な欠陥があります。

 さらにしかし、近代には非常に優れた面がたくさんあるわけで、私たちは驚くほどの質量で近代化の恩恵をこうむっています。

 そこをいわないと、公平を欠くことになりますし、そもそも先に進めないと思います。

 私のいいたいことは、「昔はよかった。昔へ帰ろう」ということではありません。

 伝統のいいところと近代のいいところのどちらも失うことなく、それぞれの悪いところは超えていく、という離れ業をなんとかやってみたいということです。

 さて、近代のどこが優れているのか、私の知るかぎりもっとも整理された論を展開しておられるのは、富永健一氏です(『日本の近代化と社会変動』、『近代化の理論』、『マックス・ウェーバーとアジアの近代化』〔いずれも講談社学術文庫〕)。

 富永氏の説を拝借して、まとめておきましょう(『近代化の理論』、特にp.35)。

 ①まず、技術的経済的領域の、特に技術面では、人力・畜力から機械力へという動力革命が行なわれました。それは、さらに情報革命にまで発展してきています。

 これは、労働が効率的になる、便利になるという意味では、圧倒的にプラスです。

 さらに富永氏は指摘しておられませんが、技術の中でも特に「医療技術」の発達を挙げておく必要があると思います。

 病気の克服は、人類の長年の夢だったのですから、これもまた近代のすばらしい成果です。

 経済では、第一次産業から第二次・第三次産業へと比重が移り、自給自足経済から市場的交換経済(資本主義)へと発展してきました。

 これは、産業化→社会の生産力の飛躍的な向上→貧困の克服という意味では、議論の余地なくプラスです。

 しかし、「貧困の克服」がなされているのは、先進国のみであり、また市場的交換経済=資本主義的生産様式がはたして有限の地球環境と調和するのかという点については、根本的に疑問がありますが、ここでは話の流れからややそれるので、置いておくことにしましょう(拙稿『自然成長型文明に向けて』参照)。

 ②政治的領域では、法が伝統法から近代法へと発展し、政治では、封建制が近代国民国家へ、専制主義が民主主義へと発展しました。おおまかにいえば、「市民革命」の成果です。

 個々人が多くの不合理な制約から自由になったという意味で、これもまた私たちが享受していて、決して後戻りできない、したくない、してはならない近代の大成果です。

 ③社会的領域では、社会集団は、家父長制家族から核家族へ、機能的未分化な集団から機能集団(組織)へと変化していきます。それと並行して、地域社会は村落共同体から近代都市へと「都市化」を遂げていきます。

 社会階層に関しては、身動きのつかない身分階層から自由・平等で努力しだいで移動が可能な社会階層になっていきます。

 抑圧的で硬直的な身分制から、自由・平等な社会になったことは、誰が考えてもすばらしい「進歩」です。私も、この点に関して、前近代の身分制がよかったとか、それに帰ろうなどとは夢にも考えていません。

 富永氏は、「核家族化」と「都市化」も含め、近代のほとんどを肯定しておられるようです(「私自身は近代主義者ですから、近代が終焉すべきであるとか、近代は超克されなければならないなどとは毛頭考えません。」前掲書p.468)。

 これも詳しく論じることはしませんが、私は、大家族から核家族へ、村落共同体から都市へという方向にも、単純に肯定できないものを感じています。

 しかし、私たちの多くが戦後、体験してきたとおり、大家族から核家族へ、村から都市へという流れを通じて、個人が多くのしがらみから解放されて、とても気楽に生きられるようになったという面があるのは確かです。

 ④文化的領域では、まず社会の主流の知識が神学的・形而上学的なものから実証主義的なものへと大変動を遂げます。「科学革命」と呼ばれるものです。

 それから価値に関する面では、「宗教改革」と「啓蒙主義」をとおして、非合理主義から合理主義へという、大きな変動・進歩がありました。

 もちろん、神学から実証主義へ、非合理主義から合理主義という変動は、ある面、大きな進歩・発展だったと思います。

 私は、トランスパーソナル心理学、仏教、宗教について論じることが多いので、しばしば印象だけで、実証主義から神学・伝統宗教へ、合理主義から非合理主義へという「反動的」なことを主張しているかのように誤解されることがあります。

 しかし、以上まとめた「近代化」の成果の主な部分に関して、私は大変な成果であり進歩であると考えています。

 そして、プラス面に関しては、「決して後戻りしてはならない、できない。それどころか、まだ不十分なところはさらに進めなければならない」と考えています。

 そういう意味で、近代を全面的に肯定する「近代主義者」ではありませんが、近代の成果は十分に評価しているつもりなのです。

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近代化の徹底とニヒリズム

2005年08月30日 | 歴史教育

 さて、ここからは江藤淳氏のいっていることではなく、私の推測です(といっても西谷啓治先生の『ニヒリズム』〔創元社版著作集第8巻所収〕などの示唆によるところが大きいのですが)。

 戦後、日本の教育界では、伝統的な神仏儒習合のコスモロジーと明治以後その上に乗っけられた天皇制ではなく、それに代えて、欧米、特にアメリカ的なコスモロジー、より具体的にいうと、「個人主義的な民主主義」と「物質科学主義的な合理主義」が教えられました。

 これは、明治以来のこととして考えると、「近代化」の徹底、しかも強制的に徹底させられた近代化といっていいでしょう。

 戦後日本の学校では、アメリカ-GHQの強烈な意志と強制的な指導の下で、そうした近代主義的な世界観があたかも唯一正しい世界観・人生観であるかのように教えられるという事態になりました。

 そこで起こったのは、結局のところ、「すべてのものは物質主義科学によって説明できる物質の組み合わせにすぎない」という結論に到るような知識と、「かつては家や国のために個人が犠牲にされてきたが、それは封建的で間違ったことで、個人の権利を尊重することこそ近代的であり大事なのだ」といった思想が、朝から晩まで、子どもの心に注入されるという事態だったのではないでしょうか。

 これは表のプログラムとしては、理性・科学や民主主義・ヒューマニズムを教えているのですが、その裏で、教える側も気づかないうちに、

 「人間も結局はただの物質であり、だから生きていることには結局意味がないし、人間を超えた神や仏や天などただの神話で、だから絶対的な善悪もない。そして、国や村や家などのために犠牲になるのは、バカげたことで、個人の権利こそ大事なのだ。だから、人間は自分を大事にして、自分の生きたいように生きるしかない。それは人間の権利なのだから」

というふうな人生観を教えた結果になっているのだと思われます。

 これはもちろんうまくいった場合、「人間は誰だって自分が大事だ。だから、人も大事にしなければならない」というヒューマニズムを教えることになるのです。

 しかし、人間を超えたより大きな何ものかの存在という絶対の根拠は考えられていません。

 ですから、ほんの少しずれると「人間は誰だって自分がいちばん大事なのだ。だから、余裕があるときは人も大事にするが、余裕がないときは大事にできなくてもしかたない」ということになります。

 さらにもう一歩進むと「人に迷惑をかけなければ、自分がやりたいことは何だってやっていい」という、小市民的なエゴイズムになってしまいます。

 さらに一歩誤ると「悪いことをしても、ばれなければいい」、さらに「悪いことをしてばれても、自分に力があって社会的な制裁を受けなければいい」というところまで行ってしまう危険を底に秘めています。

 もっと徹底すると、「生きていることには意味がない。だから、自分の好き勝手なことをして、死刑にされてもいい」というところまで行きます。

 恐るべきことに、もうすでに、心がそこまで荒廃した人間が現われていて、それを象徴する事件がいくつも起こっているのではないでしょうか。

 つまり、神も仏も存在せず、個々、ばらばらのモノがあるだけだという世界観は、理屈としてつきつめると必ず、「すべてには意味がない」、「善悪の絶対の基準はない」ということになります。これを「ニヒリズム」といいます。

 そして、人間の命もモノの寄せ集めにすぎないのですから、もちろん意味はないのですが、とりあえずなぜか生きていて、自分の気持ちのいい悪い、好き嫌い、快不快はありますから、それを追求して生きるしかないという考え方に到ります。それを、「快楽主義」といいます。

 しかし、そうしたところで、そういう考え方からすると、「死んだら元のばらばらのモノに帰って、すべて終わり」ですから、結局は意味がないのですが……。

 それを人生観としてつきつめると、うつ病になるか自殺するしかなくなります(実際、アンケートなどの調査から、うつや自殺願望の若者が驚くほど多いことがわかります。)

 しかし、たいていの人はなぜか生への執着はありますから、そこはつきつめないでごまかして、日々のいろいろな「気晴らし」で生きてくしかないということになるのです。

 近代主義(理性・科学や個人主義的な民主主義など)には、もちろん大きなプラス面があります(それについては次回述べていくつもりです)。

 しかし、近代主義的なコスモロジーを徹底すると、必然的にニヒリズム-エゴイズム-快楽主義に陥ってしまうという致命的なマイナス面があるのです。

(少し前まで若者に相当数の支持者がいたらしい宮台真治氏の主張などその典型的なものだと思います。私も寄稿している『宮台真治をぶっ飛ばせ』コスモス・ライブラリー、参照。)

(話を先取りしていっておくと、それは、人類が人類=ホモ・サピエンスとしての歩みを始めたときからずっと抱えていた〈分別知〉がもっとも発達したからこそ達したその限界だともいえるのですが。)

 欧米では、もっと早い時代に、近代的な理性・科学によってキリスト教の神話が批判され、もはやそのまま信じることはできないというふうになり、ニーチェという思想家の言葉でいうと「神の死」と「ニヒリズム」がやってきたわけです1) 2)

 そして、日本では開国-明治維新と敗戦という二段階のプロセスを経て、そういう欧米的な近代的な理性・科学が社会に浸透し、いまや「神仏儒習合」の世界観が決定的に崩壊しつつあって(いわば「神仏天の死」)、遅れて本格的なニヒリズムが社会を脅かしつつあるのではないでしょうか。

 現代日本の大人も子どもも陥っているように見える心の荒廃は、いちばん深いところでいうと、近代主義的なコスモロジーが必然的にもたらすニヒリズム-エゴイズム-快楽主義の問題なのだ、と私は捉えています。

 格言風にまとめてみましょう。「時代が病んでいるから、個々人も病む」と。

 したがって、個々人を癒すためには、時代(のコスモロジー)を癒す必要があるのです。

 「時代のコスモロジーを癒すなんてことができるのか?」という疑問が出てくるでしょう。

 できる、と私は考えています。そのことを示すのが、本講義全体の大きな目的の1つなのです。

 しかし、近代のコスモロジーの病を癒す、新しいコスモロジーを創造するというのは、大変な作業です。

 ブログ向きではないかもしれない、長い話にならざるをえませんが、時代と自分の心の病を癒したい方、ぜひ、根気よく付き合ってください。

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公教育と宗教の分離

2005年08月29日 | 歴史教育

 GHQの「情報操作」の第2は、きわめて体系的な「教育政策」です。

 最高司令官のマッカーサーは、1945年8月30日、厚木に到着すると、矢継ぎ早に占領政策を実施していきますが、その中の教育つまり精神性を変えるために行なった政策の中で重要なものを以下挙げます。

 45年には、10月22日、軍国主義的・超国家主義的教育の禁止の指令、30日、教育関係の軍国主義者・超国家主義者の追放指令、12月15日、国家と神道の分離の指令、31日、修身・日本歴史・地理の授業停止、教科書回収の指令などがあります。

 翌46年には、新年早々から天皇自身が天皇の神格化を否定した詔勅、いわゆる「天皇人間宣言」がなされます。

 そしてGHQの完全なコントロール下で憲法が制定され、11月3日、公布されます。

 ここで、現行の第9条を含むいわゆる「平和憲法」が護るべき価値のあるものかどうか、改正すべきかどうかという議論に立ち入るつもりはありません。

 話のポイントは、私たちの現行憲法がアメリカに決めさせられて決めたものだということは確実のようだ、というところにあります。

(といっても、しばしば質問されるので、あらかじめ答えておくと、私は、「現在の日本人の精神性は非常に低い水準にあるので、今改正しても、現行憲法以上にいいものが作れるとは思えないから、当分維持したほうがよい。しかし、かなり遠い将来、精神性の水準が高まって、よりよい憲法を作れるくらいになったら、その時には自主憲法を作り直すべきだ」という、時限的護憲-改憲論者です。)

 ここで指摘しておきたいのは、憲法全体がそうであるように、

 第19条「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」も、

 第20条「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。/何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。/国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」も、

日本人が自主的に決めたのではなく、決めさせられて決めたのだ、という点です。

 つまり、内容に価値があるかないかは別にして、この条文(憲法全体)の背後にはGHQ-アメリカの意図が潜んでいるということです。

 こういうと、進歩派の方はすぐに、「決めさせられたものだろうがどうだろうが、いいものはいいじゃないか」と反応されるでしょう。

 しかし、私は、「いいものだとしても、決めさせられたものですよね。そして、誰かが誰かに物事を強制的に決めさせる場合、何の意図もなく決めさせるということはありえないですよね」といいたいのです。

 バーンズ長官の声明からマッカーサーの一連の政策の流れまでを一貫したものとしてみていくと、その意図とは、表はもちろん「民主化」、裏は日本人の「精神的武装解除」だったと考えてまちがいないのではないでしょうか。

(このあたりまでの論旨は、主に江藤淳氏の『1946年憲法――その拘束 その他』、『忘れたことと忘れさせられたこと』〔文春文庫、現在品切れ〕の示唆によるものです。)

 さて、憲法の制定に引き続き47年3月31日、「教育基本法」と「学校教育法」が公布され、翌4月1日付けで施行されます。

 もちろん、依然としてGHQがうんといわなければ何も決められないという状況下で、アメリカの指導の下に決めたのです。

 さて、ここで決定的に重要なことは、「教育基本法」によって、公教育と、天皇制神道だけでなく日本の伝統的宗教全体(神仏儒習合のコスモロジー)が完全に分離されたことです。

 特にポイントは、第9条です。

 「第9条(宗教教育) 宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない。

 ②国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。」

 この条文のどこに問題があるのでしょう? 「何も問題はない。当然のことだ」と感じる方が多いのではないでしょうか。

 しかし、まさにその「当然のことだ」という感じられるところに問題があります。

 この第9条、特に②は、実際にはどう機能したでしょう? あるいは、GHQはどう機能させたかったのでしょう? 

 私は、仕事上も個人的にもたくさんの教師の方と知り合いですが、聞いてみると、公立の先生方はほとんど例外なく、「公立の学校では宗教を教えてはいけない」と捉えています。

 条文をよく読むと「特定の宗教のための宗教教育……を」となっているのであって、「宗教教育を」とはなっていませんが、公教育の現場では、「公立の学校では、宗教を教えていけない」のだというタブーとして機能してきた――今でも機能している――のです。

 「だから、何が問題だというんだ?」と思われるかもしれません。

 「公立の学校では、宗教を教えてはいけない」、だから「教えない」、子どもの側からいうと「教わらない」ということは、こういうことです。

 日本の子どもの非常に多数が、学校で宗教つまり日本の「神仏儒の精神性」に触れることを原則的に禁止され、できなくなってしまったのです。

 検閲-言論統制と教育基本法-公教育と宗教の分離によって、日本の子どもたちは、日本のコスモロジーを学ぶ機会を、家庭と地域を除いてすべて、みごとに剥奪されてしまいました。

 非常にたくさん聞き取りをしましたが、戦後、公教育を受けた人の中で、学校で「神さま、仏さまを敬おう。天地自然に感謝しよう。ご先祖さまを大切にしよう」といった話を聞かされた人は、ほとんどいません。

 逆にいうと、戦前の公立の学校では、「天皇陛下」の話だけではなく、「神さま・仏さま、天地自然、ご先祖さま」の話も、ちゃんとなされていたのです。

 ところが、戦後、マスコミと学校という社会的な権威のある情報源で否定されてしまうと、親たちの多くは自信をもって子どもに神仏儒習合の精神を語り伝えることができなくなってしまいました。

 「学校の先生は、そんなこといってないよ」と子どもにいわれてしまうと、黙ってしまう親が多かったのです。

 しかし親ではなく、その上、つまり祖父母の中には、「これはとても大事なことなんだ」と信じ続けていて、一所懸命、孫に「神さま・仏さま、天地自然、ご先祖さま」のことを伝えようとした方も相当数いたようです。

 とはいえ、社会の大勢は、恐ろしいほどの勢いで、マスコミ、学校、家庭のすべてにおいて、「神仏儒習合」のコスモロジーを見失う方向へ向っていったといってまちがいないでしょう。

 こうして、日本人の「精神的武装解除」=伝統的精神性の剥奪=大和魂の骨抜きはみごとに成功したのです。

 さて、ここでもう一度。私は、右翼ではありません。最後まで、話を聞いていただけるとうれしいです。<
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アメリカの言論統制について

2005年08月26日 | 歴史教育

 GHQ=アメリカ占領軍司令部の行なった「情報操作」の第1は「言論統制」です。

 私たち戦後世代以降は、終戦後、アメリカは日本に「自由」(「言論の自由」を含む「民主主義」)をもたらしてくれた(だから、負けてよかったんだ。だから、「敗戦」とマイナスに思う必要はなく、「終戦」とプラスに捉えればいいんだ)、というふうなイメージを与えられていると思います。

 私自身、小学校低学年つまり戦後間もなく、学校の先生が実にうれしそうな顔をして、「きみたち、いい時代になったんだよ。人に迷惑さえかけなければ、自分の好きなように生きていいんだよ」というのを聞かされた覚えがあります。

 が、歴史的事実としては、GHQはまず約三年半にわたって徹底的な言論統制・検閲を行なったのだそうです(前掲、江藤淳『閉ざされた言語空間――占領軍の検閲と戦後日本』文春文庫、参照)。

 それは、検閲を行なっているという事実そのものも知らせないという、歴史に類のない検閲だったといいます。

 例えば戦前の日本では、検閲された文書には、検閲されたことが明らかにわかる××、○○などの「伏せ字」があって、そこに何が書いてあったかわかる人には十分わかるような検閲でした。

 ところが占領軍の検閲は、検閲した跡が残らないように完全に修正したものしか発表、出版させないし、検閲されていることは報道させない。その結果一般の人は検閲されているとは思わない、という徹底したものでした。

 さらにその結果現在にいたるまで、一般の人(私もそうでした)は、「アメリカは日本に言論の自由を与えてくれた」と思っており、「一定期間、徹底的に検閲・言論統制された」とは、夢にも思っていないのです。

 しかし事実は、検閲を通して、大東亜戦争に関する自己弁護はいうまでもなく、戦前の伝統的な価値観つまり日本の伝統的なコスモロジーを評価・肯定するような発言も、完全に抑圧されたのです。

 絶えず検閲されていると、どういうことを書くと出せなくなり、どう書いておけば出せるかが飲み込めてきます。

 検閲され没にされてしまうと、大変な時間と費用の損失になりますから、そうならないよう絶えずあらかじめ自己チェックするところまでいくと、やがて、それは無意識の条件づけになってしまいます。

 そして、そういう統制の原理はやがて言論人にとって無意識のタブーになり、あたかも最初から自分もそう考えていたかのような気にさせられたのだ、と江藤氏はいっています

 そして少しでも伝統的な価値観を再評価するような主張を見ると、すぐに「右傾化の危険がある」と、始めから自分の考えであるかのように反応するようになった、というのです。

 こういう無意識的反応は、今でも進歩的知識人のほとんどに見られ、私の最近の主張など、一言いい始めても最後まで聞いてもらえず、即座に「それは危ないぞ」と反応されたりします。

 アメリカのマインド・コントロール、条件づけの永続的な効果たるや恐るべきものです。60年経っても効いているんですからね。

 そして心理学的に見たマインド・コントロールの特徴は、「マインド・コントロールされている人は、自分ではされていると思っていない。自分でそう考えているのだと思い込んでいる」ということですが、少し前までの私も含め日本人は、60年もアメリカのマインド・コントロール下にあることを自覚していないのです。

 このようにして、コスモロジー学習のために決定的に必要な情報源の1つ・報道機関から、日本のコスモロジーはみごとに剥奪されました。

 付け加えておくと、この言論操作がみごとなのは、3年半やればアメリカの望む世論を形成するに必要な程度の質量の言論関係者が条件づけられるので、後は「自由」にしても、彼らの間ではアメリカが教え込んだ枠の範囲内で「自主規制」が作動していくことまで見抜いていたらしい、という点です。

 そうなれば、大勢に影響のない範囲で、完全な「言論の自由」があるかのように、戦前的・極右的発言も極左的発言も放置しておいてもかまわなくなるわけです。

 もう一度。アメリカのマインド・コントロールの意図と効果は実に恐るべきものです。
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崩壊の3つまたは4つの段階 2 アメリカの占領政策 1-1

2005年08月23日 | 歴史教育

 60年前、日本は大きな戦争(立場によって大東亜戦争とも太平洋戦争とも呼ばれる)に負けました。

 どこに負けたのでしょう? こう聞いて、すぐに「連合国」、特に「アメリカ」と答える学生はほとんどいません。

 そもそも8月15日を「終戦記念日」と捉えること自体、ほんとうはおかしいと私は思っています。はっきり「敗戦記念日」と自覚すべきでしょう。

 敗戦によって、日本の精神状況は根本的に変わりました。より正確にいうと、変えられて変わりました。

 日本は軍事力、技術力、経済力、そして精神力のすべてをあげて「総力戦」を戦い、そして負けたわけですが、どこに負けたかというと、連合国、特にアメリカに負けたのです。

 そして、その結果、アメリカに精神性をも変えられたのです。

 以下述べることのかなりの部分は、先年なくなられた文芸評論家江藤淳氏の『忘れたことと忘れさせられたこと』、『閉ざされた言語空間――占領軍の検閲と戦後日本』、『一九四六年憲法――その拘束 その他』(いずれも現在文春文庫、ただし品切中)の受け売りです。

 私は60年代末の学生運動・全共闘運動には参加しませんでしたが、しかしかつてはどちらかというと心情的には左寄りのいわば良識的な進歩的知識人の端くれで、要するによく知りもしないのに、江藤淳は右翼で危険な思想家だという偏見を持っていて、十五年前くらいまでずっと読もうともしませんでした。我ながら偏見というのはこわいものです。

 ところが十五年前くらいから、「日本人の心を支えていたものは神仏儒習合の精神性だったのではないか」と思うようになり、それにつれて、「どうして日本人はそれを忘れたのだろう」という疑問が湧いてきて、ふと江藤氏の本にはそういうことが書いてあるのではないかと思って読む気になったのです。

 で、読んでみると、そういうことのすべてではなく、一部ですが、決定的に重要な一部がみごとに書いてありました。

 江藤氏によれば、戦争終結前後、アメリカは国務長官-大統領レベルの占領政策としてはっきりと「日本人の精神的武装解除をしなければならない」と考えており、いわば日本人の「大和魂」を骨抜きにして、二度と戦争をしない(つまり特にアメリカに逆らわない)国にすることを明確な意識的目標として占領後の政策を行なっているのです。

 以下は、江藤淳『忘れたことと忘れさせられたこと』文春文庫、54~55頁の引用です。

 すぐに「右」とか「危険」とか反応しないで、事実が語られているかどうかという目で読んでみてください。

 九月四日付の「朝日新聞」に掲載されたワシントン二日発同盟の電報は、米国務長官バーンズの次のような声明を伝えている。

 《日本の物的武装解除は目下進捗中であり、われわれはやがて日本の海陸空三軍の払拭と軍事資材、施設の破壊と戦争産業の除去乃至破壊とにより日本の戦争能力を完全に撃滅することができるだろう。国民に戦争ではなく平和を希望させようとする第二段階の日本国民の「精神的武装解除」はある点で物的武装解除よりいっそう困難である。
 精神的武装解除は銃剣の行使や命令の通達によつて行はれるものではなく、過去において真理を閉ざしてゐた圧迫的な法律や政策の如き一切の障碍を除去して日本に民主主義の自由な発達を養成することにある。(中略)聯合国はかくして出現した日本政府が世界の平和と安全に貢献するか否かを認定する裁判官の役目をつとめるのだ。われわれは言葉ではなく実際の行動によつてこの日本本政府を判断するのだ》

 バーンズに「精神的武装解除」を主張させたのは、第一に報復への恐怖であり、第二に占領によって接触を開始した異文化への薄気味悪さであったにちがいない。異文化とは、異った価値基準を内包した文化にほかならないが、トルーマン、バーンズをはじめとする当時のアメリカの指導者たちは、この異文化を自らの文化に等質化し、異った価値基準を破壊して同一の価値基準を強制しない限り、報復の危険は去らないと考えたのである。サー・ジョージ・サンソムが、名著『西欧世界と日本』のなかで指摘している通り、このように「強力な政治的圧迫と高度に組織化された宣伝」とによって、一つの文化が「意図的」に、他の異文化に影響力を強制しようとしたのは、史上ほとんどその前例を見ることができない。
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