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「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句評 ちり紙の妖精と白木蓮の花咲く春が カニエ・ナハ

2015年02月02日 | 日記
 昨年11月の文学フリマのときに、私も出店していたのですが、通路をはさんだ斜め向かいのブースがひときわ賑わっていて、詩人の平田俊子さんのお姿が見えたのであとで行ってみると平田さんのほか俳人の神野紗希さん、歌人の石川美南さん、歌人の川野里子さん、歌人で作家の東直子さん、小説家の三浦しをんさんが売り子をされていて、彼女たち六名による「エフーディ」という冊子をじきじきに販売されていたのでした。「エフーディ vol.1 松山・別子銅山吟行編」と題された冊子は、六名のみなさんで松山・別子銅山へ吟行に行かれて、そこで、あるいはそこでの体験をもとに、みなさんそれぞれが「詩」「短歌」「俳句」「エッセイ」を書かれる、つまりそれぞれふだんとは異なる詩型での作品にも挑戦されていて、前述したように完成した冊子はみなさんで文学フリマへ売りにこられた、そのノリの良さ、和気藹々とした雰囲気も好ましく、三詩型(プラスアルファ)交流のこれは一つの理想形ではないかと思いました。ところで「エフーディ」というのはティッシュ箱の中にひそんでいて、ティッシュを出すときに手伝ってくれる妖精の名前とのこと。ティッシュを使い終わったあとエフーディはどこへ行ってしまうのか、とか、ポケットティッシュにはエフーディは棲んでいないのか、とかいろいろ気になるのですが、いずれにせよ、今後ティッシュ箱を誤って踏んづけたり(ということを私はしょっちゅうするのだけど、)カッとなったときにほおり投げたり(ということもしょっちゅうするのだけど、)しないように気をつけなくては、と思います。というわけで、「エフーディ」に掲載の俳句から。

  逆光の桜と昼の星々と  神野紗希

 いろいろなかたが俳句と写真の親和性について語られるのを目や耳にしますが、写真には写しえないものを写真のように描写することができるのが俳句の凄いところなのかも、とこの句を読んで思いました。

  急坂をあたたかな遺骨が下る  石川美南

 ここで突然、前回にひきつづき映画『仁義なき戦い』の話になるのですが(あのときはまだ菅原文太さんはご存命でした……)、たまたま最近見直したシリーズ第三作『代理戦争』 のラストで、文太さん率いる広能組の、殉死した下っぱ組員青年のお葬式のシーン、そこへも非情にも抗争相手の組の自動車が銃を乱射しながら走りぬけて、流れ弾が骨つぼに当ってかれの遺骨が道路にばらまかれてしまいます。組員のひとりがそれを慌てて拾おうとするのだけど熱くてすぐに手を引っ込めてしまう。しかしそれを文太組長はヤケドも厭わずにぎりしめて、哀しみと怒りにわななくのです。

  風光る遺跡は壊れ物ばかり  平田俊子

 そしてそのわななく文太さんの顔と、広島の原爆ドームの映像とがカットバックで交互に映し出され、そこにかぶさる「戦いがはじまるとき、まず失われるのは若者の命である。そしてその死が、報われたためしはない。」という冷徹なナレーションで映画はしめくくられます。大江健三郎さんの著作に『壊れものとしての人間』がありますが、壊れ物であるあまねく人間もまた遺跡なのかもしれません。

  ぐわらんぐわらんぐわらんとなにもなき鉱山  川野里子

ぐわらん」というのは「がらんどう」のがらんのことでしょうか。なにもなき、とありますが同時に「ぐわらん」が、ここにはあります。しかも、みっつも。

   *

 『角川俳句』1月号をぱらぱらとめくっていたら「230名が選ぶ!注目の若手俳人21」というコーナーがあって、21名の注目の若手のかたがそれぞれ新作七句と短い散文を寄せられていて、とてもひきこまれて読みました。それぞれから一句ずつ、私が好きなものを選んでみたいと思います。

  兎二羽キャベツ一枚共に食む  神野紗希

 ちいさいときうさぎに指をかまれたことがあります。思いがけず血がたくさんでて、救急車にのせられました。だいじにはいたらなかったですが。なのでこの句を読んで思わずキャベツに感情移入してしまいました。またキャベツがおしまいになるとき、うさぎのどちらかがどちらかを噛んでしまわないか、心配です。

  標無く標求めず寒林行く  高柳克弘

 昨年見た美術展の中で、もっとも印象的だったひとつがキュンチョメ(昨年の第17回岡本太郎賞を受賞されたユニットです)の「なにかにつながっている」展(新宿眼科画廊)で、表題作となっている7分ほどの映像作品「なにかにつながっている」は樹海を舞台に、作家が「もういーかい?」を応答のないままに連呼しながら、樹海の奥深くへと分け入っていく、という内容でした。

  目が失敗口が失敗福笑  西村麒麟

 失という漢字と笑という漢字はすこし似ていますね。

  蝋梅のつぼみのなかを散る花粉  佐藤文香

 じっさいにマンゲツロウバイのつぼみのなかをのぞいてみたら小虫がいました。とおい故郷を懐かしんでいるのかもしれません。

  星空を吹く木枯しの匂ひかな  村上靹彦

 夜になるとあまねく匂いが濃くなるのは夜になると私たちの視界がすこしせばまるからでしょうか。

  大いなるもの飲み込みぬ初鴉  阪西敦子

 元日に鳴く、または見るカラスのことを初鴉というそうで、はじめて知りました。なにを飲み込んだのでしょうか。まるごとの鏡餅とか。まさか。いずれにせよ喉をつまらせないとよいのだけど。

  繭玉の灯ともしごろの白さかな  鶴岡加苗

 繭玉がなにかのたましいに見えてどきっとしました。

  チョコチップクッキー世界ぢゆう淑気  野口る理

 「チョコチップクッキー」が万国共通の祝いの文句のように聴こえます。

  ストーブに近く仏壇から遠し  三村凌霄

 ということは仏壇とストーブは離れているのでしょうか。仏壇のひとは寒くないかな。

  まばらなる観客に熊立ち上がる  平井岳人

サーカスかなにかのクマでしょうか。こないだ映画『フェリーニの道化師』を見直したのですが、サーカスというのはなんてせつないのでしょう。世界や人生の縮図みたいだ。

  冬凪の叩いてはいけない硝子  小川楓子

 これ(硝子)は私だ……と思ってしまいました。

  うつむいてゐる子がひとり初電車  涼野海音

 これ(子)は私だ……と思ってしまいました。

  みかんやる玉に乗れなくなった象に  福田若之

 これ(象)は私だ……と思ってしまいました。私は、「これは私だ……」と思わされる句にどうも、ひかれてしまうみたいです。

  冬帽子とるや短く釘の影  生駒大祐

 冬は影が短くなるんですね。私よりも長い時間帽子を被っている釘。

  雨粒の遠くも見えて初昔  安里琉太

 ものごとの遠い細部って時間が経ってからより鮮明に見えたりするんですよね。

  この森にまだ奥のある冬帽子  堀下翔

 この帽子は赤い帽子な気がします。

  冬蝶の溶けてしまひぬ交差点  西山ゆりこ

 安西冬衛の有名な一行詩「てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った」(「春」)がありますが、この冬蝶は交差点にあっけなく溶けてしまいます。春。だれに生まれ変わるのか。

  暗き葉は暗きまま散り木の葉雨  小野あらた

 私なども葉っぱでいえば「暗き葉」の部類なので思わず共感してしまいました。

  全蟹が集結し鋏掲げけり  谷雄介

 赤瀬川原平さんの代表作のひとつ「宇宙の缶詰」は蟹缶をうらがえして全宇宙を包含するというとてつもなくスケールのでかい缶詰ですが、この缶詰のなかには当然「全蟹」もふくまれており、いずれにせよおなじ缶詰の中です。ところで「宇宙の缶詰」の実物を私がはじめて見たのは2007年森美術館「笑い展」でしたが、七句すべて「蟹」が出てくる(ついでにエッセイまで!)谷雄介さんの蟹連作には大いに笑わされました。

  から\/とポテトチップスめく落葉  進藤剛至

 パーティの終わりなどに、テーブルの上に余った落葉めくポテトチップスを見るとせつないきもちになります。

  たつぷりと光分け合ふ福寿草  今泉礼奈

 福寿草そのものが光みたいに見えます。春がちかづくとどうしてまず黄色い花たちからさきに咲くのでしょうか?おおむね黄色、赤、白という順な気がします。今泉さんのエッセイは彼女の白木蓮好きについて書かれていて、白木蓮の花の咲く春が来るのが私も楽しみになりました。

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