前々回および前回の記事同様、批評の観点から取捨選択し(つまり私が「惑星的」と判断した作品を取り上げ)、個別の作品に評論を行うことにする(批評と評論の区別については、前々回記事参照)。ここでとりあげる作家たちは、私が述べたことに同意しないだろうことも、これまで同様である。作家名を手がかりとしたスタイルの評を書くことは私にとって不本意であることも、これまで同様である。
……という前提を書いておきながら、いきなりここで、例外的なことを行う。作品を評価したのではなく、試みが面白い、という観点から、この作家をとりあげたい。
私はなぜか、俳句作成プログラム楽園v1.01をAIだとばかり思い込んでいた。ところがプロフィールのどこを読んでも「AIである」とは書かれていない(「AIでない」とも書かれていないが)。プロフィールには《類想回避のため、機械学習を使わない》との文言がある。機械学習を使わないAIというものを、うまく想像できずに、無駄に頭を働かせてしまった、ということも、AIであるという思い込みを長引かせた。仮にAIでないとすると、いわゆるアルゴリズムベースの俳句生成プログラムなのかもしれない。1979年に、水谷静夫が「俳句を作る計算機」という論文を発表している。より身近なところでは、三島ゆかり氏による「ゆかりり」をイメージすればよいだろうか。しかしいずれにしても、このプログラムがどのようなモデルを採用して設計されているのかは、完全にブラックボックス化されている。2021年9月4日に公開された連作「沈黙の水」から引きながら、読んでみたい。
うしろ手にくるほかはなき秋夕日 楽園v1.01「沈黙の水」(詩客、2021年9月4日)
主要には、二通りに読めると思う。第一に、字義通りに、(1)「秋夕日がうしろ手にやってくる。秋夕日には、そうする以外にないのだ」と読める。第二に、(2)「秋夕日のなかを、かの人物はうしろ手にやってくる。かの人物には、そうする以外にないのだ」と、おそらくは多くの読者がこう読むだろうという読み方ができる。このどちらの読み方をしても、「うしろ手」の多義性が、さらに関与してくる。「うしろ手」には、「両手を背中側にまわすこと」「後ろの方向」「後ろ姿」などの意味がある。(1)の私の読みを、「私の後ろの方向から秋夕日が差してくる。私は太陽に背を向けているのだから、そうなる以外にない」と解釈した読者もいるかもしれないが(そこでは、「解釈の解釈」が生じている)、私がイメージしたのは「秋夕日が、その手を夕日の背中側に回してやってくる」という像だ。さらに、(2)の読みも、「私の後ろの方向から、かの人物がやってくる」と解釈することもできるはずだが、私がイメージしたのは「かの人物が、自分の背中に手を回して(私の視野内のどこかから)やってくる」という像だ(私が初読でイメージしたのは、この最後の像である)。ここで重要なのは、「多様な解釈が可能である」などといった幼稚な相対主義ではない。多義的であるにもかかわらず、それらの多義性を束ねるようにして、多重露出のように、(2)の読み――かの人物が、自分の背中側に手を回してやってくる――に収斂してゆくように感じられることが問題なのだ。
収斂「させられる」といってもよい。なぜなら、「俳句に『うしろ手』と出てきたなら、それは人物が背中側に手を回しているのだ」と読む習慣が、読みの空間に権力として走っているからだ。こうした習慣を形成している先行句のひとつに《うしろ手をするには夕焼まだ薄し》(加倉井秋を)がある。もしも(2)の読みだけをするなら、本作は、楽園v1.01が回避しようとした「類想」を、十分に回避できていないといわざるを得ない。本作では中句と下句を、連体形《なき》を用い、「つなげながら、切る」(今井杏太郎)を実践することによって、多義性を多義的なまま確保している点において、際立っている――といいたいところではあるが、これもまた、現在では広く知られたひとつの技法、既知の技術ではある。《石段に空き缶の立つ西日かな》(村上鞆彦)、《手をつけて海のつめたき桜かな》(岸本尚毅)、《にはとりの骨煮たたする黄砂かな》(岩田奎)、など(むろんこれらには、《遠山に日の当りたる枯野かな》(高浜虚子)が先行しており、私自身、この《たる》の謎に迫ろうと、同じ構造を用いて《雨樋を雨流れたる炭火かな》という作品を書いたことがあるが、ついぞこの《たる》において何が生じているのか、明らかになることはなかった。納得のゆく説明を為した者も、これまでにひとりも現われてはいない)。
もう一点、動詞《くる》もまた、この種の「既知の技術」に属することを指摘したい。本作が「うしろ手にゆくほかはなき秋夕日」であったなら、退屈極まりない駄作になっていたことは間違いない。が、やはり、動詞「くる」を用いるならば、読者に迫るような「実感」を作品内に籠もらせることができる、という事実もまた、「既知の技術」に属することである。今回の記事でいうなら、知覚を欺くための諸技術のうちのひとつである。こうした「手癖」が、プログラムが使うデータセットから、そのまま引き出されている、という感触が、今回の楽園v1.01の連作ぜんたいに、既視感として充満しているように思われる。
八月を静かな巨船とも思ふ 楽園v1.01「沈黙の水」(詩客、2021年9月4日)
この作品をとりあげるかどうか、迷ったのだが、「うしろ手」句からの流れで、やはり言及しておきたい。いわば「とも思ふ」俳句の系列に位置づけられる作品。《春川の途中を終りとも思ふ》(柿本多映)、《茶の花の香を骨の香とも思ふ》(加倉井秋を)、《本堂を大きな雪間とも思ふ》(田中裕明)などを想起する。この意味で、やはり前述の「そのまま」という感触が、ここにもある。ただ、それ以上に、であるか否かは別として、少なくとも同程度には、《八月》という、戦後俳句において、過剰な、ごてごてとした意味を、呪いのように纏わされてきた語彙の使用が、この作品に、ある種の不自由さをもたらしている。《八月を》と述べたとたん、その不自由さから逃れられなくなるのは、当然のことではあるのだが、作品がそうした不自由さからどの程度自由になれているのか、という観点から、読みは行われるだろう。そして、おそらく、《静かな巨船》が十分に説得的なフレーズとして、《八月》とのイマージュの融合(《とも思ふ》はまさに融合を為している)を成し遂げるとすれば、むしろ、かの呪いを前提としたときなのである。この意味で、先行する類想句があるとまでは指摘できないものの、既存の俳句の文脈(私がこれまで述べてきた「日本の俳句」)からは当然に導き出される、誰が書いてもおかしくはない作品ではないかと思う。
中句を大胆に変更することで、自由になれている程度は上昇するであろうが、むしろ私の代替案は、上句を「きさらぎを」としてしまう、というものだ。とくに「よい」作品にはならないにしても、現状の、ひどく強い「がっかり感」に襲われることはないだろうと思う。プロフィールによれば、《v1.01は試作版》とのことで、今後これらの問題点(と私が考えている点)が、克服されるのか、むしろ強められていくのか、見守りたい。
垂直に枯野のなかをすれちがふ 楽園v1.01「沈黙の水」(詩客、2021年9月4日)
この作品にしても「すれちがふ」俳句の系列に位置づけられる、とはいえる。《世の中や歩けば蕪とすれちがふ》(生駒大祐)、《菜の花と合はさるやうに擦れちがふ》(鴇田智哉)などを想起する(これらは、同じ「すれちがふ」俳句の系列ではあるものの、詩の作り方からいって、《目をとぢて秋の夜汽車はすれちがふ》(中村汀女)、《雪の汽車吹雪の汽車とすれちがふ》(鈴木牛後)などの作品から区別されるといえるかもしれない)。むろん《垂直に》にしても、現代俳句の頻出語ではあって、いわば「垂直に」俳句の系列、というものも想定できるのだが、きりがないのでやめておこう(さらにいえば、この《を》の用法についても……ときりがなくなる)。このきわめて既視感にまみれた連作のなかで、この作品はとくべつ評価できる、というわけではないのだが(むしろ「出来」は悪いと思うし、既視感はこの作品がもっとも強い)、ある種のフィーリングを――本稿でさんざん批判してきた、かの「フィーリングを読む」という堕落した態度を、ここで採用してしまうのだが――かもしだしている作品であるとは思う。描かれている景としては、想像不可能なわけではない。《すれちがふ》とは、二個の事象が、なんらかの意味で接近しながらも、衝突せずに、別方向へと進むことである。だから、ふたりの人物が、《枯野》の平面上の別のルートを進み、接近はしながらも、ぶつかることなく、別の方向へ進んだ、と読むこともできる。そのルートが、直角に交わっているならば、《垂直》の定義に合致するだろう。が、この読みに違和感があるとすれば、まさしく「直角に」ではなく《垂直に》と述べられている点において、であろう。平面上のふたりの人物を観察しようとするとき、あるいはその進行ルートを観察しようとするとき、これはあくまでも語用論的な観点からのみいうのだが、《垂直》という語があてはまる、という「感じ」が生じない。やはり「直角」というのではないだろうか。《垂直》という語にとって適切であるように感じられるのは、平面に対して、たとえばなんらかの素粒子が突き抜けてゆく、といった景(像)ではないだろうか。したがって、枯野を横切ってゆく人物を、素粒子が貫いてゆく(あるいは接近してから遠ざかる)、という景として読むことは、この作品の視点の設定として、無理がないように感じられる。だが、より面白いように私に思われるのは、述定不可能な、何ものでもない事象が(ゼロのモノが、といってもよい)、《枯野のなか》において直交する、といった事態を想像しようとすることである。それは何ものでもないのだから、そもそも想像不可能である。像を結ばない、不可能なゼロのものを、われわれは、詩のなかにみることができる。《言葉のなかに、何かを「見る」》とは、そういった営みではないだろうか。これは、この作品に対してはあまりにチャリタブルな読みであるかもしれないが、AIであれアルゴリズムベースであれ、あるいは翻って、いかなる「作者」に対してであれ、私が期待することは、そうした営みを要請する言葉である。
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2020年に、岩脇リーベル豊美の句集『無題俳句(Haiku ohne Titel)』(R. G. Fischer)が出ている。句集には、まず日本語による作品、次にその読みをローマ字で表記したもの、そしてドイツ語による作品、という順番で掲載されている。巻末には、長い後書き(Nachwort)が付されており、これはドイツ語圏読者のための、「俳句小史」になっている。前回の記事で、私は岩脇氏の作品にからめつつ、私が『吟遊』誌上で発表している日英語対訳作品について、次のように述べた。《オリジナルとしての日本語版に対する、翻訳としての英語版、というようには感じられないのである。同一の作品の、日本語バージョンと英語バージョンがある、というのが実感である》。これについて生じうる誤解に関連して付言すると、ここで「同一の作品」ということで、私は、ふたつのバージョンの「手前」に、書かれないままの「真の作品」が実在している(はずだ)、と述べているのではない。かような「真の作品」などありえない。1980年代、ポップミュージシャンたちは、ディスコで再生されることを想定して、12インチレコードに「extended mix」を収録した。ディスコで再生されることが、そのままプロモーションになったからである。このとき、このリミックスに先立って録音されたバージョンが、「オリジナルバージョン」というわけだ。1990年代以降の、ハウスやテクノの12インチレコードにおいては、この「オリジナルバージョン」は実質的に消失した。そのアーティストによる「オリジナル版」がそもそも、クラブやレイヴのフロアに向けてミックスされた、いわば、あらかじめのリミックスであり、レコードに収録されるものは、「様々なリミックス」となる。短く編集された「radio edit」が収録されることもあるが、それもラジオ放送向けにミックスされた、ひとつのリミックスである。私が想定しているのは、この「オリジナルなしの、様々なリミックス」をまとめて「同一の作品」とよぶ、という事態である。
マネキン・ピスの性器反りかえりコルク抜く 岩脇リーベル豊美『無題俳句/Haiku ohne Titel』
Penis von Manneken Pis
windet sich — zieht
den Korken heraus
《マネキン・ピス》とはもちろん、小便小僧のこと。ドイツ語にある"windet"は、直訳するなら「巻く(winden)」(英語でも「反りかえる、のけぞる」はbend backwardsなどともいう)、再帰代名詞sichがあるから「己を巻く」となろうか。成語としてsich windenは「身をよじる、のたうつ」の意味もあるから、ドイツ語で読むとき、「反りかえるペニス」と同時に「のたうつペニス」のイメージも重ねられるだろう。小便小僧のペニスが反りかえったとしたら、放出される尿は高々と宙へ飛び上がるだろうし、のたうったとしたら、あらぬ方向へ飛び散って、小規模なパニックとなるだろう。しかしこの作品の面白さは、日本語版でも十分に理解可能だ。連用形で切れた直後(ドイツ語ではエムダッシュ)、唐突に《コルク》が抜かれる。ワインか、シャンパンか。種明かしをしてしまうと、「なあんだ」となるかもしれないが、小便小僧のペニスの部分がスクリューになっているワインオープナーがある(だから「巻く(winden)」の語が採用されたのだろう)。この意味では、たんに素朴に写生しただけ、ということに、ひとまずはなるかもしれない(岩脇氏がそう自句自解をしたわけではない)。だがここには、たんに「小便小僧型のワインオープナー」が指し示されただけ、という感触はない。むしろ、「小便小僧のペニスがそそり立つ(そして小便が高々と飛び上がる)」という運動のイマージュと、「ワインかシャンパンのコルク栓が抜かれる」という運動のイマージュが、乗算となって、なんともいえない解放感と、おかしみと、上昇する浮遊感をもたらしている。「引き抜く」と訳されるheraus|ziehenは(英語でいえばpull O out)、字義通りには「外へ引く」であり、まさしく「外へ」の感触、解放感を読者にもたらしてくれる。こうしたことが、日本語版には「外へ」の語がないにもかかわらず、《コルク抜く》だけで分かってしまう。これは驚くべきことのように思う。密閉されていたものが開封される、と抽象化してみるならば、このイマージュは言語を超える。放尿のイマージュが、身体感覚をともなって、どこか気が楽になるようなおかしみをもたらすとするなら、こうした解放感によるのではないだろうか。
遠邑に時雨るるななめの鬼胎抱く 岩脇リーベル豊美『無題俳句/Haiku ohne Titel』
Auf dem entfernten Dorf
die Schrägstriche des Spätherbstregens:
heimtückisch
日本語で《鬼胎抱く》といえば、辞書的には「心配する、ひそかな恐れを抱く」という意味。ここでは《ななめの鬼胎》というフレーズが、謎めいていて、魅力的だ。しかも《時雨るる》と連体形になっているから、この《鬼胎》は《ななめ》であり、かつ、しぐれている。こうした、語の活用や助詞によって無関連に思える語をどんどんつなぐことで、思ってもみなかったようなポエジーを生み出す、という手法は、まさに日本語による詩の得意とすることのうちのひとつだろう。《時雨》を不穏なイマージュに結びつける作品には、蕪村の《古傘の婆娑と月夜の時雨哉》《化けさうな傘かす寺の時雨かな》など多くあるものの、本作では不穏さだけではなく、《ななめの》が不思議さを惹起しており、効果的であると思う。ドイツ語版を参照してみると、ひとつも動詞がない書き方に特徴がある。直訳してみるなら「遠い村に晩秋の雨の斜線、陰湿に」となるだろうか(《時雨》が「晩秋の雨」になっているのは、日本の歳時記で初冬とされる11月は、ドイツでは晩秋と考えるのが自然だからだろう)。少し不思議な感じがするのは、三行目にぽつんと置かれた"heimtückisch"の一単語である。便宜的に「陰湿に」と副詞的に(あるいは形容動詞の連用形的に)訳してみたが、この三行のなかで形容詞として働いているのか、副詞として働いているのか、よく分からない(私のドイツ語能力のせいでもあるが)。辞書的には「陰険な、狡猾な、卑劣な、悪意のある」などの意味がある語だが、日本語にある《鬼胎抱く》とはニュアンスが異なるようにも思われる。中国語で《鬼胎》は「悪巧み、下心、やましいこと」を意味し、むしろこちらにドイツ語版は近い。本作は、「いわゆる村社会」の陰湿さを、語り手が思い、恐れを抱いた、ないし恐れが顕在化した、という感情のイマージュを提示するもののようにも感じられる。この感情のイマージュが、日本語版では《時雨るるななめの》という連体修飾語をつくる動的なフレーズによって提示され、ドイツ語版では「雨の斜線」という視覚的イマージュによって象徴的に提示されている。この違いそのものが面白くもあり、しかもそれが「それぞれの言語の肌理(生理)」なるものによってもたらされた違いではなく(「視覚的イマージュによる象徴ないし暗示」こそ、日本語による俳句がながらく得意としてきたもののはずだ)、この作品を成就するという、個別的な理由によってもたらされた違いである、という点が、非常に興味深いものだと思う。
往く人と森の花の名おしえ合い 岩脇リーベル豊美『無題俳句/Haiku ohne Titel』
Mit einer Pilgerin
Namen der Waldblumen
wechselseitig beigebracht
こうして改めてこの作品の日本語版と向き合ってみると、とても些細なことがらについて、とてもさり気なく書かれた作品のようにみえる。日常のひとこまを、たんたんと切り取ったような。じつはこの作品には、もうひとつのバージョンがある。『吟遊』88号掲載の連作では、こうなっている:
森往く人と 蕾む記号をおしえあい 岩脇リーベル豊美「森 詠草」『吟遊』88号
Mit einer Pilgerin
Symbole der Waldknospen
einander beigebracht
日本語では《森の花の名》《蕾む記号を》と異なっており、ドイツ語では二行目が異なる。『吟遊』88号も、句集と同じく2020年発行であり、どちらが先行するバージョンであるのか、分からない。少なくとも日本語だけをみるなら、《蕾む記号》のほうが魅力的なことを述べているようにみえる。しかしこの作品をみるとき、重要になってくると思われるのは、ドイツ語には"Pilgerin"、すなわち「女性の巡礼者」という、日本語版にはない語がある、という点であると思われる。むしろ"Pilgerin"の一語が、この作品の重量感を、ほとんど決定しているようにさえ感じられる。私が使っている辞書の、"Pilger"(男性の巡礼者)の項目には、男性の巡礼者の姿恰好が図解されている。女性巡礼者の姿恰好を知りたければ、"Pilgerin"で画像検索をするのがよいだろう。ちなみに、2014年に、2回に分けられて、「Die Pilgerin」という、14世紀ヨーロッパを舞台としたテレビ映画がドイツでは放送されている。画像検索でみることができるのは、このドラマの画像がほとんどである。岩脇氏がこのドラマの映像をモチーフにしたことはおおいに考えられるだろうし、なにより、ドイツ語圏で"Pilgerin"という語を用いたなら、現時点では、このドラマから得られた像が想起されるのではないか、とも考えられる。
本作の場面は、森なのだろう。理由は分からないが、語り手は、森を歩いている(おそらくヨーロッパの森だろう。想像もできないほど巨大な。日本語で「森」というときにイメージされるものは、ヨーロッパにおいてはほとんど「林」とよぶべき規模のものではないか)。そこで女性の巡礼者と出会う。語り手は、彼女と少しの言葉を交わす。これだけで、ほとんど詩になる。ドイツ語のみをみるなら、二行目は、"Pilgerin"の重量感を損なわないように、句集版へと改められた、と想像することもできる(『吟遊』版が先行している、という仮定)。あるいは、句集版ドイツ語がまず書かれ、これに対応するような日本語が書かれ、しかし元のドイツ語にあった感触が失われているために、『吟遊』版の両作(日本語とドイツ語)が書かれた、というプロセスも、想像できる。いずれにしても、こうなってくると、さきに「もうひとつのバージョン」と述べたが、ぜんぶで4バージョンある、とみなさざるをえない。私が先に「オリジナルなしの、様々なリミックス」と述べたのは、こうした事態のことである。この問題について、たとえば「作者」を「知っていると想定された主体」とみなし、書かれた順番について作者に質問してみたところで、たかだか経験的・歴史的レヴェルの事実しか知ることはできないだろう。この事実に意味はない。4つのバージョンの、相互連関が――相互連関から湯気のように立ち昇ってくる「詩」が――重要だからだ。複数の言語のあいだでの「翻訳」を媒介として、こうした新しい現実が開かれている。この現実に、私は興奮させられるのである。
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櫻井天上火の50句連作「終焉する歴史、無限」を読みたい。noteに2021年7月13日公開されている。連作ぜんたいの印象は、冒頭がいきなり《火を消して一身体の一世界》であるから、加藤郁乎を手本とした文体練習の趣も、感じられないわけではない(典型的にはたとえば《冬眠を覚めずidéeの窓を開け》)。ただ、独特の奇妙さがあるようにも思う。多くの書き手がしばしば行う文体練習――特定の作家が作品で用いている構造を借りて、別の作品を書いてみる、ということを、私はよく行う――において、どうしても器に隙間ができたりはみ出る部分があったりと、器と言葉との関係が、完全にはマッチしない感触がでてくると思うのだが(音数ではなく、言葉の感触のもんだいとして)、そしてそこに興味深さだったり、「どうもうまくいかないなあ」という感じがあったりするのだと思うのだが、この連作ぜんたいにおいて、言葉と器、文体が、奇妙にもマッチしている。かといって、加藤郁乎が書いた作品のようにも感じられない。むしろ「郁乎ならこの作品は書かないだろう」という感触が、一句一句にそなわっている。この謎は、うまく解けないところではあるのだが、とくに私が好ましいと思った三句をとりあげてみたい。
接続に無があれば飛ぶ垂直の鳥 櫻井天上火「終焉する歴史、無限」
使われている言葉から、別の書き方を夢想してみる。たとえば「接続がなかったならば、鳥が垂直に飛ぶ」はどうだろう。私の意識上に浮かぶイマージュは、はじめに、このもっとも詩的でない叙述によって表現されるところのものである。このようには書かれていないにもかかわらず、思考の経済によって、もっとも「楽な」イマージュが到来する。そしてひとまずは、そのように読んでみることも、不適切ではない。《接続》、コンセントやプラグや、あるいはネットワークの、神経間の、意識内の、なんらかの接続が生じない、という、空を切るような運動のイマージュ、ないし、期待はずれのような感情のイマージュ。それに続く、揚雲雀が垂直方向に飛んでゆく、運動のイマージュ。まずはこのふたつが、乗算となって、読む私の意識内に、詩的な領域が確保される。だが、そうは書かれていない、という点が、やはりこの作品にとっては重要だ。英語でthere is nothingといえば「何もない」ことになる。が、字義通り、「nothingなるものが存在する」と読めば、どうだろう。本作も、「無ければ」といわずに《無があれば》という。不可能なものが、不可能なまま存在を付与されている(詩においてはしばしば生じることだ)。この不可能なはずの領域が、はじめに確保された詩的領域の下層に、にじむように広がりはじめる。《垂直の鳥》をひとまず「垂直に鳥が飛ぶ」と把握するのは思考の経済によるものだが、同時に、そう把握するのは無理がある、という感触が、やはり下層に異物のように残る。垂直に立つ鳥、断崖絶壁のように切り立った鳥、三次元空間の垂直方向の軸に棲み着く鳥、垂直という言葉に棲む鳥、垂直という観念に棲む鳥――どのように考えてもよいだろうが、無数の視覚的イマージュや非視覚的イマージュが混淆し、およそ《鳥》とはよびえない何かが到来する。そこに鳥のシルエットがステッカーのように貼りつく。
前者の、空を切る・期待はずれのイマージュは、不可能なものとしてポジティヴなイマージュに変貌する。後者の、垂直方向への運動のイマージュは、混沌とした諸イマージュの束へと変貌する。さきに「乗算となって」と述べた上層の領域を、この下層のイマージュたちは、指数的に膨張し、食い破る。むろん、よりシンプルに、《接続に無があれば》という魅力的なフレーズと、《垂直の鳥》という魅力的なフレーズとの、二物衝撃と読んでもさしつかえないだろう。このとき、二物が、足し算になれば失敗であり、乗算になれば成功であり、指数になればミラクルが生じている、といってよいと思う。私はここでミラクルが生じていると判断したのだが、どうだろう。《飛ぶ》でなければ指数になっていた、と判断する読者もいるかもしれない。
六番の獅子の落下によく光る 櫻井天上火「終焉する歴史、無限」
いっけん、ここでは《よく光る》ものが示されていないようにもみえる。いや、じっさいに示されていない、のかもしれない。つまり番号がふられた諸獅子がおり、《六番の獅子》が《落下》することによって、示されていない何かが《光る》、とまずは読んでしまう。そう読むことは誤りではない。《六番》が光るのだ、としたらどうか。番号がふられた諸場所があり、《獅子の落下に》よって光るのだ。どうも、二通りの読み方を想定してみて、前者のほうがより「ありそう」と感じられるのは、《六番の獅子》というフレーズに、強い魅力を感じるからなのだが、たんに《六番》という場所がある、と想像することが難しい、という、思考の経済によるのかもしれない。《六番》に何か象徴的な意味を見出したくもなり、たとえば「ヨハネの黙示録」で「6」は完全な「7」に足りない不完全な数とされていることを想起するとか、あるいはリーグ内で6位(つまり最下位)となっているライオンズ、といったものを想起することも、誤りではないだろう。あるいは、一般的に「難解」とされる作品の少なくないものについて、その作者が適用している方法論を想像するなら、作者の部屋の棚には何体かの《獅子》が並んでおり、そのうちの《六番》が《落下》し、何らかのものが光った、と想像しても、誤りではない。が、その手の「解釈」ないし「読み解き」(同じことだが)は、作品を「読む」こととなんら関わりあいがない。「一般的に難解」と述べたが、すでに私はこの作品を読んでおり、感銘を受けており、その時点で「読み」は完了しており、そこに「難解さ」は微塵もない。もんだいとなるのは「感銘」を言葉に展開する方法である。
などと一般論を述べてしまったが、前掲の「接続」句と同様、採用されなかった書き方を想定してみてはどうだろう。《獅子》が光るのであれば、「六番の獅子の落下のよく光る」ですんなりするように感じる。《六番》が光るのであれば、「六番は獅子の落下によく光る」でよいだろう。が、そのいずれでもなく、まさにそう書かれていない点にこの作品の魅力があるのだが、そのいずれも否定されているのではなく、ここでもやはり、諸イマージュが束ねられている、と感じられる。落下運動のイマージュから、輝く視覚的イマージュが生産される。水力発電を考えれば、そうしたエネルギーの変換はとくだん、想像・体感が難しいことではないが、そうした体感(読んで感銘している体内の「感じ」)をすんなりと言葉にまとめあげて安心することを躓かせるのは、まさしく《六番の》にあるだろう。こういってしまうと、よくあるマジック・リアリズムの評のようになってしまいそうだが、あるいはマジック・リアリズム的な作品と読んでも、面白いのかもしれない。「何が光るのか」というもんだいの詮索に、意義があるとは思えないが、世界が光るとも、人には知覚できないほど小さな領域が光るとも、あるいは語り手の全身が輝きはじめるのだとも、感じられる。
蜜蜂telepathこおりの星は鎖骨あたり 櫻井天上火「終焉する歴史、無限」
暖かくとろみのある前半と、冷たく硬質な後半とのギャップが面白い。《蜜蜂telepath》というフレーズがいきなり面白いのだが、《蜜蜂》と《telepath》のあいだで切れると考えるのか(蜜蜂とテレパスがいる)、蜜蜂=telepathと同格として考えるのか(テレパスである蜜蜂)、判断は難しい。《蜜蜂》の生態から「テレパシー能力者」を想起する、というのはあまりに安易かもしれない。ここでは《蜜蜂telepath》という新しい言葉が生まれでている、と読みたい。はちみつの甘やかな香りを漂わせつつ、何ものかの意識から別の意識へと、思考内容が瞬時に飛び移る。その軌跡は、空間性をもたないのだから、誰にも知覚できない(直線や曲線によって表象されるのであろうとしても)。この「飛び移り」の感覚が、《蜜蜂》の形態をして、読む私の意識に現われる。運動イマージュの、視覚イマージュ化。後半、一転して、《こおり》の世界に連れ出される。《こおりの星》に太陽光は届いたとしても、人には体感不可能な冷たさだ。後半のフレーズにおいて、この巨大な(と思われる)《星》が、《鎖骨あたり》にある・きていると、スケールの狂いが生じているのだが、面白くないとまではいわないにしても、ここに本作のよさがあるわけではない。不可欠な要素ではあるにしても。第一には《鎖骨》の硬質さが、《こおりの星》の冷たさを際立たせるように、そして前半の暖かさ・とろみ・甘やかさを対照させるように働いている。第二に、人体部位語の登場によって、この冷たさは、身体感覚の水準で体感されることになる。そして本作にとって非常に重要なポイントであるが、前半/後半の対照関係において、《鎖骨》の身体感覚はまずは冷たさに所属するものの、同時に、作品ぜんたいを統合するように、暖かさ・とろみ・甘やかさにも所属する。そしてむしろ、世界ぜんたいは、暖かく、とろみがあり、甘やかであるように感じられる。《鎖骨》という点へと冷たさを集約することで、極度の冷たさが、懐柔される。体温のある身体の一部分に氷が押し当てられているかのような。このとき、身体とは、世界であり宇宙である、といってもよいだろうと思う。
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