「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句時評 第93回  遠くて深い 西村麒麟『鴨』を読む   黒岩徳将

2018年01月10日 | 日記
 西村麒麟第二句集『鴨』が出版された。北斗賞受賞作を多くの作家が読んでいるので、筆者の読後感を書きつつもこれらと照らし合わせたい。

 盆棚の桃をうすうす見てゐたり
 盆棚のパプリカ赤し芋の横


 盆棚二句。桃の句は北斗賞受賞作、パプリカの句は本句集で加わった。桃を「見て」いるのに、最終的にカメラはじわじわと桃にズームされていく。パプリカの赤さを言いつつ、横の芋のことも気になっている。アプローチは違えども、二つをとりまく空気感は近い。盆「棚」という、小さな空間を支配する季語を使う構成力があると感じた。

 散らからず流れてゐたり秋の滝
 
 凍滝でない限り、滝は流れる。しかし、この句にとって「流れ」は省略することはできない。多くの歳時記に載っていない「秋の滝」を詠むこと、「散らからず」にうかがえる几帳面、あるいは神経質とも言える主体の様も注目点だが、措辞からうかがえる表面的な特徴にとどまらず、一句全体に(それこそ)流れる冷たいうねりがこの句にはある。対象と距離が離れているのにも関わらず、主体と滝との一体化も感じられて、ますますこの滝を見たくなる。

 踊子の妻が流れて行きにけり
 友達が滑つて行きぬスキー場


 他人事のように捉えているが、見ているということは0%より高い憧憬が存在することに他ならない。
 西村の「見る」については、既に久留島元や田島健一が述べている。「見る」から書いている俳句に、わざわざ「見る」と述べることの意味は、認識の手順の開陳だと思っていたが、どうやらそれだけではないらしい。 

 観察に徹した主体は、低温とも感じられる。その視点は自分自身にも向けられ、ときとして「文鳥」や「松」「竹夫人」などの人外に憑依し「我」を見つめる。しかもその目にうつる「我」は、どうも必ず弱っている。
(【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む3】麒麟の目/久留島元 BLOG俳句新空間-)


 作者の意図を離れて「見てしまったもの」に注目しなければならない。作者の支配下にない視線。それは例えば次の一句である。

 天牛の巨大に見えてきて離す

(【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む9】見えてくること、走らされること 田島健一 BLOG俳句新空間-)


 私は、西村の「見る」「覗く」関連の句は、「言うが、言い過ぎない」あるいは「言い過ぎているように見えて、言い過ぎていない」と考える。対象を冷ややかに見て、対象と自身の距離感を重要視している。北斗賞受賞作としては、モチーフとしての「妻」「金魚」が焦点化されていたが、『鴨』では特定のモチーフよりも、「距離感」により重点が置かれている。そういえば、句集の筆頭句も

 見えてゐて京都が遠し絵双六

だった。

 涅槃図を巻くや最後に月を見て
 マンゴーに喜び月に唄ひけり
 蘭鋳の子が水中をよぢ登る


 涅槃図の句は、月は涅槃図の中の月のことだろう。「見て」の後の余韻が涅槃図と現実世界との完全な断絶を惜しむ。マンゴーの句は一人称としてとるよりも、「喜び」に重点を置いて三人称としてとった方が主体の冷ややかさを感じて面白い。なぜならその前の句が、「アロハ来て息子の嫁を眺めをり」であるからだ。両脇に挟まれているのが 。蘭鋳の句は前述の秋の滝の句と異なり、「よぢ登る」が作中主体と蘭鋳との一体化を感じさせない。勝手に登ればいいとすら思っていそうだ。
 「距離感」の演出には一句全体の意味内容の総量を軽くして、言葉に負担を書けない「脱力」の技が効く。副詞やオノマトペも割合多いのではないだろうか。ただし、ユーモアのみに直結する脱力ではない。西村の句は肩の力を抜いて読めて楽しくなるのと同時に、少し寂しい。
 近い時期に出版された上田信治『リボン』も、明るい世界を志向していて「読みやすい」ように見える句集である。しかし、上田が「夜の海フォークの梨を口へかな」の「口へかな」という措辞のミクロなこだわりで勝負するのに対し、西村の『鴨』にはそのような句は一句も見当たらない。普通のようで普通でない、楽しそうで楽しいだけじゃない、一語で語りつくせる現実などないということをじわじわと突きつけられているのである。一句を内角低めのストレートだとすると、同じところにボールが投げ続けられるにしたがって、ストライクゾーンがいい意味で狭くなるように感じられるような不思議さがある。シングルよりアルバムで買いたいアーティストの音楽に近い。

 追記したいこととしては、型への意識として中七の「や」切れが、数えてみたところ338句中36句と目立った。この型は、上五の「や」切れよりも転換点の唐突さがともすればネックになりそうだが、西村の句には窮屈さを感じさせない作りになっているものがある。

 黴赤く青く不滅や本の裏
 落鮎の白き目玉や飯の上
 水浅きところに魚や夕焚火


 落鮎の句は「金剛の露ひとつぶや石の上 茅舎」があるのでわかりやすい。黴の句は「不滅」がともすれば教訓的で言い過ぎの感はあるが、「本の裏」で種明かしのように景が出現するマジックがある。焚火の句は魚の存在がBGMのように季語の夕焚火を支える。いずれも、「や」が中七に置かれることに違和感はない。
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