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「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句時評 第82回 福田基の本懐 外山一機

2013年02月13日 | 日記
今年一月に福田基が亡くなった。福田基といえば林田紀音夫の弟子であり、『林田紀音夫全句集』(富士見書房、二〇〇六)の編者として知られている。句集未収録作品を含む約一万句を収録したこの全句集は、多作でありながら生前に『風蝕』(十七音詩の会、一九六一)・『幻燈』(牧羊社、一九七五)の二冊しか句集を持たなかった林田の句業の実像を知るうえで重要なテキストである。福田の「編纂後記」によれば、そもそもこの全句集成立の契機は『青玄』(日野草城主宰)で林田と同輩であった桂信子の意を受けて宇多喜代子が福田にもちかけたことにあったということだが、その際の「貴方が逝ったら、もう林田の全句集も無理かも知れない」という宇多の言葉はあながち大げさなものでもなかったのである。全句集の大半を占める「同人誌・俳句雑誌掲載作品 未発表作品」は年代別・掲載誌別に配列され、そのうち句集収録作品にはそれとわかるよう符号が付されてあるが、林田の句帳をもとに既発表作品と未発表作品とを分類する作業だけでも相当に困難なものであったろう。そして自身が述べたように、実質的にはこれが福田の「俳人最後の仕事」となったのであった。

いったい、弟子の本懐とはいかなるものであろうか。福田は自身も一二冊の句集を持つ俳人であったが、『林田紀音夫全句集』を前にしたとき、もはや僕たちは福田の俳句のみをもって福田を語ることはできないだろう。なぜなら福田がその晩年に辿りついたのは、次のような場所であるからだ。

昭和六十年代以後の未発表作品の約七〇%は有季定型「花鳥諷詠」の作品であったが、出来る限り無季俳句を探し抽出した。(前掲「編纂後記」)

福田の仕事が明らかにしたのは、前衛俳句運動において無季俳句の旗手として知られていた林田紀音夫の未発表作品に有季作品がきわめて多かったということ、またそうした有季作品の発表をつとめて避けていたという林田の実態であった。上掲の福田の言葉は、全句集編纂者としての義務と林田の作家としての意志を傷つけまいとする配慮とのせめぎ合いがどのように落ち着いたのかを物語っている。
もとより『林田紀音夫全句集』は全「句集」ではあっても、「全句」集ではない。

後年、彼の没後蔵書の整理を頼まれ、芦屋市松浜町の自宅を訪ねた折、書斎は整然と整理していたが、古い俳誌は一冊も見つからなかった。キヨ子婦人に聞いてみると、彼は自身の余命を予知した折、古い過去のものをすべて捨てろと命じてあったらしく、『風蝕』以前のものは皆無であり、『金剛』の一冊すらなかった。彼が第一句集『風蝕』を編むに当たって、この下村槐太の許へ辿りつくまでの作品をすべて棄てた、といっているように、過去を詮索するなという意志だと判断して、筆者も彼の戦前の作品を敢えて蒐集しなかった。(福田基「幻想の林田紀音夫-思いつくままに」『林田紀音夫全句集』) 

また「編纂後記」には未収録作品の掲載にあたって福田が「未発表作品の選をするとき、その責任感に昼夜、嘖まれた」ことが語られているが、隠匿した作品があることを正直に告白する福田が編纂したこのテキストを、僕は片手落ちだと思いつつも、信頼に足るものであると思う。そして何より、林田紀音夫の全句に僕たちがアクセスすることを断固として拒否する「全句集」を美しいと思う。おそらく僕たちが『林田紀音夫全句集』によって林田の俳句作品の全貌を知ることはありえない。「林田紀音夫」とはこのようであるべきだという強い意志のもとに編纂されたテキストによって林田の仕事を知るのみである。僕たちに許されているのはせいぜいそこまでであろう。本当ならば福田逝去後の今こそ、林田や福田の意志を骨抜きにした新たな「全句」集編纂の絶好の時機が到来しているのにちがいない。けれどそのようなテキストの編纂者は、俳人最後の仕事として師の句をたったひとりで選別するに至った弟子の恍惚も苦悩も味わうことがないだろう。「貴方が逝ったら、もう林田の全句集も無理かも知れない」という宇多の懸念は決して軽いものではなかったはずなのである。これは林田紀音夫の場合に限ったことではないだろう。きっと僕たちには、ついに出会うことの許されない俳句というものが少なからずあるにちがいない。いやむしろ、そのような俳句は、本当は至るところにあるはずなのだ。だから、ある俳句に出会うということは非常に限定的な出来事なのであって、それを無条件に喜ぶのだとしたら、それは出会いを許されない俳句の存在を忘却した浅はかな愉悦に過ぎないのかもしれない。

ここで「全句集」編纂後の福田の仕事をもう少し追ってみたい。福田は林田に幻の第三句集があったことを指摘したことがあった。

これはぼくしか知らないことであるが、彼の第三句集の草稿を通読したとき、ぼくは即座に、この句集は現代では第二句集の『幻燈』より売れませんよというと、これは鈴木六林男らと同じ湯川書房の「水の梔子」シリーズの予約販売だという。そのことはともかく、「この句集がぼくの無季作家の墓碑銘となるだろう。赤尾兜子や橋石のように変身はうまくないけれど、当第三句集によって、今までの無季にこだわることもなく、思いつくままに句作をしていきたい。」と彼はいっていた。(略)振り返れば、そのころ長女亜紀を伴って、旅をし、また野山を散策した時代であり、もはや戦後ではなく精神的にも金銭的にもゆとりがあった。したがって、当時の作品は有季定型が主体であり、その句帳を悉に調べてみると、まず、有季定型の作品がありそれを、あえて無季俳句らしく自身が添削して「海程」や「花曜」に発表していたのは事実である。だから、同じ内容に近い有季と無季が句帳には並列していたということである。その、どちらがいいのかの判断は、ぼくにはわからない事柄であった。(「林田紀音夫の俤 雑感風に」『俳句界』二〇〇八・六)

福田は同じ文章で、この第三句集の一部が『現代俳句全集』第六巻(立風書房、一九七八)に収録されているとも述べているが、試みに『現代俳句全集』から『幻燈』以後の林田の句をいくつか抜き出してみよう。

雑木林を過ぎる死人の数に入り
近く鎖の音して海が横たわる
てのひらを水過ぎて山暗くなる
燈明のさだかな死後のたなごころ
折鶴のひとつふたつと悲しみ足す
戦死者の沖からの波足濡らす


林田はこうした句によって構成される第三句集をもって自身の「無季作家の墓碑銘」とし、ひそかに新たな船出を試みようとしていたのであった。多くの俳人が時代の移り変わりとともに見事な「変身」を遂げてゆくなかにあって、いつまでも変わることがないと思われていた林田でさえもその例外ではいられなかったのである。その一方で、「まず、有季定型の作品がありそれを、あえて無季俳句らしく自身が添削して「海程」や「花曜」に発表していた」と福田の指摘しているとおり、有季作品の発表が林田にとって容易なものではなかったのも事実であろう。林田は生前福田に「俳句作家・紀音夫として」『風蝕』『幻燈』『現代俳句全集』以外からの句の引用を厳しく禁じたといい、また『海程』での作品発表をとりやめた際、「もう疲れた。作品を自選することは出来ない。そっとしておいてほしい」と話したという(福田基「孤高とあやしさの界隈」『海程』一九九九・二・三月合併号)。

実際、林田の没後刊行された『海程』(一九九八・一〇)の林田紀音夫追悼記事が、皆一様に無季俳句作家としての紀音夫を語ることに終始していたのはそうした林田の苦悩を象徴していよう。それにしてもこの種の「添削」について福田が「どちらがいいのかの判断は、ぼくにはわからない」と述べているのは―さしあたり僕らがそれらを引き比べることができない以上福田を信用するしかないけれども―それもまた事実であろうし、とすれば、なんとも痛ましいことであった。

福田はいくつもの林田紀音夫論を遺したが、そのなかに、若い世代を意識して書いたと思われる次のくだりがある。

将来、彼を研究する俳人が現れたとすると、戦後の十年間、あるいは大正区時代は死と隣り合せであったことを知るべきであり、つまり『風蝕』の作品は芸術でもポエジーでもなく、彼のトリビアルなのっぴきならぬ『生死論』であり、『幻燈』の時代は「ペシミズムの芸」であった。『幻燈』以後の作品は彼が社会的に成功し戦争戦後を右手から左手に移し替えた人生の豊かな記録であると読み分けていただければ幸いである。(前掲「林田紀音夫の俤 雑感風に」)

ここで福田が示唆しているのは、たとえば『風蝕』所収の「月になまめき自殺可能のレール走る」「鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ」といった句について、それが林田個人の表現ではなく、ひろく時代の表現たりえたことを知らずに「芸術的、もしくは、人間の深層美学として捉えている」「若者たちの句評」への懸念であったろう。とはいえ福田は、林田の、とりわけ『幻燈』以後の作品について、彼の個人的な境遇を参照して読めばよいといいたかったのでもないだろう。アイロニーの漂う福田の言葉からは、むしろ林田の作家としての変遷が暗示する俳句形式特有の問題が浮かびあがってくる。すなわち、誰も自分の表現を必要としなくなってしまった場合に、それでも俳句をつくり続けることを可能にするのが俳句形式なのだが、それでもなお俳句をつくり続けるのかという問題だ。このような問題に気づかずに済ませても一向に構わないのだけれど、「林田紀音夫」を知ってしまった以上、僕たちは、この種の問題への気づきがその後の作家に強いる奇妙な身振りに無頓着ではいられないようにも思う。そして林田以後の僕たちには、この奇妙な身振りについて、それをたんに林田の退却戦としてとらえるのではなく、また別の見方もできるようにも思われる。

白菜もキャベツも一個持ち重り

年々、持ち重りするものの増える日々を白菜、キャベツに語らせた句で、「花曜」の平成九年に掲載されている。
もとより病弱で重い物を持つのは無理だったようだが、その切なさを吐露するのに「白菜もキャベツも」と、具体的なモノをもってややユーモラスに表現した句で、こんな林田紀音夫もいいなぁ、と思う。
七十年も生きておれば、時代も世情も、境遇も環境も、肉体も嗜好も変わる。その間、俳句観や作品が一本のまま、という人がいたら、詩人としては失格であろう。いつの頃からか、林田はもうダメだという声が、昨日今日俳句を始めたような連中からも囁かれ出した時、林田さんは黙っていた。芸としてのペシミズムが、負担になってきたのだろう。(宇多喜代子「林田紀音夫の句」『俳句研究』二〇〇六・一一)


ここでの宇多の義憤は、いまや『林田紀音夫全句集』を手にすることのできる僕たちに、重要な示唆を与えていよう。「白菜も」の句を良いという宇多は、何よりも目の前にある俳句表現に対峙し、それによって林田紀音夫の新局面を発見している。幻の第三句集以後の紀音夫とは、あるいはこのような視点から見えてくるものなのかもしれない。そしてこれこそ福田若之の批判する「『べき』論」から自在になった読みの実践であり、こうした読みがもたらした収穫の一つであったようにも思う(福田若之「「べき」との闘い、あるいは「コンビニ」との不貞行為」『週刊俳句』二〇一三・二・一〇)。だから、このような視点や、そこから立ちあがる読みを安易に否定することはできない。けれども、僕は、このような視点からは『林田紀音夫全句集』はついに生まれなかっただろうと思う。もう少し正確にいうならば、もしもそのような視点を肯定してしまうなら、齢七〇を過ぎた福田がさまざまな葛藤を抱きながらも最後の尽忠として師の全句集を編む意味が、誰よりも福田自身に見いだせなかっただろうと思われてならない。おそらく、大量に遺された林田の未発表作品や句集未収録作品にひとり対峙することになった福田は誰よりも幸福であったはずなのだが、また一方で誰よりも不幸であったはずなのである。

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