詩歌に関わっているとかならず出くわすのが、「分からない」問題。「俳句は分かりません、季語とかあって難しいです」とか、「詩を書いていますが、あの先生の歌は実験的なので、私には高度過ぎて分かりません」とか、川柳の場合だともっと露骨に、「川柳なのに分からない。川柳は〈一読明解〉でしょ」とかいうかたちで折にふれて目の前にちらつく。音楽や映画でもある程度あるのだろうが、なまじ皆が日常的に使用する言語を媒体にしているので、詩歌での「分からない」問題の厄介さは独特である。音楽や映画と同様に、「個々の作品を面白いと思うかどうかですよ」と伝えるのが現実的な態度だが、(ふたたび)なまじ皆が日常的に使用する言語で出来ているために、「分からない」ことのストレスがそう言われた人の顔に浮かぶのは避けられない。簡単にいえば、バカにされた気になるのだ。それではと、こんなふうに読めばいいのですよ、と丁寧に解説をしたとしても、そもそも作品を読んで少しは「分かる」気になっていないとしたら、ますます心理的な壁を厚くするという結果にしかならない。とても面倒くさい。
ここでは、図書館で見つけた木津川計著『人生としての川柳』(角川学芸出版、2010年)に典型的な態度が見られたので、それを起点に同問題を考えてみる。それと同時に、「分かる」問題についても考える。こちらは、作者の想定からずれたかたちで「分かられてしまう」ことで、どのような難しさが発生するか、ということだが、「分からない」問題も「分かる」問題も両方、ある程度は共有の「意味」をもつ言語という媒体を使用しているから生じているので、根っこはそれほど変わらないと思われる。
というわけで、木津川計『人生としての川柳』から少し長めに引用する。
『川柳マガジン』の「難解句鑑賞」を僕は難儀しながら熟読している。解釈される須田尚美氏の頭脳にただただ感嘆する。それにしても難しい。ときに解釈なしに挙げられる樋口由紀子さんの左の句などはさっぱり分からず、毎日眺めては苦しんでいる。
五月闇痛いところに船が着く
掌の中で橋の崩れる音がする
くちびるの意識が戻る藪の中
両足が濡れないように嘘をつく
須田氏によると、樋口由紀子さんは「名実ともに(川柳の)いまを背負っている顔触れ」のお一人だという。そうか、川柳のいまはこういう閨秀によって背負われているのか。僕の苦しみは深まるばかりだ。
昭和初期の難解詩に北川冬彦の一行詩「馬」があった。
軍港を内臓している
これだけである。とにかくさまざまな解釈がなされた。軍国の秘密を歌ったもの、馬の解剖図を描いたもの、陸軍の中に海軍がいる、軍国を嫌悪する感情の象徴……。
ところが当の作者がこの詩の背景を後日説明して、旅順港を見下ろす丘の下から馬がのぼってきて、その腹が軍港を覆ったのを見て作ったのだ、と。拍子抜けとはこのことである。いっそ黙っていてほしかった。
あるいは由紀子さんの句にもご自身しかしらない背景があるのだろう。北川冬彦の「馬」が意味不明のまま、しかし魅了したように、難解句の魅力を僕は認める。認めながら、近江砂人はやはり正解だったなあと次の句に深く同意しているのだ。
佳句佳吟一読明快いつの世も
ここには「分からない」意識に陥る人に典型的な姿勢が集約して示されていることを確認しよう。
「解釈される須田尚美氏の頭脳にただただ感嘆する。それにしても難しい。」という辺り、こういうのを慇懃無礼というのだろう。言いまわしが回りくどく陰湿さがあるのはとりあえず置いて、解釈者の頭脳に感嘆するとしたら、その解釈は明晰なもののはずだ。それなのに、ここでは「それにしても難しい」と続く。なぜこういう言いまわしになるかと言えば、示される解釈以前に、その姿勢や手順に納得していないからだ。須田の作品の言葉を追って読んでいこうとする態度を、どこか小馬鹿にしているのだ((もちろん、そんなつもりはないと木津川は言うだろうし、また、須田があげたらしい樋口の4句は樋口の川柳としてはどちらかといえばつまらないものばかりなので、須田が樋口の作品を理解しているかも分からないが)。その辺りは、後の部分を読んでいるとはっきりしてくる。
北川冬彦の短詩「馬」についての部分は、これが今かさら難解詩かということはさておいて、木津川の言語作品に対する姿勢の問題点(それは「分からない」問題を折にふれて提示してくるほとんどの人に共通なものだが)を分かりやすく示してくれている。一つ目は、作品には唯一の解釈があると考えていることである。「軍国の秘密を歌ったもの、馬の解剖図を描いたもの、陸軍の中に海軍がいる、軍国を嫌悪する感情の象徴……。」と複数の解釈をあげているが、「とにかくさまざまな解釈がなされた」に明瞭なように、いろいろ解釈が出たことが問題であると木津川は考えている。が、むろん、作品はこのすべての解釈を許容するのである。「馬/軍港を内臓している」という言葉が目の前にあるのであって、上の「さまざまな解釈」はある意味、北川の創作した時代を読み込み過ぎた、むしろはなはだしく限定された読みの範囲に収まっている。解釈は確定されず、より「さまざま」であるべきだろう。(また、解釈以前、「分からない」などと考える以前に、「馬」の実在感に感銘を受けることがまず詩歌の味わいだろう。その意味で言えば、「分かる/分からない」は二次的な問題で、どうでもいいと言えばどうでもいい。)
さらに進むと、作者の発想の起点こそが正解の解釈と思っているということが分かる。北川が創作のヒントとなった旅順港での情景について語ったからと言ってどうして「拍子抜け」するのか。「いっそ黙っていてほしかった」で分かる通り、木津川はこの情報を知ると、作品の意味がそこに限定されて面白くないと考えているのだ。しかし当然ながら、発想の起点となるものと完成した作品は、最終的にはまったくの別ものである。創作や読解の場では当然の前提を書いているようだが、ただし、こうした誤解は、詩歌の会での自句自解に対する警戒にも見られるものであり、詩歌に素養があると思っている人たちのなかでも意外に深く根をはっている考えである。作者が発想の起点や作句の手順についていくら情報を提供したところで、それは作品の価値とは関係がない。せいぜい、他の読みと並列される一つの読みの可能性を示唆するに留まる。
この誤解は、「あるいは由紀子さんの句にもご自身しかしらない背景があるのだろう」にある根本的な無理解につながっている。つまり、作品そのものではなく、作品の「背景」のほうが重要で、正解だと思っているのだ。樋口由紀子編著『金曜日の川柳』(左右社、2020年)に、樋口の「永遠に母と並んでジャムを煮る」の一種の自句自解が入っている。そこには樋口の母とのしっくりいかなかった関係が語られている。おそらく、木津川のいう「ご自身しかしらない背景」であり、これを読むと木津川は安心してこの句が「分かった」気になるのだろう。
だが、当然ながら、「永遠に母と並んでジャムを煮る」の一句を樋口のこの短いエッセイ(それ自体一種の創作だ)と合わせて読む必要はないし、樋口は、たとえば、母との関係が友人同士のようだったので、永遠に同じ時を過ごしていたかったという思いをこの句に合わせる読者を否定することはないだろう。この句は、「母と並んでジャムを煮る」という多くの人が経験し、また経験したことがなくても想像できるシチュエーションを、「永遠に」という大ぶりの副詞によって、読者がさまざまな思いをそれぞれに持ち来たって味わうことができるように、言語によって構成されたものなのだ(むろん、これも解釈の一パターンに過ぎない)。樋口の体験や思いがどのようなものだったかは、読者の体験とは直接に結びつくことはない。「永遠に母と並んでジャムを煮る」という言語表現によって、それらさまざまな体験や思いが結びつけられるのは感動的ではあるものの、それはあくまで「永遠に母と並んでジャムを煮る」という言葉の集まりを起点としている。作品は決して、経験や意味や思いに還元されることはない。
「経験や意味や思いに還元されることはない」と書いたが、このうち、「経験」や「意味」に関しては、川柳、また他の詩歌についても現在はある程度理解は進んでいる。残るは、「思い」であるが、この点についても木津川『人生としての川柳』から引用し、確認してみる。
素人の僕は悲しい。難解句にときに出合って自らの解釈力、その貧困に嫌気が差してばかりなのである。今日の川柳界は溢れる凡句と少数の難解句が幅をきかすのである。
トルコ桔梗の青見せてから首絞める 石田柊馬
いとう岬さんが『川柳マガジン』二〇〇八年九月号の「難解句鑑賞」で挙げられた句だ。いったいどういう情景、いかなる意味なのか、僕にはさっぱり分からない。岬さんは言う。「この句は意味を伝えようとしているのではない。作者が描く心象風景を、感じる人は感じればいい」にほっとするが、感じない人間は不感症を自覚するしかない。
木津川の態度は相変わらずなのでもうよいとして、ここで問題にしたいのは、引用されているいとう岬の意見(「この句は意味を伝えようとしているのではない。作者が描く心象風景を、感じる人は感じればいい」)である。この意見も、詩歌の場においてはしょっちゅう耳にするもので、一見「難解句」を認めているように見える。ただ、「作者が描く心象風景」が先にあってそれを作品が写しているのだというのは、先に経験や伝えたい意味があってそれを写しているのだというのと同じ構図である。「心象風景」、「思い」、「感性」、どれでもいいが、あらかじめ何かがあり、作品はそれを伝える道具にすぎないという考え方なのだ。経験や意味が外界や社会にあり、思いはひとの内面にあると想定されているだけで、作品がそれらとは別個にあり、作品を味わうとしたらまず作品から始めるより他ないということを、残念ながら理解していない。「心象風景」が見えたように感じられたとして、それは作者が心の中に描いたものだと判断してしまうのはどうしてだろう。
「トルコ桔梗の青見せてから首絞める/石田柊馬」には当然ながら、作者から独立した言語表現として読み解くだけの十分な仕掛けがある(一読でそれがすべて解読できるわけではないが、そこに何かがあると感じられるだけの表現になっている)。何かを「見せてから首を絞める」のは、殺そうとしている相手に殺す理由を少しだけでも理解してもらいたいからだろう。それが「青」であるというのは、殺す行為がその場の思いつきや突発的な怒りではなく、もっと冷静な判断であるからであると読める。またこの「青」はただの青ではなく、「桔梗の青」であり、さらには「トルコ桔梗の青」である。この具体性には、殺す理由、また絞殺者と被害者との関係が他では代えられない独自のものであることを示唆するだろう。ここまでで、この句が言語表現として独自な達成をしていることは明白だ。さらに、「トルコ桔梗」にどのような思い、意味をのせるかは読者の判断による(青のトルコ桔梗の花言葉は「思いやり」ということだが、そうした背景知識をとらず、少しキザな絞殺者のパーソナリティを読むといったところで落ち着けてもよい)。確認しておくが、ここで示した読みはあくまで、句の具体的な言葉の読みであって、あいまいな「心象風景」といったものではない。さらに上七のかたちや、「トルコ」という片仮名、「桔梗」という画数の多い漢字で始まるヴィジュアル的な印象など、様々に考慮することができる。
「分からない」問題は、以上述べてきたように、言語表現それ自体への注目を避け、それとは別の要素を起点としてしか読むことを知らない受容態度、また、そうした作品外の何かが解釈としての「正解」であり、それを当てることが「分かる」ことであるという意識から、ほとんどの場合は来ている(「ほとんどの場合」とは思わせぶりだが、上手くいけば次の話題でそのことにもふれられると思う)。なので、「分からない」問題に出くわしたときには、とりあえず作品の言葉から読んでみましょうよ、ということにしかならないのだが、そもそも、作品の言葉を読んでいこう!に付き合おうことに同意してくれるのはそれなりに作品に興味をもった人であって、たいていの人は「分からない」と感じたものを「分かろう」とする労力を言葉に払おうと思わないのである(と、この文の最初のほうに書いたことに戻ってゆく)。かわりに、こう読み解いてはどうでしょう、と伝えても、「[あなたの]頭脳にただただ感嘆する。それにしても難しい。」とか言われてしまうのがオチなのだ……。まあ、詩歌に関わる以上、「分からない」問題とはほどほどに付き合っていくしかないのです。
さて、ここで、話題を「分かる」問題に転回したい。こちらのほうが、実際は実りが多い論点である。
暮田真名は『アンソロジスト』Vol.4(2023年1月)掲載の「音程で川柳をつくる」で、音の高低の流れによる自らの作句法を解説している。意味からの作句にこだわりがちな多くの川柳作家にとって参考になる手法である。最近読んだアーシュラ・K・ル=グウィン著『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』が「第一章 自分の文のひびき」と、文の音をとりあげるところから始めていた。散文でさえそうなのだから、短詩において創作の起点となるのが句や歌の音であるというのは改めて確認しておくべきことだろう。
ただし、ここではあえて、言葉の「意味」について、暮田がこの文の中で作例としてあげている自句、
お話にならない棋譜が増えてゆく 暮田真名
をとりあげて考えてみたい。とは言え、まず、暮田の論をまとめておかないとピンとこない気がするので、とりあえず手短にそうする。
暮田はこの句をまず、「お話にならない~が増えてゆく」という「骨格」を考えたうえで、「お話にならない2が増えてゆく」というかたちで「2」の部分に入る適切な音程の二音として、それに当てはまる「椅子、岐阜、棋譜」をリストアップし、中でも暮田にとって「本当らしく感じられる」(この辺りは暮田の感覚なので、ピンと来ないかもしれない。というか、正直私はピンと来ない、というのも、東京育ちの暮田と違い、云々)という理由で、「棋譜」を選んだ、と説明されている。音の手法については、恐らく個人の感覚にこだわって、自分にとって根拠があると考えられる音を選ぶ、そのことが結果として他の人にも説得力をもつと考えるしかないだろう。暮田の句に関していうと、途中の段階では疑問が生じるものの(「岐阜」と「棋譜」が同じ音程とは私には思えない)、最終の句については説得力のある音のつらなりとなっていると、私は感じる。同じ音程を感じるというより、根拠があると思われるところまで追求したということにこそ意義があるのだろう(暮田さんの論は、全文を読むことをおすすめします。『アンソロジスト』掲載の他の創作家の文も合わせて、いま表舞台に登場してきている人たちがどういう発想をもっているのか分かります)。
さて、ここで問題にしたいのは、暮田が(間違いなく意図的に)ふれていないこの句の言葉の「意味」である。暮田の他の句を見る限り、「お話にならない棋譜が増えてゆく」は暮田にとって、意味の薄い、あるいは少なくとも意味をずらした句のはずだと思う。推測だが、暮田はじぶんにとってあまり興味のない分野の語彙をとりあげて作句する場合が多いように思う(「選球眼でウインクしたよ」―野球に、と言うか、スポーツにあんまり興味ないでしょう。「ティーカッププードルにして救世主」―ティーカッププードルを見て「カワイイ!」となる人はこのような句は書かない)。おそらく、「棋譜」という言葉がもっとも頻繁に使われる囲碁や将棋の世界とは無縁に暮らしてきたのだろう。
さて、問題(ここから本格的に、「分かる」問題に入ります)は、「お話にならない棋譜が増えてゆく」という言葉は、それなりに囲碁もしくは将棋に興味がある人間からすると、あまりに意味が通り過ぎる内容になっているということだ。私個人を俎上にのせると、ちょうど川柳を始めた十数年前あたりから将棋にも興味をもっており、プロの将棋を鑑賞し、ほぼ毎日インターネットの将棋アプリで2~3局指す生活を続けている。にもかかわらず、いまだ、そこそこの強さの基準となる「初段」には到達していない。つまりは、文字通り、高段者から見れば「お話にならない棋譜が増えてゆく」日々を送り続けているわけだ(今の将棋アプリはご丁寧に、その「お話にならない棋譜」をえんえんと保存しておいてくれる)。無駄にしてきた時間のなんと莫大なことか。
私のような不真面目なアマチュア将棋指しなら冗談で済む。ただし、プロを目指して奨励会で将棋を指し、しかし、次々現れてくる「天才」たちに追い抜かれながら夢を諦めきれず、自らの「お話にならない棋譜が増えてゆく」ことに心身を削られる思いの若者ならどうだろう。もっとも、現在世界で最も将棋が強い藤井聡太五冠の生み出してゆく棋譜と比べて、何十年将棋をプロとして指してきた俺は、と忸怩たる思いに駆られている中堅、ベテランはどうか。その藤井聡太でさえ、人間からするとほぼ神の領域とも見えるAI将棋の棋譜に比べて、「お話にならない棋譜が増えてゆく」という思いをもっていないとも限らない、その絶望……。
と、まあ、大げさに書いてみたが、問題は、言葉で書く以上、いかにナンセンスに書いたところで、どこかの誰かにとってその言葉の羅列が意味を、場合によっては切実な意味をもってしまう、「分かって」しまう可能性はあるということなのだ――「分かる」問題である。そのトピックが「棋譜」程度であるならば(一部の人々に心理的ダメージを与える可能性があるとはいえ)まだ大したことではないかもしれないが、もっと危ういトピックならどうなるか。さらに深刻なのは、自分にとって「外し」を狙ったトピックは自分にとって(当然ながら)理解が及ばないものであるので、どこに地雷があるかを知るすべはない、ということだ。
強引にまとめると、現在の川柳の創作は、こうして、「分からない」問題と「分かる」問題に挟み込まれるかたちで行うより他がないのである。木津川の本のタイトルは「人生としての川柳」だが、ここには「人生というのは人が違ってもだいたい同じようなもので、人生について語るならば共感が得られる=分からないことはない」という一昔前の社会的通念だ。そうした通念は20世紀後半のいつかに失効した(注)が、まだそうした通念に沿って詩歌に関わる人も多い。「自分は庶民派」という一見謙虚だが多数派意識におもねった態度から来る面倒くささは、まだまだ私たちとともにある、というか、「反知性主義」がメディアでのスタンダードとなる時代に、まずます厄介さを増しているかもしれない。暮田はそうした古臭い通念を真っ向から否定している、というよりは、暮田の句そのものがそうした通念の否定そのものというべきかもしれない。そこでは、最低限の「共感」が何によって成立するか(たとえば音の響きによって?)、自分とは「共感」領域が異なる人の読み(それを誤読ということはできない)をどう考えるかが問われているように思う。暮田が「お話にならない棋譜が増えてゆく」のような分かりやすい陥穽にハマることが少ないのは、こうしたことに意識的、無意識的にじゅうぶんに自覚的だからだろう。
現代川柳が川柳外から注目をある程度浴びるようになってときおり気になるのは、ナンセンスな言葉の表現だけに注目されることが多く、短歌について穂村弘が言った「共感」と「驚異」のうち「驚異」だけがあるのが川柳だといった見方が示されることだ。ただし、ナンセンスや「驚異」といったものは、当然ながら、意味や共感といったものとセットでしか機能しない。ナンセンスに見える暮田の句でも、「お話にならない~が増えてゆく」にある、どこか諦めたような調子にうっすらとながらも共感が生じることで成立するのである。「言葉の脱線事故」(暮田)が起きるためには、そもそも線路がなければならない。ほんとうに何もない荒野を走る列車などないのである。また荒野でないとしたら、脱線した先に誰かの家が立っている可能性も否定できない。「川柳は命綱なしのポエジー」(瀬戸夏子)だが、以上のように考えると、それに留まることのない物騒さを覚悟しなければならない。これはこれで面倒くさいが、こちらにしかこれからの川柳の可能性がないことは明らかである。
注 川柳についてのこの辺りの歴史的経緯は以下の文の湊担当のところに書いているのでご参照ください。
平居謙・尾崎まゆみ・湊圭伍・わたなべ じゅんこ「短詩系文藝の現在 : 「MJSK 短詩系文藝四重奏」の意義と可能性」『国際観光学研究』(平安女学院大学)第2号
https://st.agnes.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=2527&item_no=1&page_id=13&block_id=31
ここでは、図書館で見つけた木津川計著『人生としての川柳』(角川学芸出版、2010年)に典型的な態度が見られたので、それを起点に同問題を考えてみる。それと同時に、「分かる」問題についても考える。こちらは、作者の想定からずれたかたちで「分かられてしまう」ことで、どのような難しさが発生するか、ということだが、「分からない」問題も「分かる」問題も両方、ある程度は共有の「意味」をもつ言語という媒体を使用しているから生じているので、根っこはそれほど変わらないと思われる。
というわけで、木津川計『人生としての川柳』から少し長めに引用する。
『川柳マガジン』の「難解句鑑賞」を僕は難儀しながら熟読している。解釈される須田尚美氏の頭脳にただただ感嘆する。それにしても難しい。ときに解釈なしに挙げられる樋口由紀子さんの左の句などはさっぱり分からず、毎日眺めては苦しんでいる。
五月闇痛いところに船が着く
掌の中で橋の崩れる音がする
くちびるの意識が戻る藪の中
両足が濡れないように嘘をつく
須田氏によると、樋口由紀子さんは「名実ともに(川柳の)いまを背負っている顔触れ」のお一人だという。そうか、川柳のいまはこういう閨秀によって背負われているのか。僕の苦しみは深まるばかりだ。
昭和初期の難解詩に北川冬彦の一行詩「馬」があった。
軍港を内臓している
これだけである。とにかくさまざまな解釈がなされた。軍国の秘密を歌ったもの、馬の解剖図を描いたもの、陸軍の中に海軍がいる、軍国を嫌悪する感情の象徴……。
ところが当の作者がこの詩の背景を後日説明して、旅順港を見下ろす丘の下から馬がのぼってきて、その腹が軍港を覆ったのを見て作ったのだ、と。拍子抜けとはこのことである。いっそ黙っていてほしかった。
あるいは由紀子さんの句にもご自身しかしらない背景があるのだろう。北川冬彦の「馬」が意味不明のまま、しかし魅了したように、難解句の魅力を僕は認める。認めながら、近江砂人はやはり正解だったなあと次の句に深く同意しているのだ。
佳句佳吟一読明快いつの世も
(pp.59-61、「佳句佳吟は一読明快」pp.57-61より)
ここには「分からない」意識に陥る人に典型的な姿勢が集約して示されていることを確認しよう。
「解釈される須田尚美氏の頭脳にただただ感嘆する。それにしても難しい。」という辺り、こういうのを慇懃無礼というのだろう。言いまわしが回りくどく陰湿さがあるのはとりあえず置いて、解釈者の頭脳に感嘆するとしたら、その解釈は明晰なもののはずだ。それなのに、ここでは「それにしても難しい」と続く。なぜこういう言いまわしになるかと言えば、示される解釈以前に、その姿勢や手順に納得していないからだ。須田の作品の言葉を追って読んでいこうとする態度を、どこか小馬鹿にしているのだ((もちろん、そんなつもりはないと木津川は言うだろうし、また、須田があげたらしい樋口の4句は樋口の川柳としてはどちらかといえばつまらないものばかりなので、須田が樋口の作品を理解しているかも分からないが)。その辺りは、後の部分を読んでいるとはっきりしてくる。
北川冬彦の短詩「馬」についての部分は、これが今かさら難解詩かということはさておいて、木津川の言語作品に対する姿勢の問題点(それは「分からない」問題を折にふれて提示してくるほとんどの人に共通なものだが)を分かりやすく示してくれている。一つ目は、作品には唯一の解釈があると考えていることである。「軍国の秘密を歌ったもの、馬の解剖図を描いたもの、陸軍の中に海軍がいる、軍国を嫌悪する感情の象徴……。」と複数の解釈をあげているが、「とにかくさまざまな解釈がなされた」に明瞭なように、いろいろ解釈が出たことが問題であると木津川は考えている。が、むろん、作品はこのすべての解釈を許容するのである。「馬/軍港を内臓している」という言葉が目の前にあるのであって、上の「さまざまな解釈」はある意味、北川の創作した時代を読み込み過ぎた、むしろはなはだしく限定された読みの範囲に収まっている。解釈は確定されず、より「さまざま」であるべきだろう。(また、解釈以前、「分からない」などと考える以前に、「馬」の実在感に感銘を受けることがまず詩歌の味わいだろう。その意味で言えば、「分かる/分からない」は二次的な問題で、どうでもいいと言えばどうでもいい。)
さらに進むと、作者の発想の起点こそが正解の解釈と思っているということが分かる。北川が創作のヒントとなった旅順港での情景について語ったからと言ってどうして「拍子抜け」するのか。「いっそ黙っていてほしかった」で分かる通り、木津川はこの情報を知ると、作品の意味がそこに限定されて面白くないと考えているのだ。しかし当然ながら、発想の起点となるものと完成した作品は、最終的にはまったくの別ものである。創作や読解の場では当然の前提を書いているようだが、ただし、こうした誤解は、詩歌の会での自句自解に対する警戒にも見られるものであり、詩歌に素養があると思っている人たちのなかでも意外に深く根をはっている考えである。作者が発想の起点や作句の手順についていくら情報を提供したところで、それは作品の価値とは関係がない。せいぜい、他の読みと並列される一つの読みの可能性を示唆するに留まる。
この誤解は、「あるいは由紀子さんの句にもご自身しかしらない背景があるのだろう」にある根本的な無理解につながっている。つまり、作品そのものではなく、作品の「背景」のほうが重要で、正解だと思っているのだ。樋口由紀子編著『金曜日の川柳』(左右社、2020年)に、樋口の「永遠に母と並んでジャムを煮る」の一種の自句自解が入っている。そこには樋口の母とのしっくりいかなかった関係が語られている。おそらく、木津川のいう「ご自身しかしらない背景」であり、これを読むと木津川は安心してこの句が「分かった」気になるのだろう。
だが、当然ながら、「永遠に母と並んでジャムを煮る」の一句を樋口のこの短いエッセイ(それ自体一種の創作だ)と合わせて読む必要はないし、樋口は、たとえば、母との関係が友人同士のようだったので、永遠に同じ時を過ごしていたかったという思いをこの句に合わせる読者を否定することはないだろう。この句は、「母と並んでジャムを煮る」という多くの人が経験し、また経験したことがなくても想像できるシチュエーションを、「永遠に」という大ぶりの副詞によって、読者がさまざまな思いをそれぞれに持ち来たって味わうことができるように、言語によって構成されたものなのだ(むろん、これも解釈の一パターンに過ぎない)。樋口の体験や思いがどのようなものだったかは、読者の体験とは直接に結びつくことはない。「永遠に母と並んでジャムを煮る」という言語表現によって、それらさまざまな体験や思いが結びつけられるのは感動的ではあるものの、それはあくまで「永遠に母と並んでジャムを煮る」という言葉の集まりを起点としている。作品は決して、経験や意味や思いに還元されることはない。
「経験や意味や思いに還元されることはない」と書いたが、このうち、「経験」や「意味」に関しては、川柳、また他の詩歌についても現在はある程度理解は進んでいる。残るは、「思い」であるが、この点についても木津川『人生としての川柳』から引用し、確認してみる。
素人の僕は悲しい。難解句にときに出合って自らの解釈力、その貧困に嫌気が差してばかりなのである。今日の川柳界は溢れる凡句と少数の難解句が幅をきかすのである。
トルコ桔梗の青見せてから首絞める 石田柊馬
いとう岬さんが『川柳マガジン』二〇〇八年九月号の「難解句鑑賞」で挙げられた句だ。いったいどういう情景、いかなる意味なのか、僕にはさっぱり分からない。岬さんは言う。「この句は意味を伝えようとしているのではない。作者が描く心象風景を、感じる人は感じればいい」にほっとするが、感じない人間は不感症を自覚するしかない。
(p.79-80、「凡句と難解句」pp.78-81より)
木津川の態度は相変わらずなのでもうよいとして、ここで問題にしたいのは、引用されているいとう岬の意見(「この句は意味を伝えようとしているのではない。作者が描く心象風景を、感じる人は感じればいい」)である。この意見も、詩歌の場においてはしょっちゅう耳にするもので、一見「難解句」を認めているように見える。ただ、「作者が描く心象風景」が先にあってそれを作品が写しているのだというのは、先に経験や伝えたい意味があってそれを写しているのだというのと同じ構図である。「心象風景」、「思い」、「感性」、どれでもいいが、あらかじめ何かがあり、作品はそれを伝える道具にすぎないという考え方なのだ。経験や意味が外界や社会にあり、思いはひとの内面にあると想定されているだけで、作品がそれらとは別個にあり、作品を味わうとしたらまず作品から始めるより他ないということを、残念ながら理解していない。「心象風景」が見えたように感じられたとして、それは作者が心の中に描いたものだと判断してしまうのはどうしてだろう。
「トルコ桔梗の青見せてから首絞める/石田柊馬」には当然ながら、作者から独立した言語表現として読み解くだけの十分な仕掛けがある(一読でそれがすべて解読できるわけではないが、そこに何かがあると感じられるだけの表現になっている)。何かを「見せてから首を絞める」のは、殺そうとしている相手に殺す理由を少しだけでも理解してもらいたいからだろう。それが「青」であるというのは、殺す行為がその場の思いつきや突発的な怒りではなく、もっと冷静な判断であるからであると読める。またこの「青」はただの青ではなく、「桔梗の青」であり、さらには「トルコ桔梗の青」である。この具体性には、殺す理由、また絞殺者と被害者との関係が他では代えられない独自のものであることを示唆するだろう。ここまでで、この句が言語表現として独自な達成をしていることは明白だ。さらに、「トルコ桔梗」にどのような思い、意味をのせるかは読者の判断による(青のトルコ桔梗の花言葉は「思いやり」ということだが、そうした背景知識をとらず、少しキザな絞殺者のパーソナリティを読むといったところで落ち着けてもよい)。確認しておくが、ここで示した読みはあくまで、句の具体的な言葉の読みであって、あいまいな「心象風景」といったものではない。さらに上七のかたちや、「トルコ」という片仮名、「桔梗」という画数の多い漢字で始まるヴィジュアル的な印象など、様々に考慮することができる。
「分からない」問題は、以上述べてきたように、言語表現それ自体への注目を避け、それとは別の要素を起点としてしか読むことを知らない受容態度、また、そうした作品外の何かが解釈としての「正解」であり、それを当てることが「分かる」ことであるという意識から、ほとんどの場合は来ている(「ほとんどの場合」とは思わせぶりだが、上手くいけば次の話題でそのことにもふれられると思う)。なので、「分からない」問題に出くわしたときには、とりあえず作品の言葉から読んでみましょうよ、ということにしかならないのだが、そもそも、作品の言葉を読んでいこう!に付き合おうことに同意してくれるのはそれなりに作品に興味をもった人であって、たいていの人は「分からない」と感じたものを「分かろう」とする労力を言葉に払おうと思わないのである(と、この文の最初のほうに書いたことに戻ってゆく)。かわりに、こう読み解いてはどうでしょう、と伝えても、「[あなたの]頭脳にただただ感嘆する。それにしても難しい。」とか言われてしまうのがオチなのだ……。まあ、詩歌に関わる以上、「分からない」問題とはほどほどに付き合っていくしかないのです。
さて、ここで、話題を「分かる」問題に転回したい。こちらのほうが、実際は実りが多い論点である。
暮田真名は『アンソロジスト』Vol.4(2023年1月)掲載の「音程で川柳をつくる」で、音の高低の流れによる自らの作句法を解説している。意味からの作句にこだわりがちな多くの川柳作家にとって参考になる手法である。最近読んだアーシュラ・K・ル=グウィン著『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』が「第一章 自分の文のひびき」と、文の音をとりあげるところから始めていた。散文でさえそうなのだから、短詩において創作の起点となるのが句や歌の音であるというのは改めて確認しておくべきことだろう。
ただし、ここではあえて、言葉の「意味」について、暮田がこの文の中で作例としてあげている自句、
お話にならない棋譜が増えてゆく 暮田真名
をとりあげて考えてみたい。とは言え、まず、暮田の論をまとめておかないとピンとこない気がするので、とりあえず手短にそうする。
暮田はこの句をまず、「お話にならない~が増えてゆく」という「骨格」を考えたうえで、「お話にならない2が増えてゆく」というかたちで「2」の部分に入る適切な音程の二音として、それに当てはまる「椅子、岐阜、棋譜」をリストアップし、中でも暮田にとって「本当らしく感じられる」(この辺りは暮田の感覚なので、ピンと来ないかもしれない。というか、正直私はピンと来ない、というのも、東京育ちの暮田と違い、云々)という理由で、「棋譜」を選んだ、と説明されている。音の手法については、恐らく個人の感覚にこだわって、自分にとって根拠があると考えられる音を選ぶ、そのことが結果として他の人にも説得力をもつと考えるしかないだろう。暮田の句に関していうと、途中の段階では疑問が生じるものの(「岐阜」と「棋譜」が同じ音程とは私には思えない)、最終の句については説得力のある音のつらなりとなっていると、私は感じる。同じ音程を感じるというより、根拠があると思われるところまで追求したということにこそ意義があるのだろう(暮田さんの論は、全文を読むことをおすすめします。『アンソロジスト』掲載の他の創作家の文も合わせて、いま表舞台に登場してきている人たちがどういう発想をもっているのか分かります)。
さて、ここで問題にしたいのは、暮田が(間違いなく意図的に)ふれていないこの句の言葉の「意味」である。暮田の他の句を見る限り、「お話にならない棋譜が増えてゆく」は暮田にとって、意味の薄い、あるいは少なくとも意味をずらした句のはずだと思う。推測だが、暮田はじぶんにとってあまり興味のない分野の語彙をとりあげて作句する場合が多いように思う(「選球眼でウインクしたよ」―野球に、と言うか、スポーツにあんまり興味ないでしょう。「ティーカッププードルにして救世主」―ティーカッププードルを見て「カワイイ!」となる人はこのような句は書かない)。おそらく、「棋譜」という言葉がもっとも頻繁に使われる囲碁や将棋の世界とは無縁に暮らしてきたのだろう。
さて、問題(ここから本格的に、「分かる」問題に入ります)は、「お話にならない棋譜が増えてゆく」という言葉は、それなりに囲碁もしくは将棋に興味がある人間からすると、あまりに意味が通り過ぎる内容になっているということだ。私個人を俎上にのせると、ちょうど川柳を始めた十数年前あたりから将棋にも興味をもっており、プロの将棋を鑑賞し、ほぼ毎日インターネットの将棋アプリで2~3局指す生活を続けている。にもかかわらず、いまだ、そこそこの強さの基準となる「初段」には到達していない。つまりは、文字通り、高段者から見れば「お話にならない棋譜が増えてゆく」日々を送り続けているわけだ(今の将棋アプリはご丁寧に、その「お話にならない棋譜」をえんえんと保存しておいてくれる)。無駄にしてきた時間のなんと莫大なことか。
私のような不真面目なアマチュア将棋指しなら冗談で済む。ただし、プロを目指して奨励会で将棋を指し、しかし、次々現れてくる「天才」たちに追い抜かれながら夢を諦めきれず、自らの「お話にならない棋譜が増えてゆく」ことに心身を削られる思いの若者ならどうだろう。もっとも、現在世界で最も将棋が強い藤井聡太五冠の生み出してゆく棋譜と比べて、何十年将棋をプロとして指してきた俺は、と忸怩たる思いに駆られている中堅、ベテランはどうか。その藤井聡太でさえ、人間からするとほぼ神の領域とも見えるAI将棋の棋譜に比べて、「お話にならない棋譜が増えてゆく」という思いをもっていないとも限らない、その絶望……。
と、まあ、大げさに書いてみたが、問題は、言葉で書く以上、いかにナンセンスに書いたところで、どこかの誰かにとってその言葉の羅列が意味を、場合によっては切実な意味をもってしまう、「分かって」しまう可能性はあるということなのだ――「分かる」問題である。そのトピックが「棋譜」程度であるならば(一部の人々に心理的ダメージを与える可能性があるとはいえ)まだ大したことではないかもしれないが、もっと危ういトピックならどうなるか。さらに深刻なのは、自分にとって「外し」を狙ったトピックは自分にとって(当然ながら)理解が及ばないものであるので、どこに地雷があるかを知るすべはない、ということだ。
強引にまとめると、現在の川柳の創作は、こうして、「分からない」問題と「分かる」問題に挟み込まれるかたちで行うより他がないのである。木津川の本のタイトルは「人生としての川柳」だが、ここには「人生というのは人が違ってもだいたい同じようなもので、人生について語るならば共感が得られる=分からないことはない」という一昔前の社会的通念だ。そうした通念は20世紀後半のいつかに失効した(注)が、まだそうした通念に沿って詩歌に関わる人も多い。「自分は庶民派」という一見謙虚だが多数派意識におもねった態度から来る面倒くささは、まだまだ私たちとともにある、というか、「反知性主義」がメディアでのスタンダードとなる時代に、まずます厄介さを増しているかもしれない。暮田はそうした古臭い通念を真っ向から否定している、というよりは、暮田の句そのものがそうした通念の否定そのものというべきかもしれない。そこでは、最低限の「共感」が何によって成立するか(たとえば音の響きによって?)、自分とは「共感」領域が異なる人の読み(それを誤読ということはできない)をどう考えるかが問われているように思う。暮田が「お話にならない棋譜が増えてゆく」のような分かりやすい陥穽にハマることが少ないのは、こうしたことに意識的、無意識的にじゅうぶんに自覚的だからだろう。
現代川柳が川柳外から注目をある程度浴びるようになってときおり気になるのは、ナンセンスな言葉の表現だけに注目されることが多く、短歌について穂村弘が言った「共感」と「驚異」のうち「驚異」だけがあるのが川柳だといった見方が示されることだ。ただし、ナンセンスや「驚異」といったものは、当然ながら、意味や共感といったものとセットでしか機能しない。ナンセンスに見える暮田の句でも、「お話にならない~が増えてゆく」にある、どこか諦めたような調子にうっすらとながらも共感が生じることで成立するのである。「言葉の脱線事故」(暮田)が起きるためには、そもそも線路がなければならない。ほんとうに何もない荒野を走る列車などないのである。また荒野でないとしたら、脱線した先に誰かの家が立っている可能性も否定できない。「川柳は命綱なしのポエジー」(瀬戸夏子)だが、以上のように考えると、それに留まることのない物騒さを覚悟しなければならない。これはこれで面倒くさいが、こちらにしかこれからの川柳の可能性がないことは明らかである。
注 川柳についてのこの辺りの歴史的経緯は以下の文の湊担当のところに書いているのでご参照ください。
平居謙・尾崎まゆみ・湊圭伍・わたなべ じゅんこ「短詩系文藝の現在 : 「MJSK 短詩系文藝四重奏」の意義と可能性」『国際観光学研究』(平安女学院大学)第2号
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