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「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句時評151回 猫に厳しく 谷村 行海 

2022年07月01日 | 日記
 猫はかわいい。それは多くの人が思うことで私も猫が好きだ。住んでいるアパートがペット禁止のため、たまに猫カフェに行って愛でたり、いつか引っ越しをして保護猫を引き取る日のために名前を想像してみたりする。猫はかわいい生き物だ。
 しかし、俳句に関しては猫はかわいくてはいけないと思う。もちろん、その猫の描写に捻りがあったり独自の視点があったりすれば話は別だが、猫がかわいいことは自明なのだから、それを俳句にされてもと思ってしまうのだ。
 だからこそ句会で猫の句が出る度、これは本当に選にとってよい句なのかを他の句より真剣に考えてしまう。
 そんな猫のことを考えている折、『猫は髭から眠るもの』(堀本裕樹編著、幻冬舎)が六月に出版された。この本には猫俳句大賞の第一回から第三回までの受賞作・入賞作が299句収められている。
 それだけの数の猫の句があるわけだから、猫がかわいいだけではない句も当然多数存在している。今回は猫が単純にかわいいだけにとどまらない句に焦点を絞って紹介していきたい。
 
お互いの猫のためなる歳暮かな 吉野由美
野良猫の名前の決まる芋煮会 朽木律子
春風や猫に「ごめん」はすぐ言へる 水谷あづさ

 これらの3句は猫のことを愛でながらも人間の存在感が浮き彫りになる。
 1句目はまず猫を思っている。その上で、猫のために歳暮を送りあう間柄にいる相手との信頼関係も見せてくれる。猫のための歳暮だからこそ、そこに歳暮のランクといった社会の俗な一面もかき消してくれている。
 2句目はたまたま芋煮会に紛れ込んだ猫だろう。芋煮会の最中ずっと猫がちょっかいを出す光景が浮かぶが、それにつれて人々が次第に猫に名前を付けようと思案する様子へと光景が移り変わる。また、この芋煮会を一回だけのものではなく、毎週のように行うものととらえても、芋煮会の回数と共に高まっていく猫に対する思いの動きが見える。
 3句目は猫以外に「ごめん」と言いたい相手がいるということ。ここでの猫は脇役に過ぎず、本当に思う相手への気持ちが見える。猫に何度か「ごめん」と言う度に相手への謝りたい気持ちも強まっていく。

黒猫のじつと見てゐるマスクかな あみま
冬籠猫が爪研ぐ初版本 武藤隆司

 両句とも猫と人間の関係を考えさせられる。
 1句目のマスクは人が身に着けている状態のマスクととらえた。視線を送り続ける猫のことをかわいいと人は思うのだが、よくよく見ると視線がマスクのほうに向けられていたことに気付く。気まぐれな猫は人間に興味がなかったという悲しさ。
 初版本とはっきりと書くわけだから、2句目の初版本は稀少性のあるものととった。猫にはその本の価値などわからず、爪研ぎの道具として使ってしまう。これは猫がかわいいで許してはならない。ただし、その本に稀少性という価値を認めたのは単純に人間の勝手であり、猫からしたら初版本には爪研ぎとしての価値があったことになる。猫が勝手なのと同様に、人間がものを稀少・稀少でないとわけるのも人間の勝手に過ぎない。

春暑し猫の開きに手術あと 中分明美
小春日の猫にセカンドオピニオン 土屋幸代

 人間の病を詠んだ句は多い(ように思う)。そのなかで、病を人間から猫にすり替えたものだが、そのなかでもひときわ個性が光る。
 1句目は「開き」が良い。よく猫がぐでっとしながら仰向けになる光景を「開き」ととらえたのだろう。猫の身体が開かれることにより、普段は見えない・意識しない手術あとが眼前にしっかりと立ち現れる。見えないものを見えるようにするということで、「猫の開き」というこの造語は効いていると感じた。
 2句目はセカンドオピニオンという言葉だけで猫への愛情の深さが見えてくる。その町の規模にもよるだろうが、通常の病院と異なり、動物病院は数も限られているように思う。そんななかでも、愛猫のために二つ目の病院へと駆け込むこの心地よさ。単語だけで愛情が十分に立ち現れるとともに、医師の話を真剣な面持ちで聞く飼い主の姿も見えてくる。

猫の恋競りの終はりし港町 板柿せっか

 猫がいることで町の寂しさが浮き上がってくる。競りが終了になると当然、人々はこの町を後にする。この町は外部のものにとっては競りにかけられた魚と同様にビジネスの手段でしかない。そんな人間たちとは無関係に存在していく猫の人生。いつかはこの猫たちもこの町をあとにするのかもしれない。

右足で猫たしなめておでん食ふ 丹下京子

 雑然とした生活の雰囲気が漂う。猫がご飯を求めてやってくるのを手ではなくて足で払ってしまうことで、この句のなかの人物像が浮き彫りになってくる。おでんの庶民性とも合わさり、猫よりもこの人の生活をもっと知りたいという気持ちを募らせてくれる句だ。

猫鴉鳩定位置に春の昼 西澤繁子

 最後のこの句はもはや猫を物体としてとらえている。いつも行く公園などでいつも決まった位置にこの三種の生物が物体的に存在している。この三種が揃って初めて春の昼ののどけさを味わうことができるのだ。気まぐれで一種でもいなければ不安を掻き立てられてしまう。自身とは無関係に存在しているにもかかわらず、あたかも自身の所有物ででもあるかのように猫をとらえたのがおもしろい。


 以上、気になった句をいくつか紹介してきたが、気になるのは人間と猫との関係だった。猫をかわいいと思うには、当然そこに人間が存在する。そのため、猫のことを詠んでいながら、そこからその人間の姿のようなものが出てくる句もある。巷間にあふれる猫がかわいい俳句を脱却するためには、猫を介して人間を詠む必要もあるのではないか。多数の猫にふれることでそのようなことを思った。

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