「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句時評 第125回 「第23回俳句甲子園と、高校生に俳句を教えること」 若林 哲哉

2020年09月08日 | 日記

 いささか旧聞に属するかも知れないが、先月、第23回俳句甲子園が行われた(俳句甲子園公式ホームページURL:https://haikukoushien.com/2020/)。行われたとは言っても、COVID-19流行の影響を受け、高校生が松山に集まって試合をすることは叶わず、13人の審査員長が投句審査によって各団体賞・個人賞を決定し、表彰式のみオンライン配信で行われた。毎年大勢の観客で埋め尽くされる松山のコミュニティセンターが閑散としている光景には胸が痛んだが、各受賞者と中継を繋いで感想を聞いたり、松山と東京を繋いでエキシビションマッチを行ったりと、なんとも臨場感と熱量に溢れていた。何よりもまずは、厳しい状況下であっても開催にこぎつけた俳句甲子園実行委員会のみなさんに敬意を表すると共に、年始の授業開始日がずれにずれ込み、定期テストの日程と俳句甲子園の締切が重なるなどといった問題を乗り越えながら、俳句甲子園でみずみずしい俳句を見せてくれた各高校のみなさんの健闘を称えたい。

 さて、そんな今年の俳句甲子園で最優秀賞に輝いた句が、

  太陽に近き嘴蚯蚓を垂れ 田村龍太郎(海城B)

 である。〈太陽〉によって広い空間を見せた上で、鳥の〈〉に一気にクローズアップしており、映像の組み立て方としては非常に大胆である。そして、〈蚯蚓〉という季語まで読み下して初めて、上五の〈太陽〉が夏の照りつけるような日射しを放っているのだということに思い至る。田中裕明の〈大き鳥さみだれうををくはへ飛ぶ〉が、〈さみだれうを〉と、鳥の飛んでいる五月雨の空間とを同化させる作りになっているとするならば、こちらの句は、〈蚯蚓〉を異化させる作りになっているといえよう。すなわち、上五中七までは生命力に満ちているのだが、下五で死のイメージがカットインしてくるというわけだ。一句全体を読んで、生き物が生を営む在りようが見えてくると同時に、それはかつて神話の中で〈太陽に近き〉ところを飛び、翼を失ったイカロス以後不変のものなのではないかと思わされる。中七の〈〉で一度切れを生じた上で、さらに下五で〈〉の描写を加えるという手法は、所謂「澤調」に通じるところがあり、審査員13人の中でも小澤實氏が特に推薦したということに納得がゆく。表彰式の選評では、COVID-19の流行を踏まえて勇気づけられる句であると述べられていたが、そういった時事的な読み方に賛成しようとはあまり思わない。なお、23回の俳句甲子園の中で、字余りの俳句が最優秀賞になったのは、今回が初めてである。

 それにしても、高校生に俳句を教えることは難しい。筆者である僕自身も実際に俳句甲子園に出場する高校生を指導しているが、毎年悩まされる。俳句に答えはないが、指導とは一種の答えを提示することである。しかしながら、その「答え」はあくまでも指導者が一つの落としどころとして持っている「答え」であって、広く通用するかどうかは定かでない。それにも拘わらず、先生と生徒という関係、ひいては大人と生徒という関係が、高校生にそれが唯一の「正解」であると誤解させてしまうのだ。俳句の多様性を体現する俳句甲子園という場において、自分が作り上げてきた俳句観を恃むことはもちろん重要なのだが、一つの俳句観に基づいてしか俳句を語れないことは、その場や人間の成長を止める原因になる。
 高校生の指導をする時に必要なのは、出来るだけ多くの道筋を示すことだと思う。部活動と結社は違う。気に入った道筋が見つかれば、あとは彼等自身が勝手に進んでゆくだろう。「俳句はこういうものだ」、「俳句はこうでなければならない」、そう言って高校生を自分の領域に引き寄せてしまう方がずっと簡単で楽なのだが、俳句は一つの山ではなく、山脈のような様相を成している。指導者が登っている山に、高校生も登りたがるとは限らない。だから、別の山を登りたいと言い出した高校生の背中を押す--そう、例えば、僕は文語で、歴史的仮名遣いで、有季定型で俳句を書くが、口語や現代仮名遣いで、あるいは無季、自由律で俳句を作りたいと言われたときに、そちらへ背中を押してあげるだけの知識と勇気が必要なのだと思われてならない。自分の登りたい山を登りながら、別の山の景色にも感動できるような、そんな高校生を育てたいと強く思う。無論、「俳人」を育てたい訳ではないし、指導者のエゴイズムであるとも分かっているのだが……。

 最後に、俳句甲子園があまり合わなかったという高校生たちへ。「俳句は山脈だ」と言ったが、何も俳句甲子園だけが山脈すべてを網羅しているわけではない。俳句甲子園も俳句の一部だが、それは一部にしか過ぎない。俳句甲子園だけを体験して俳句を嫌いになるのは、性急だ。俳句を嫌いになるなら、もう少し色んな山脈を覗き見てからにしないかい。


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1 コメント

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Unknown (大江深夜)
2020-09-10 22:54:48
若林様どうもはじめまして。大江深夜と申します。
結社にも属した事がなく独学でありながら弟子が一人いる私ですが

〉俳句に答えはないが、指導とは一種の答えを提示することである。しかしながら、その「答え」はあくまでも指導者が一つの落としどころとして持っている「答え」であって、広く通用するかどうかは定かでない


確かに仰る通りだと思います。俳句は国語のテストではありません。完全な正解がありません。正解は当人が見つけ出すものであって指導者が代わりに見つけるものではないと思います。
ところで今では瞬発力ですっかり上を行く弟子と私とでは作風にかなり違いがあります。しかしはっきりと似ている部分もあります。それは中七を切って下五に季語を置くパターン特に「や」切れの句が比較的多い事です。

針箱の螺の緩みや梅雨籠 白井百合子(弟子)

グローブに塗るワックスや冴え返る 拙句

いわゆる「澤調」です。拙句も小澤先生から新聞で選を頂いた句です。

さて


太陽に近き嘴蚯蚓を垂れ 田村龍太郎

が中七で切れているとの事でしたが「嘴」と「蚯蚓」の間には「から」の助詞が隠されていると思います。つまり

太陽に近き嘴(から)蚯蚓を垂れ 

ではないかと。つまりこの句は中七でも切れていないし下五も連用形のためどこにも切れがない句であろうと思います。
もし若林様が中七で切れていると判断されたのでしたら嘴以外のどこからか蚯蚓が垂れているはず。いったいどこから蚯蚓が垂れているとお読みになられたのでしょうか。
弟子がいるとはいえまだまだ精進中の身。御教授頂けると幸いです。

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