詩客エッセー 短歌・俳句

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「わかる」から探る詩観 ‐ 久真八志

2017-01-11 00:00:00 | 日記
「わかる」から探る詩観 - 目次

1 序文
2 方法
 2.1 計量テキスト分析
 2.2 対象データ
3 コードの選定
 3.1 コードについて
 3.2 方針
 3.3 探索
 3.4 コードの決定
4 コードによる集計の結果 
 4.1 コードの全出現率
 4.2 ジャンルごとのコード出現率と比較
5 コード間の共起ネットワーク
 5.1 短歌評
 5.2 自由詩評
 5.3 俳句評
6 ポジティブな評価に用いる語はなぜ違うのか
 6.1 集計結果
 6.2 自由詩評
 6.3 俳句評 
 6.4 短歌評
7 結語
8 引用一覧




1 序文
この文章は詩がどのように評価されるかを明らかにしようとするものである。「詩」と言うと広義には情感のあるフレーズなどを含むが、本論では文芸の一分野としての詩に焦点を当てる。またその中でも自由詩、短歌、俳句を対象とする。俳句および短歌を「短詩」「詩歌」「定型詩」と呼ぶことは一般になじみ深いものであるから、本分析では詩の一ジャンルとして扱い、自由詩と並列のものと捉える。なお混同を避けるため以後は「詩」と「自由詩」とで呼び分ける。

詩として発表された作品の価値を定め、また文章の形で発表する活動は活発に行われてきた。定めた価値が個人的な経験や信念に依らないということを示すためには、論証が必要であり、それが批評である。しかし利用できる論拠や論証の作法は、ジャンルによって違っているかもしれない。本論はそのことを示し、三つのジャンルそれぞれで高評価を受ける作品の傾向が異なることを示す。

2 方法
2.1 計量テキスト分析

本分析では計量テキスト分析の手法を採用する。計量テキスト分析はテキストデータを数量として計測可能なかたちに変換し、集計や統計手法に基づく分析に利用する方法である。社会学分野で発展した手法であり、大量のデータから傾向をすばやく把握しやすい。本論では短歌・俳句・自由詩の評に用いられることばを頻度や結びつきの強さによって整理し、詩はどのように語られるか、詩の下位ジャンルとしての短歌・俳句・自由詩はどのように語られ、それらが詩としてどのように語られやすいかを明らかにすることを目指す。さらに、そうして得られた結果を生み出す背景を考察していく。

・ツール
テキスト分析のツールとしてKH coder(Ver.2.beta.32c)を使用する。KH coderは日本語で書かれた文章を形態素に分解し、各語の出現頻度や共起(複数の単語がある範囲内に同時に出現しているか)の頻度を集計し、また様々な統計処理を実行することが可能なソフトウェアである。形態素解析エンジンとしてはMecab(Ver.0.98)を使用する。統計処理にはKHcoderの機能を利用するが、一部の仮説検定にはR(Ver.3.0.2)を使用する。

2.2 対象データ
サンプルとして「詩客」(http://shiika.sakura.ne.jp/)の時評記事を選択した。詩客とは三詩型交流企画「詩歌梁山泊」が運営するWebサイトで、短歌・俳句・自由詩それぞれのジャンルに振り分けられた時評が定期的に掲載されている。対象とした期間は2011年4月29日の時評コーナー開始時点から、2015年12月31日までにサイト内および時評ブログに掲載された記事である。内訳を以下に示す。

表1 対象データの概要


*複数ジャンルにまたがって記事を書いている執筆者がいるため、重複分は省いて合計を算出


対象データの選定理由を述べる。第一に俳句と短歌と自由詩という三つのジャンルの評が、おおむね等量のデータとして収録されていることである。これら三つのジャンルは、日本国内における特に活発な詩のジャンルであると見なせるため、本分析の結果は日本国内の詩に関する主要な語り口を明らかにするはずである。ただし川柳など他のジャンルは含まれていない。第二に対象データはいずれも2011年以降から今日現在までの狭い年代で、同じ時代背景のもとに書かれている。同時期に書かれたデータを使用することで、社会状況の違いが与える影響を小さくすることができるだろう。また年代がごく最近であることから、現在の最新の詩観を探ることができると考える。

最も大きな選定理由は、これら三つのジャンルは詩に含まれるという前提で各評が書かれているとみられる点にある。短歌と俳句を自由詩を含む詩一般からは独立した文芸の分野であると見なすこともある。しかし詩客は「三詩型交流」というコンセプトのもとに各ジャンル評を執筆者に依頼する形であるため、執筆者は評の対象となるジャンルを語りながら同時に全体集合としての詩について語るという前提を持ちやすいはずである。つまり各ジャンルの特性を見極めつつ一方でそれらを包括した枠組みとしての詩を意識すると推測される。

「ポエジー」「詩情」「詩歌」「短詩」など、言及対称を詩と見なして使用する単語の出現した記事を集計した結果、ジャンル間に出現率に差はみられなかった(表2)。また「短歌」「歌集」「歌人」など短歌について、および「俳句」「句集」「俳人」など俳句について言及するときのみ用いられるキーワードを集計すると、それぞれのジャンルで出現率が高い点は当然であるが、他ジャンルでも14%~38%と一定数の出現が見られた。

表2



ただし評の執筆者のほとんどは短歌、自由詩、俳句のいずれかの実作者である。したがって作品をいたずらに解剖するような読解を避ける場合や、厳密な論証を試みるよりは鑑賞文やエッセイに近いスタンスで書く場合もあると予想される。語の選択が執筆者の立場に影響される可能性も考慮してデータを解釈する必要があるだろう。
なお、評文中で段落を分けて引用されている自由詩・短歌・俳句作品本体は全て削除したうえで分析を行う。これはあくまで評文を分析するためである。また本論では以後、各評の執筆者は全て「評者」と、本論の執筆者を「筆者」という表記で統一する。

3 コードの選定
3.1 コードについて 

Khcoderでは特定の単語やその組合せを抽出するための条件を設定することができる。例えば前項では「短歌、歌集、歌人のいずれかの単語が出現する」というルールのもとに、該当する記事を集計した。このような集計のためのルールのまとまりを以後コードと呼ぶ。コード作成のための条件を細かく設定することで、特定の単語だけでなく、複数の単語が共に出現する文章を集計することができる。

3.2 方針
本分析で筆者は「わかる」 (わかる、分かる、判る、解る)をキーワードとすることとした。「わかる」 が用いられるとき、作品に対する評者の解釈や判断が示されているとみられるからだ。理由は後述するが作者に関する「わかる」 でも、同様に作品の解釈や評価に深く関わる。よって「わかる」 とともに出現する特徴的な単語を調べれば、詩や小分類としての自由詩・俳句・短歌のそれぞれがどのようなものであると考えられているかを知る手がかりとなるだろう。

また「わかる」 が使用される段落のうち、約八割が「短歌、歌、俳句、句、詩」などの作品を表す言葉、「詩人、歌人、俳人、作家、作者」など作者を表す言葉、「書く、作る、詠む」など制作行為を表す言葉と同じ段落で共起していた(表3)。この結果から「わかる」という言葉が用いられる場合そのほとんどは作品に関連する文脈で使用されていると判断し、次の段階に進む。

表3



3.3 探索
コードに用いる単語を探すため「わかる」 と共起しやすい単語を調べた。表4は各ジャンル評において同段落内で「わかる」とともに共起した単語をJaccard係数順に上位20位まで示したものである。Jaccard係数とは、二つの単語の共に出現したケース数を、二つの単語のどちらかが出現したケース数で除した値であり、数値が高いほど二つの単語の出現パターンは似通っている。

表4 「わかる」と共起しやすい単語



「わかる」がどのような文脈で語られているかを調べるために、評中で近い意味で用いられる単語を一つのまとまりとしてコード化し、抽象概念として扱うこととした。
例えば「詩人」「俳人」「歌人」などは特定のジャンルでのみ出現しやすい単語だが、これらは「作者」という概念にまとめることができる。同様に「書く」は一般に作品の制作について述べていることが多いと予想し、「作る」や「詠む」など上位に入らない単語であっても等価なものとしてコードに含めることとする。
一方で「少し」「入れる」「述べる」など様々な文脈で使われる単語は、各コード間の関連性を解析する上で結果を誤認させる可能性があるためコードには用いないこととした。また固有名詞は除外した。

3.4 コードの決定
表5 コードと分類ルール


※クリックして画像を表示


それぞれのコードを作成した意図について説明する。まず肯定の形である[わかる]と否定の形である[わからない]を分離した。両方を合わせたものを[わかる(全て)]としてまとめた。
[わかる][わからない]は、それぞれポジティブな評価(P)とネガティブな評価(N)を示す単語群との共起を調べるため、[わかるP][わかるN][わからないP][わからないN]の4種類のコードを更に作成した。

ポジティブな評価を示す言葉の代表的な単語は「「美しい」「楽しい」「好き」などである。これらの言葉と、例えば「わかる」がともに出現しているということは、評者は何かについて「わかる」としつつ、そのことを含めポジティブな評価を提示している可能性が高い。[わかるN]で用いるネガティブな評価を示す単語は、「不要」や「つまらない」などである。

[わからないP]でキーワードとする単語には、[わかるP]で使用したものに加えて「奇妙」「謎」「不思議」などを加えた。これらの単語は容易に言語化できない状態を、作品の性質として言い定めるために用いられるためである。また「わからなくてもいい」という表現も含めた。[わからないN]には「不足」や「未完成」など作品として十分でないという判断を示す言葉や、「混乱」「難解」「違和感」などうまく読解できないことを否定的に扱うときに現れる単語を含めた。

[評価]は「評価」「基準」「価値」といった単語と、[わかる(全て)]のコードが同時に出現した段落を抽出するためのコードである。[評価]というコードが与えられた文章は、「わかる」ことが作品の評価にどう結び付くかを述べたり、あるいは評価の結果や基準そのものが「わかる」として提示していると期待できる。

続いて[読者]のコードを作成した。文中で「わかる/わからない」という判断を示すのは評者であるが、日本語の文章で主語が明確に示されることは多くない。評者が「読者」に言及しつつ「わかる」を用いる場合の多くは、理解のプロセスが読者にも当てはまると信じているだろう。[読解]は読者が作品を読み、能動的に理解を試みる一連の行為を指す。後述の[伝わる]が情報の受け渡しを指すのに対し、[読解]では読者の能動性に焦点があたっている。

[作者]も重要な概念である。作品について言及するとき作者について何かを述べることは少なくない。[制作]は作者が作品を作る行為を指す。「作る」はどのジャンルでも多く使用され、「書く」は自由詩評に、「詠う」「詠む」は短歌でよく用いられることが集計の結果判明している。

何かがわかる/わからないといったときの、何かに当たる内容を分類したのが[意味][文脈][いつ][どこ][だれ]である。[意味]は「わかる」との共起が強い代表的な単語であるため一つのコードとした。ただし抽象度の高い概念を表す単語であるため「意味がわかる/わからない」といった表現を拾い出すだけでは、具体的に何を認知している/いないのかについては知ることができない。したがって[意味]については、他のコードとの共起も見ながら、その指示内容を推定することが重要となるだろう。[文脈]は「意味」に近いニュアンスを含むが、作品内外の複数の要素のつながりを示す点で区別するものである。[いつ][どこ][だれ]は、作品の指示内容を具体的な類型に落とし込んだものである。時制を表現する言葉、場所を表現する言葉、人物を表現する言葉をそれぞれまとめている。

次の[心情][感情]は、いずれも人間の精神的な活動や状態を表現する概念である。両者の違いは、[心情]が「思い」や「気持ち」など思索を含んだ心の状態を示すのに対し、[感情]は何らかの事象への反応として表れたものであるという点である。これらは[だれ][作者][読者]など人を表すコードとの関連が予想される。

音声に言及するケースも多々見られるため。次の二つを定義する。[発声]は「声」や「語る」などの単語をまとめた。これらが登場するケースは、声そのものへの言及か、テキストを何者かの語りとして作品を享受する場合である。[音律]とは「リズム」「調べ」「響き」など、音の組み合わせや音そのものの性質を表す言葉が該当する。

[技法]は「比喩」などレトリックを示す言葉や、「仕掛け」「構成」など作品に対して行われた操作全般を表すキーワードをまとめたものである。従って作者との関連で用いられることが多くなると予想できる。

作者に関連して制作背景を述べるときに使われる概念を[態度][主義]の二つのコードにまとめた。[態度]は「意図」「作意」など作品の制作にあたっての作者の内心を慮るときに使われる言葉を集めた。前述の[心情]が人物一般に当てはまる可能性があるのと異なり、[態度]は作者に限定して用いられる。[主義]は思想的立場に関するキーワードであり、[態度]の源流にあるものである。

[学ぶ]は「勉強」など学ぶことを意味するキーワードをまとめたものである。「学ぶ」が使われると言うことは、学ぶべき知識の体系が存在するということだ。したがって「初心者」「不見識」などの単語も含めている。[季語]は俳句形式を構成する重要な要素であり、俳句評において「わかる」との共起が最も強かった単語である。[定型]は俳句および短歌評において、音数の型を指すために使用される。

[理論的][直感的]は読者が作品から何かを受け取るときの過程について説明するために用いられる概念である。[理論的]は「理路」や「理屈」など、読者が解釈を組み立てていく道筋を表すために用いられる。したがってこのコードは「読解」と関連しやすいだろう。一方で[直感的]は、読者が読解を経ずに何らかの情報を作品から受け取ったか、読解にほとんど時間を要さなかったケースを抽出する。「直接」「ダイレクト」などは「伝わる」とともに用いられ、また「直感的に」「一読で」は「わかる」とともに用いられる。

[伝わる][伝わらない]は、作者から読者への作品を介した情報の伝達が行われたことを想定したときに用いられる単語を、二つに分けてまとめたものである。これらのコードはいずれも「何かが伝わる」ことを提示するものであり、[読解]で説明したような読者の能動性や[態度]で述べたような作者側の事情には関係ない。[伝わる]は「共有」など伝達によってなされる読者と作者間の連絡や、「受け取る」「手渡す」など伝達そのものを言い換えたものが該当する。[伝わらない]は「断絶」「隔絶」など伝達の失敗そのものを示す単語に加え、「読者層」など伝達の範囲が限定されるという想定のもとに使用する言葉を含めた。

[現実]は「リアリティ」など現実の再現度で作品を見ようとする視点に立った言葉、あるいは「体験」「経験」など実体験に基づく何らかの根拠を求める姿勢があるときに使われる言葉、「実態」「実像」など見せかけのものに対置して真なる状態があると考えるときに使用する言葉をまとめている。[虚構]は「フィクション」「架空」など、現実ではない状態を仮定して使用する言葉をまとめたコードである。

[感じる]は「感じる」の他、「感じ」「感」で構成される。使用にあたっては次の二つの前提がある。一つはその感覚自体や、感覚を生じさせたなんらかの情報に対して詳細な理解を保留し続けられること。二つ目は、説明はできないが感覚は確かに存在するという点を主張できることである。

4 コードによる集計の結果 
4.1 コードの全出現率

表6に各コードの出現段落数と、[わかる(全て)]が出現した段落数に対する比率を示した。
まず、肯定の形である「わかる」、否定の形である「わからない」の出現率はほぼ等しいことが判る。
評価に関する4つのコードでは[わかるP]が最も多く、[わかるN]はごく少数しか出現していない。[わからないP]は[わかるP]とほぼ同数出現しており、[わからないN]はそれよりも少ない。以上をまとめると、「わかる」という単語は、ネガティブな評価よりもポジティブな評価を示す単語と共に多く用いられると判明した(P属2コードの合計とN属2コードの合計との比較:カイ二乗値=39.8,p<0.01) 

表6 コードの出現段落数および比率(全体)



4.2 ジャンルごとのコード出現率と比較
各ジャンルにおけるコード出現率を表7に示した。またジャンルごとに出現率に違いがあるかを調べるために、カイ二乗検定またはフィッシャーの正確性検定を用いて判断した。フィッシャーの正確性検定は、カイ二乗検定における観測値または期待値が5以下になる場合に用いている。

表7 各コードの出現数(段落ごと)



[わかる(全て)][わからない][わかる]のいずれも、出現率に差があった。いずれも俳句で出現率が最も低い。一方で、短歌と自由詩では[わからない]と[わかる]の出現率の順位が逆転している。肯定形の[わかる]が最も高確率で登場するのは短歌評であり、否定形[わからない]がよく登場するのは自由詩評であった。

二つのコードのPとNそれぞれの内訳を見ると、自由詩評では[わかるP]の出現率が短歌に比べて高く、逆に[わからないN]の出現率が低い。短歌評と俳句評では4つのコードの出現率が似通っており、自由詩評に比べて[わかるP]と[わからないP]の出現率が低く、[わからないN]の出現率が高い。

俳句評で出現率が高かった(p<0.05)、あるいは高い傾向があった(p<0.10)のは[学ぶ][季語][定型]であった。また[読解][どこ][だれ][心情][技法][直感的]は他の詩評に比べて低かった。自由詩評では[制作][意味][文脈][だれ][発声][音律][現実][感じる]のコードが高く出現していた。短歌評では[作者][感情][虚構]の出現率が高く、[伝わらない]の出現率が低いことが判った。以上の結果が生じる背景については次章で分析する。

5 コード間の共起ネットワーク
文脈は、さまざまなキーワードが関連し合うことで形成される。前項では「わかる」とともに言及されやすいテーマがジャンルごとに異なることを示した。ここからはジャンル別に各コード間の関わりの強弱を調べることで、「わかる」がどのような文脈で語られるかを分析する。

5.1 短歌評
図8 短歌評における各コードの共起ネットワーク


図8は短歌評における各コードの共起ネットワークを示したものである。共起ネットワークとは、同時に出現しやすいコード間を線で結び図示したものである。結びつきの強さはコード同士のJaccard係数を指標とし、値の高い上位40本の共起関係のみを示している。よって出現率の低いコードや、他のコードと結びつきの弱いコードは表示されない。太線で示したのは最小スパニングツリーで、全体のネットワークをもっとも少ない線で説明するものであり、もっとも基本的なつながりを表す。また、各コードを表す円の色が濃いほど中心性(媒介)の度合いが強い。中心性は他のコードとのつながりの多さと、さらに隣接するコードが他のコードと多くつながる場合に強くなる。つまり様々なテーマと関連しやすい、中心的なコードを示す。

ここからはコード間のネットワークを説明できるような短歌評の語り口のモデルを検討していく。そのために、図5に示される複数のコードに該当する文章を用例として引用し、どのような文脈で単語が用いられるかを分析する。

(短歌評ア)2014年の短歌研究10月号「虚構の議論へ」で加藤は一通り読解をした上で、「祖父の死を父の死に置き換える有効性はあるのか、ありのまま祖父として歌う以上の何かが得られたのか。虚構の動機がわからないのである」とし【後略】


ここで評者は制作の動機が示されるべきだと考えているようだ。 短歌において中心的なコードは[態度]と[制作]の二つであった。短歌で『わかる』という表現が使われる場合、作者の態度について言及されるケースが多いといえるだろう。また[態度][制作]と関連が強い[感情][心情]も、作者の心の動きへの言及とみられる。作者の[感情][心情]が、作者の動機つまり[態度]となって[制作]につながるというストーリーに沿って作品が語られる。短歌評で[感情][心情]の出現頻度が高かった理由も、このように展開される評が多くあるためではないか。

ところで、短歌評では作者と「作中主体」なるものを分離する発想がしばしば見られる。「作中主体」とは、一首を発する人物(主体)と、現実の作者とを分離するために用いられる概念である。短歌評では、作品に読み取った感情や心情を、作者の性別・年齢・社会的地位など作品外の情報を根拠として掘り下げていく読み方が見られる。そのような読解の姿勢を良しとしない評者はあえて「作中主体」という言葉を用いる。短歌評では一首を現実に生活を営む作者と重ねて読むスタイルと、分離して読もうとするスタイルの双方が混在しているのだ。

(短歌評イ)歌を吟味してみると、かなり早い段階から技術的にはほぼ十全となり、人生が定まっていく後半から歌に面白みが増すのがわかる。北村太郎を読む読書家で、中東の兵士・民兵に思いを馳せていた若者が、サラリーマンとなり日々苦闘するなかで、酒を覚え、『東海道中膝栗毛』なぞを読むようになり、結婚もし、自身の出身地である群馬への思いを新たにする。【中略】現在的な第一歌集は、若々しさの裏側で、ベクトルとして自閉的というか、「相聞」に拘泥しすぎたりなどと視野が狭いところがあるものだが、本歌集にはそれがない。器の大きさや健やかさを感じさせて、たいへん良いと思う。


作品を作者と重ねて読む用例である。編年体で編まれた歌集の内容から、評者はほぼそのまま作者の人生の道のりを思い浮かべている。歌集の評価のポイントは、「器の大きさや健やかさ」という作者の精神のありかたを感じさせた点にあるようだ。

(短歌評ウ)この歌集から見えてくるのは、一首単位で読んでいたときに見える、時代に翻弄されているどこか頼りない作中主体とは対照的な、「この文体を選択し、『何でもない日常の一コマ』と言われてしまうような場面を歌にし、歌集一冊を貫く強さを持った作者の姿」だ。


作中主体と作者を対置する例である。評者は、歌集を編むにあたって制作方針を貫いた作者の心意気に感銘を受けたようだ。
(イ)(ウ)の用例から、作者の人物像を明瞭に想像できた作品を、評者はよりポジティブに評価するという短歌評のモデルが得られる。作品をそのまま作者の暮らしの忠実な再現とみる場合はもちろん、作中主体を置く場合でも、結果的には作者がどのような人物か思い浮かべられることを重要視する。なお作中主体を利用するケースについては、[虚構]コードとの関連性からも説明できる。[虚構]コードは[態度]と[現実]と関連が強く、そして[現実]を介して[制作]とも関連が深い。(ア)でも「虚構の動機」という表現があった。自分とは異なる主体を作り上げ作品を世に問うた作者の思惑を根拠に、作者の内面を推しはかろうとしているのである。

以上の背景から、短歌評で[わかるP]が[感情][心情]や[態度]と強い共起を持つ理由、[わかる][作者][虚構]コードが他ジャンル評より多く出現しする理由も説明できるだろう。一方の[わからないN]はどのようなときに用いられるか。

(短歌評エ)ヨーグルトさえ執心を持つに至っては、ヨーグルトにさえ執心を持つのか、そのまま字義通りヨーグルトさえも執心を持つのかがわからないし、これは栗木京子の「ふたの裏についたヨーグルトさえスプーンで掬って舐めるぐらい執着心のある自分なのに、父の御棺には縋ることさえできなかった」という丁寧な読解を読むまでは、何を歌っているのかさえわからなかった


一文に「わからない」が二回登場している。一つ目の「わからない」は主語のことを指す。執心を持つ主体として、ある人物とヨーグルトどちらの可能性も残るのが、作品の読解において致命的だと評者は主張している。評者は執心を持つ一人の人物を構築するために、ヨーグルトが主体である可能性は排除したいようだ。二つ目の「わからない」は、主語の不明瞭さも相まって文意そのものが把握できないことを指す。「さえ」という言葉が示すように、読解に支障をきたすレベルであると評者は判断しているようだ。

このように、[伝わる][だれ][読者]などのコードが[わからないN]に関係が深い理由は、人物像をはっきりと思い浮かべるために必要な情報が、評者を含む読者に伝わっていないと判断されるとき、ネガティブな評価につながるためと推定される。

5.2 自由詩評
図9 自由詩評における各コードの共起ネットワーク


図6には自由詩における共起ネットワークを示した。中心的なコードは[意味]であることが見てとれる。自由詩評での[わからないP]の出現率の高さ、また[意味]と[わからないP]の関連の強さから見て、[意味]について「わからない」と述べるときにポジティブな評価がなされるようだ。例えば次のような用例がある。

(自由詩評ア)さて「詩ではない」かもしれないこの本はしかし、少なくとも「普通の散文」を読むような感覚で接すると、何だか意味が判らない。それはもちろん作者の意識的な戦略で、そのような代物として読者の前に放り出されているのだ。それならば、読者としてはその戦略をかいくぐって、作者の待つ高原へとにじり寄るのもまた面白いではないか。そうすると、少しずつ蕾が開くように、全体の美しい展望が見え始める。


ここで何の「意味」を問うているのかは明らかではない。図6からも、[意味]の指示内は[いつ][どこ][だれ]などの具体的なカテゴリーとの関連性が低いことがわかる。短歌評の「わからない」は人物の人となりを想像する手がかりがないことを指し、即否定的なニュアンスを持ちかねない。しかし自由詩評では、何が描かれているのか、あるいは何かが描かれているのかすら確定できない状態を指し示すために使用され、ポジティブな評価が与えられる。そのことは[わからないP]と[意味]コードとの関連性が強いことからうかがえる。[文脈]は、「文脈がつながらない」など「意味がわからない」とほぼ同義に使われるものであるため、同様に[わからないP]との共起が強くなる。このように「意味がわからない」ことをポジティブな要素と見るために、自由詩評では[わからない]のコードの出現率が増えるとみられる。

 では、指示内容がはっきりしないことをどのように評価し得るか。例えば散文で意味のとれない文言が登場すれば、まず読者はそれをコミュニケーションが成立しないこと自体を表すための演出だと捉え、それ以上の深読みをする必要はないと判断するだろう。この場合は、演出として効果をあげているかを論じ得る。あるいは、作者が読者に深い読みを促したいがために置いた謎であるならば、読みを誘う工夫が作品に見出せるはずである。作者の狙いを評価するには、そのような仕掛けがあることとその仕掛けが十分機能していることを説明する必要があるだろう。

(ア)で言う戦略とは、意味のはっきりしない文言を置いたことだけを指すのか、または続いて読者に読みを深めさせようとするところまでを含むのかはっきりしない。しかし読者が自発的に読んだ後に見えてくる美しさがあると述べられる以上、読者が読みを深められたときはじめて作品にポジティブな評価を与えることができるはずである。したがって読者が自発的に働きかけることまでが作者の意図に含まれていると考えなければ、戦略とは言い得ない。
にもかかわらず(ア)の評者は、読者を誘うために作者が何を仕掛けたのかを説明することなく、戦略であると断言する。これを成り立たせるロジックが評者のなかにあるとすれば、自由詩において意味がうまく取れない部分がある場合、読者が能動的に読みを深めることが当然であるという了解が、作者の側にも読者の側にも浸透しているという考えであろう。よって評者の言う「作者の戦略」には「自由詩の作者の戦略」、「読者として」には「自由詩の読者として」という補足が可能かもしれない。

本分析の手法でそのような暗黙の了解をとらえることは難しいので、この考え方が必ずしも自由詩評のなかで有力であるかは判断できない。作品によっては読者を深い読みに誘う仕掛けを評者が説明することもあるだろう。

いずれにせよ、[わからないP]が[意味][文脈]コードと関連が深いほかに、[読解]および[心情]とつながる傾向には、次のようなモデルが与えられるだろう。自由詩評では、指示内容が不明瞭な部分を評者が能動的に深く読みこもうとすることが、そのような心持ちに評者がなる過程も含めて説明されることが多い。また評者だけでなく読者も同様の心の動きになる、つまり作品に読者に読みを深めさせる要因があると見なす場合もあるだろう。意味がとれない部分があることは作者の意図と見なされるが、評者によって根拠を示す必要はないと判断するかもしれないし、作品の構成などを根拠に説明を試みることもあるだろう。したがって[意味]コードと[読者][技法]との関連性も強くなるとみられる。

もう一つの評価コードである[わかるP]は[意味]のほかに[音律][直感的]といったコードとの関連が強いようである。

(自由詩評イ)【引用略】などが美しく響いてくるだろう。一読してわかるのは、ある種の抒情的な言葉たちがリアリズムをすり抜けて音としてのみ立ち上がり、するすると流れていっている、ということだ。つまり抒情が韻律そのものになりきってしまっている、といえる。


(イ)では韻律をポジティブに評価している。またリアリズムをすり抜けるという言い回しは、言葉がそのつながりによって意味を生じさせる作用をかいくぐった表現を前向きにとらえている。抒情が韻律そのものになりきるとは、作者の表したい情緒が韻律に乗っており、評者が音だけではなく作者の心情をも再生できたことを表す。ここで注意したいのは、「わかる」は韻律と情感が渾然一体となった状態を指すのではなく、詩句がそのような状態であるという理解を指している点である。その知見は評者が作品を読み解いた結果得られたものである。作品から何かを感じたのではなく、作品の性質が把握可能なものであることを指し示すために「わかる」は用いられている。

ところで、鳥のさえずりや川のせせらぎなどの音を聞いて心が安らぐといった体験はほとんどの読者に共通であろう。そのような体験が可能なのは特定の音を心地よさに結びつけられるよう学習した結果かもしれないが、その感覚は音を聞くと考える間もなく、否応なく起こるものである。また、文字を読んで音を思い起こす場合も、思い浮かべようとする必要もなく浮かぶものである。その文字の連なりが心地よさを与えるようなものであれば、心地よい音を聞くのと同様の体験をするだろう。
しかし(イ)のように抒情が韻律と一体となっていることを認識するには、それを体験した後に、さきほどの体験を省みつつ考えをまとめる時間が必要である。よって「一読して」という表現を使うのは適切ではない。評者がこの言葉を用いた背景にあるのは、文字を読んで文字に対応した音を思い浮かべる一つ目のプロセスと、さらに音の連なりが感情を喚起するまでの二つ目のプロセスの、いずれもほぼ同時に進むという体験である。その即時性は「一読して」というにふさわしい。しかし感情を喚起される体験が他の読者にも起こることを示さなければ、当該の作品に把握可能な性質が備わっているとまでは言えない。
よって(イ)では、「一読して」とすることで事実として示すことができる範囲をやや広げ過ぎている。

(自由詩評ウ)文字を眺めて幾度か音を口中で転がしてもらえればわかると思うが、八潮の詩篇は原文の音を空耳的に日本語の文字で並べたものである。念のために言っておくと、原文の音韻を日本語の近似的な音韻で対応したものではなく、あくまでも空耳である。【略】生田の翻訳が意味として伝えるエロさに対して、八潮の空耳的表現の詩篇もほとんど遜色ないくらいエロい感じになっているのがわかってもらえるだろうか。もちろん私は翻訳そのものを貶めるつもりはないくらい海外作品に接する上で多大な恩恵をこうむっているし、そもそも生田耕作の訳も好もしい。だが、そこで失われたものが必ずあり、八潮のこの一連の試みはその失われたものの大きさに気づかせてくれると同時に、それを補うための一つの手法を示してくれているような気がする。


(ウ)では詩が伝える情感に焦点がある。仏語の原文の意味に準拠して翻訳した詩と、音の連なりが似ている日本語を当てはめた空耳的表現とが比較され、前者の方法では失われるものがあると評者は述べる。それは音の組み合わせそのものが伝える情感である。評者は読者が同じ情感を得られることを期待し「わかるだろうか」と問いかける。この「わかる」は(イ)と同じく、音の組み合わせがかもしだす情感を指すのではなく、情感を呼び起こす性質が把握可能であるという知見を指している。

以上から自由詩評での[わかるP]の用法として、音によって情感を伝えるような性質が作品に与えられていることを指し示すために使用されるというモデルが得られる。したがって[音律]コードとの共起が強くなるとみられる。また更に[直感的]のコードが[音律]と関係が深い理由は、文字が音を伝え、更にその音の連なりから情感や情緒を感じるまでのプロセスの即時性に言及するケースがあるためとみられる。また(イ)で情緒を感じさせることと意味の伝達とが別の経路であることを述べる点は、(ウ)のリアリズムを参照したこととほぼ同じである。よって[わかるP]と[意味]コードとの関連も説明できよう。

5.3 俳句評
図10 俳句評における各コードの共起ネットワーク



図10には俳句評における各コードの共起ネットワークを示した。最も中心性が高いコードは[わからないN]であった。例えば次のような用例がある。

(俳句評ア)若い人たちは(句史に関して)極めて勉強不足だ。それを理解しない限り自分の位置も分からない


俳句評で否定的な印象をともなう「わからない」の用例は[学ぶ]との共起が強い。上の事例では、勉強が足りないこと自体についてではなく、勉強が足りないことによって「自分の位置」を認識できないことが問題視されている。

(俳句評イ)「残像である」と言い切らないところに山口の強さの本領がある。山口が俳句形式との本質的な戦いにまで進むのか、「爽やかに」俳句形式の恩寵を受けた俳人となるのか、僕は知らない。いまわかっていることは、どうやら僕は山口と相当に異なる地点でアポリアに突き当たったままどうにもぐずぐずしており、僕自身の自負はたぶんそのあたりにあるということだけだ。


[わかるP]に該当する用例である。『あじさゐはすべて残像ではないか』という句を引用しての評で、作品への評価が作者への評価にスライドする。「戦い」と喩えるように、俳句形式にどのように向き合うのか、その姿勢を含めた活動に評者は注目しているのだ。そして批評対象を通して、評者自身も作者としての立ち位置を確認するに至る。
なぜ作者としての立場が重要なのか。ここでは、評者の言う「戦い」に対比される、俳句形式の恩寵を受けた俳人について知ることが手がかりになるだろう。「爽やかに」を鍵括弧で括るように、皮肉をこめた言い方がなされている。

(俳句評ウ)いずれの活動もどこかで俳句につながり、私の人生を豊かにしてくれている。病でさえも、やがては俳句に帰結し、昇華する。実にありがたい表現形式であり、これこそが俳句の底力だと思う。


(ウ)では「昇華」とあるように、日常の経験といったささやかでありふれたものがモチーフであっても、俳句にすることで素材以上の値打ちのある作品が完成すると考えられている。また底力とあるように、俳句という表現形式には一連の言葉に何らかの価値を与える機能があるようだ。「俳句に昇華する」という言い回しから、俳句であること自体に一定の価値が見出されているとみられる。それを「俳句としての価値」と呼ぼう。

(俳句評エ)形式が内容を決定するのか、それとも内容が形式を決定するのかという議論は古くからあるけれど、僕たちが俳句形式を選んでいるということは、僕たちが形式の力を認めているということを示している。だから、その選択にいささかの羞恥心も介在しないのならば、僕たちはついに、俳句形式によって書かされているにすぎないのではないかという問いに向き合うことはないだろう。


(エ)でも形式に力があるという考え方が見出せる。力の実質は明らかではないが、「僕たちが~認めている」という表現によれば、力の及ぶ範囲は俳句形式を選ぶ者に限定されている。個別の評には季語が表す日本人の季節感や心情、定型がもたらす韻律の重み、あるいは長い年月を引き継がれてきた伝統などを関連付けて、俳句形式が作品に与える価値を論じようとする例も見られた。俳句の作者が形式に見出す価値を一般化しようとしたとき、(エ)のような表現を用いるのだろう。以上の例から言えることは、それぞれの理由で俳句形式を愛好する作者および読者が存在しており、したがって彼らは形式に沿って作られた作品であれば俳句と見なし、また彼らの考える俳句としての価値を認めるということである。

俳句愛好者であれば、俳句形式によって書かされた作品にも最低限の俳句としての価値を認めるはずである。しかしその価値を創出した手柄は作者にない。俳句の作者は形式の助けを借りている状態であり、(エ)の評者はそのことに自覚的である必要を説いている。無自覚に形式の力を借りた作品を作るだけでは作者として評価できないし、しかし俳句形式にのっとる以上その力を借りずに作品を作ることはできないのである。したがって俳句評において作者を評価する場合、自分の作品に対する形式の影響を作者がよく検討しているかが焦点となる。作者が自分の立ち位置をわかるという言い回しは、形式からどのように影響を受けているか把握できているということを意味するのだろう。

以上から、俳句評の語り口のモデルとして次の二つが見出された。まず作品については、俳句形式に沿って作られている以上は既に俳句としての価値が備わっていると見なすものである。この場合、どのような要素が評価のポイントになるか一定ではなく、ネットワーク上でポジティブな評価と関連性の高いコードにも、特定の傾向が見出されなかった。俳句評で[わかる]のコードに該当するケースが少ない理由は、俳句としての価値が保証されているゆえに、俳句を通して何が表現されたかを精査して評価する必要性が低いためとみられる。したがって作品を読みこんで要素を取り出す必要がなく、[読解]コード、[意味]や指示内容にあたる[どこ][だれ]のコードの出現率が低くなるのだろう。

もう一つの語り口のモデルは作者についてであり、自身の作品への形式からの影響をどの程度正確に把握できているかを推測し、評価を与えるものである。評価されるには、形式の力に自覚的であることはもちろん、形式を構成する季語に関する知識や俳句史にも通じている必要もある。したがって、それをよく学んでいないと評者が判断した作者には、ネガティブな評価がくだされる。[わからないN]と[学ぶ]の関連が強い理由はここに見出せる。また俳句評において[季語][定型]が多く出現する背景は、[季語]や[定型]などが形式を構成する要素として重要であるだけでなく、有季/無季や定型/破調の選択が形式に作者がどう向かい合っているか知る手がかりになるからである。[評価]と[態度]との関連が深いのはこのためとみられる。

6 ポジティブな評価に用いる語はなぜ違うのか
今回の分析で筆者は[わかるP][わからないP]にポジティブな評価を示す単語を分類した。しかし単語一つ一つを精査すると、作品に備わる良い性質であることを示すためのものか、あるいは 評者の快さの表明に重点があるものか、ニュアンスに違いがあることに気づく。例えば「良い」「美しい」「強い」「魅力」といった語群は前者、「面白い」「楽しい」「楽しむ」「好ましい」「好む」「好き」は後者である。
二群は「私」を主語にしたとき、作品への評価を述べる文章が成立するかで区別することができる。前者は「作品」を主語にして「この作品は良い(美しい、強い、魅力がある)」とすることで作品への評価を示すことはできるが、「私」を主語にして「私は良い(美しい、強い、魅力がある)」とした場合は作品への評価とはならない。しかし後者の単語は「私」を主語にして作品から受ける快さを示すことができる。「私は面白い(楽しい、好ましい)」や「私はこの作品を楽しむ(好む、好きだ)」という形である。

二つの語群のいずれも、使用者が作品に触れて感じた印象を表す点は共通である。しかし前者(良い、美しいなど)は、使用者が良い印象を持った原因を、快さをもたらす力が作品に備わるためであると捉えるものだ。後者(面白い、楽しいなど)は快さの源が作品と使用者のいずれに由来するかを厳密に区別せずに用いることができる。つまり作品に快い感覚を喚起する性質がある可能性を考慮する一方で、使用者にその性質に反応する要因がある可能性も残している。

これらの語群の使用頻度は各ジャンル評で異なるだろうか? もし異なるとしたら、前章で見出した各ジャンルによく見られる評価のかたちと関連するものだろうか?

6.1 集計結果
表11にポジティブな評価を示す代表的な単語が登場した文の集計結果を示した。なお「わかる」との共起ではなく、作品を示す単語と同文中に出現したケースを集計した。カイ二乗値は作品を示す単語の登場ケース数の比率から期待値を算出して求めた。なお集計の条件により、これらの単語を否定の形で使う例(良くない、など)も含むが、仮に否定の形で使用されている場合でも、当該のジャンルにおいてそのような理解のあり方が重用されることを示す点においては、肯定の形であるかどうかに重要性はない。

さらに評者の感じた感覚を作品の美点として捉え直すために用いる「良い」「美しい」「強い」「魅力」をA群、評者自身の快さを表明するために用いる「面白い」「楽しい」「楽しむ」「好き」「好ましい」をB群とし、それぞれの合計値と比率も算出することとした。

結果の概観を述べる。「美しい」は自由詩評で、「強い」「魅力」は短歌評で、「面白い」「楽しい・楽しむ」は俳句評で最も多く出現しており、その出現率にはジャンル間で差があった。A群とB群の比率は、全体的にA群のほうが出現率が高く、B群の1.29倍となる。しかし各ジャンルにおいてA/B比は大きく異なる。自由詩評ではA群がB群の2.03倍、短歌評では1.81倍出現している一方、俳句評では0.56倍であり、自由詩評・短歌評と俳句評との間でA群とB群の比が逆転する現象が見られた。

表11 



6.2 自由詩評
自由詩評においては「美しい」が作品に対するポジティブな評価を示す言葉としてよく用いられる。5章で見出した自由詩評の評価の手順を思い出してみよう。

意味がわからない、つまり指示内容が明確でない作品を読むとき、わからなさを作者の狙いと見なしつつ、読者が進んで作品を深く読みこもうとする過程があると推定された。(自由詩評ア)のように、読みこんだ先では作品の秘めた美点を発見することができると考えられている。したがって、わからないことをポジティブに評価するために「美しい」が選択される。

(自由詩評エ)語と語との断絶が紡ぎ出すものが詩であるならば、また文と文との断絶が織りなすものが詩であるならば、さらに連と連との断絶に跨がる跳ね橋が詩であるならば、「美しき懸崖」と称されるべきこれらの語、文、連、の断絶を屹立させ、読者を眩惑させる田村の上記の作品は紛うことなき詩である。


(エ)では文脈が断たれた状態からどのような要素が「美しさ」として見出せるのか明確ではない。結びつきのはっきりしない一連の言葉から、一つの要素を取り出してその特徴を分析することはほぼ不可能であり、したがってポジティブな評価を与えることは難しいからである。しかしそれでも作品に良い性質があることを表現するには、個別の要素に言及するのではなく全体に調和のとれた様を表現する言葉を用いるのが適切である。例えば絵画では構図や配色などの言葉を使って全体のバランスを論じることができる。このとき個別の箇所に対してではなく、まとまりの良さに対して「美しい」という言葉を使う。自由詩評での「美しい」はこの使い方に近いかもしれない。これならば、意味が不明瞭な箇所を問題にする必要がなくなる。

自由詩評におけるポジティブな評価は音律とも深く関わっていた。音の連なりに対する評価もまた、部分を取り出して可能なものではない。したがって音律に対しても美しいという語が用いられるとみられる。

6.3 俳句評
俳句評は三つのジャンルのうちB群に対するA群の比率が最も低く、「面白い」「楽しい・楽しむ」が多い。つまり俳句評では評者との関係を視野に入れて評価する方が多いのである。

俳句評では、形式に沿って作られた時点で作品に俳句としての価値があると信じられることにより、個別の作品の優劣をつけたいときに問題が起こるかもしれない。なぜならば俳句としての価値があるかどうか以外の評価基準、例えば他の分野の作品批評で用いられる方法を導入した場合、形式に沿わない作品に高い評価を与えることが可能であるということになる。この場合、形式に沿っているだけの作品は、他の基準によって高く評価される作品よりも相対的に価値が低いことになってしまい、結果的に俳句であることの重要性は低くなる。したがって俳句形式を愛好する評者であれば、作品の評価にあたって俳句に俳句であること以上を求める基準をむやみに導入することを控えるのではないだろうか。

ここで個別の作品の優劣を述べようとするケースに話を戻せば、「楽しい」など作品に美点があるか評価者に要因があるか結論を留保する言葉を使うことは、その判断の基準が個々の評者にはあるにせよ絶対的なものではないと述べることでもある。そのような一歩引いた形での作品の評価を述べるにとどめるために、B群の言葉の使用が増えるのではないか。

ある意味で謙虚であり誠実なこの傾向は、そもそも評が行われていると言えるのかという疑問を生む。俳句評で印象に頼った批評を防ぐ役割を果たしているものがあるとすれば、作者が形式の力を借りて作っていることに自覚的であるか、形式と自らの距離を測ろうとしているかを基準とする観点である。これによって作者に対する評価が可能となり、ときにネガティブな評価をくだすこともできるのである。

ところで「面白い」も「楽しい・楽しむ」も個別の作品の評価のために用いることができるが、共通しない用例もある。

(俳句評オ)昨年、某ウェブマガジンなどでロックフェスに出かけて俳句を作ったりコミックマーケットに出かけて俳句を作ったりしたのは、攻撃的な自分がぐうたらな自分をけしかけているところも勿論あったのだが、句材のあるなしに関係なく、ただただ好きな場所で俳句を作ったら楽しいんじゃない?という実に短絡的な思考によるものだったのだ。

(俳句評カ)「加藤郁乎」の面白さは、表現することそのものを目的として、ズバリと言葉の実物を出してくるところにある。俳句を「通じて」何かを表現することを目的としない。言葉の連なりが、境涯的な感得事項や社会批判のための代用物としての働きを持つことを拒絶する。


(オ)のように俳句を作ることを「楽しい」あるいは「楽しむ」と表現する用例がいくつか見られる。一方で「面白い」は作品か作者への評価として用いられるのみである。(オ)では、好きな場所であれば作句を楽しめるだろうという期待を「短絡的」とやや自虐的に言うところからして、作句とは十分に思慮をもってなされるべきものという前提が評者にあるようだ。

ここには、自身の作品への俳句形式からの影響を検討することが作者の評価につながるという考え方が前提にあるだろう。その検討をしないことについて「楽しい」は使われている。事実、楽しさとは気分の快い高揚を表す言葉であり、それを感じる間は思考が働いていないというニュアンスを持つ。この点が「面白い」とは対照にある。面白さも興を感じるという点では気分の高揚を表すが、何かを面白がるには物事をそのように見る視点が必要である。面白いと感じるには、主体が理知を発揮しなければならず、そこには思考が働いている。(カ)では手段としての表現と対比しながら、表現それ自体を目的とするという作者の姿勢を評者が見出したことで「面白い」を用いている。

上記の「楽しい」「面白い」の用例の違いは、俳句形式と作者の関係について語られていたことと似ている。つまり俳句形式に沿って作りさえすれば俳句としての価値を備えた作品となるゆえに、俳句愛好者が俳句を作ることは「楽しい」と言えるだろう。しかし同時に、形式にどのように向き合うかを作者は検討し続けなければならない。俳句の作者であり続けることは熟慮を要するのである。そして十分な検討を経て作者の姿勢を理解した評者は、「面白い」という言葉を用いて作者を評価するのではないか。だとすれば作品に対しての評価であっても、作句の姿勢を背後に見てとることがあれば、形式と関わるときの二つのパターンのどちらかを見出して「楽しい」「面白い」を使い分ける場合があるかもしれない。

6.4 短歌評
短歌評では「強い」「魅力」という語の出現率が他より高い。これを、作品を通して作者の人物像をはっきり構築できる作品ほど評価が高いという評価のかたちに当てはめると、どのようなことが言えるか。作者の思いが甚だしい、烈しいと評者が感じれば、そこに一人の人物が存在すると言う手ごたえは増す。すなわち「強い」という言葉をポジティブな評価に使用しやすいと考えられる。

ところで短歌評(イ)では「自閉的」な他作者の作品を批判しつつ、対象歌集から「器の大きさ」「健やかさ」を読み取ってポジティブな評価を述べている。ここでは単に思いの甚だしさについてというよりも、かの人物の内面の健やかさを高く評価している。あるいは短歌評(ウ)では「頼りない」主体はポジティブな評価に寄与しておらず、「歌集を貫く」と一貫性に高評価のポイントがある。いずれも作者の思いの甚だしいことだけではなく、精神的な頑健さに注目している。

意志が固い、容易に挫けない様を「心が強い」と呼ぶように、健全で安定した精神であることもまた「強い」と言う。短歌評において「強い」という言葉は、これら二つの強さの違いをどの程度考慮して用いられているのだろうか。いくら作品から読み取れる作者の思いが甚だしかろうと、自己憐憫に溺れていたり、子供じみた反抗心であったり、贅沢な悩みであると評者が感じた場合には、作品から思い浮かべる人物を「心が弱い」人と見なすだろう。

もし評者が「強い」という言葉を用いるにあたって思いの甚だしさと精神の健全さを区別しないならば、精神が健全でない人物の思いは「強くない」ことになる。「心が弱い」と評者が感じた作者の作品は、思いも弱いと判断され、評価が低くなるだろう。さらに、精神的に頑健であることは社会的に望まれる気質であり、それを備えた人物は好感度が高い。特定の気質を持つ人物像を表現した作品が評者に好まれやすい可能性があるのだ。それらの作品を評者が好んで取り上げれば、その結果、特定の気質を持つ人物を表した作品がより主流となっていくかもしれない。

「魅力」との共起が特に強い単語は「歌集」である。歌集と魅力が共起した文は12例あり、詩集(4例)や句集(1例)とその頻度で差がある(カイ二乗値=12.8,p<0.01)。

(短歌評オ)この、控えめだが、しっかりと背骨としてある光森の「反骨精神」が、本歌集でも魅力であった。


歌集を通読することは、作者の生活や考え方に関する潤沢な情報を得られるということである。 歌集の魅力を語るとき、用例のように作者の精神性に言及が及ぶ事例を見出すことができる。「魅力」とは人物評価にも使い得る言葉である。短歌評で「魅力」が多い背景は「強い」が多くなる背景とほぼ同様とみてよいだろう。

7 結語
本分析では計量テキスト分析を用いて、俳句、自由詩、短歌のそれぞれの評で「わかる」の用いられ方を調べることで、各ジャンルにおいて評者が何を重要視しているかを分析した。それは作品の評価につながるものであった。そして評価までの一連の過程で重要視されるもの、作品の評価の根拠となるものは各ジャンルで異なることが明らかになった。続いて筆者はポジティブな評価に使われる代表的な単語について、それぞれのジャンルで使用傾向が異なることを示し、背景を考察した。「わかる」をキーワードにした分析から得た各ジャンル評の評価の在り方が、ポジティブな評価を示すために用いる単語の使用傾向に影響していると推定された。

本論の意義を述べるならば、いくつかのデータの提示と解釈によって、詩の評価がどのように行われやすいか、いくばくかの根拠をもって提唱できる点にあるだろう。他の評者の議論の基盤になることを願って本稿を閉じるものである。

8 引用一覧
・短歌評
(ア・エ)短歌時評第113回・それでも〈私〉は「文学」である(西巻真)
(イ)短歌時評第71回・夏の第一歌集(田中濯)
(ウ)短歌時評第84回・『日本の中でたのしく暮らす』批評会-あるいは永井祐の透明な鎧(牧野芝草)
(オ)短歌時評第87回・電子書籍と歌集の未来(田中濯)

・自由詩評
(ア)自由詩時評第166回・AgaY『ヤクザみたいに綺麗ね』の悦楽―反倫理ロマンチストの純愛(平居謙)
(イ)自由詩時評第120回・永久機関としての詩~手塚敦史詩集『おやすみの前の、詩篇』について~(高塚謙太郎)
(ウ)自由詩時評第150回・八潮れん詩集『ル・鳩 良い子ぶる』(思潮社)を叱ってやってください存分に(高塚謙太郎)
(エ)自由詩評・落下の王国―田村隆一(俳人による現代詩考2)(丑丸敬史)

・俳句評
(ア)俳句評・外部から見た俳句の世界(平居謙)より角川「俳句年鑑2015」の引用 
(イ)俳句時評第19回・逃鼠の弁(外山一機)
(ウ)俳句時評第46回・黛まどかの来し方(外山一機)より黛まどか「てつぺんの星」の引用 
(エ)俳句時評第39回・羞恥について(外山一機)
(オ)俳句時評第6回・私は頑張れないです(松本てふこ)
(カ)俳句時評第54回・ふたりの加藤(山田耕司)



///久真 八志(くま やつし)///
1983年生まれ。「かばん」同人。
2013年「相聞の社会性―結婚を接点として」で第31回現代短歌評論賞。
2015年「鯖を買う/妻が好き」で短歌研究新人賞候補作。
Twitter&Facebook ID : okirakunakuma
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