現代詩のことなら多少わかるが、俳句は残念ながら門外漢である。原稿の依頼をうけた時、「何かの間違いでは?」と回答すると、詩客の運営責任者からは、それでも結構・・・と返事がきた。わからないことを学ぶのは嫌いではないので、この機会にお勉強をいたすこととして、不見識を承知で俳句の世界に切り込みを入れたいものです(笑)。
■時間について
古本屋で見つけた、『現代俳句』楠本憲吉著(学燈文庫)はなぜか出版年が入っていない。奥付には著者の検印が押してあるので、古い本には違いない。昭和30年かそこらだろうか。そこには正岡子規から橋本多佳子まで37名、錚々たる俳人の句が載っている。
数々の名句である。そこに一定の視点、言うまでもなく「自然」という視点があることに気が付いた。その自然からの視点は、時間の流れも少なく“瞬間”を切り取ったものがほとんどである。
山肌の虚空日わたる冬至かな (飯田蛇笏)
ひとつの物なり現象が止まっている。もちろん書かれていない過去の時間は流れている。しかしながら書き写された現象時間は止まっているように思える。これが伝統俳句というものなのだろうか。それでも、37人の俳人(小説家も)のなかには、違った時間感覚のある2、3の俳人のいることが見えてきた。漱石はその一人である。
菫程な小さき人に生れたし (夏目漱石)
これを瞬間の感慨と捉える人は多いに違いない。表現される時間には二種類ある。一つは眼の前を流れる(感覚で捉える)線的な時間。もう一つは、蓄積された地層のような、全体で感じる非線的な時間である。漱石の句には、非線的な時間の重なりを感じる。高浜虚子や山口誓子にも時間の重なりや流れを感じる。
私の直観による時間概念は、なにも新しいことではない。が俳句は目の前の瞬間を切り取るものであるという“写生の常識”は、子規以来連綿と続いている。こうした歳時記風俳句は、俳句の世界では伝統に則ったやり方であり、疑う人は少ないという。自分たちの日常をそのように記録することに異論を唱えるわけではないが、一方で書かれた時間が流れたり跳んだりすることで内容(時間の広がり)はずいぶんと豊かになるのではないかと思ったりする。
Fall 田村隆一
落ちる
水の音 木の葉
葉は土に 土の色に
やがては帰って行くだろう 鰯雲の
旅人はコートのえりをたてて
ぼくらの戸口を通りすぎる
「時が過ぎるのではない
人が過ぎるのだ」
ぼくらの人生では
日は夜に
ぼくらの魂もまた夕焼けにふるえながら
地平線に落ちてゆくべきなのに
落ちる 人と鳥と小動物たちは
眠りの世界に
現代詩の世界で、時間を表現した一例である。もちろん手練れの詩人である田村隆一の作品であることを強調しなければならないが。
■季語のこと
時間概念は、歳時記風俳句として記録するおおかたの俳句には自覚が薄いのではないかと想像するが、反論もでてくるだろう。そうした時間と並行して考えるのは、季語のことである。現代詩の世界からみると、季語の存在は不思議でもある。
海に出て木枯帰るところなし (山口誓子)
なるほど、季語によって17音の中に厖大な「時間の累積」が生じる(先ほどの「時間の広がり」とは別の意味で)。われわれが古来感じてきた感覚が一語で時間を飛び越える。それによって「自然のなかの普遍的なうつくしさ」(鷹羽狩行)を感じられる、一種の象徴の力であろう。
だが一方で、この感覚は人間にとって本当に普遍だろうか、と思わざるを得ない。言葉が、古典的な意味から現代的な意味と感覚に移るように、古い感覚の上には新しい感覚が積み重なる。またそれが言葉の、われわれの感覚を新鮮に保つ醍醐味でもある。人間は古い感覚層に安住したがる生き物だ。季語とはわれわれの感覚を試す装置かもしれない。
しんしんと肺碧きまで海の旅 (篠原鳳作)
無季俳句は、歳時記俳句にたいして生まれた必然だったかもしれない。自由律俳句もそうだが、現代詩の観点からみると共感するところ大である。もちろん現代詩にしても「おじや風現代詩」(飯島耕一)と揶揄されるように、戦後60年以上もたてば風化、陳腐化していることは否めない。どの分野にも対立する構図、あるいは並行して派生する疑似関係の構図があるものだ。先ほどの無季俳句、自由律俳句であり、現代詩の分野でいえば、次のような作品がある。
石 石 石
秋
唇
船 船
扉 扉
扉 蠅
蠅
これは、戦後の前衛詩運動の一つ、コンクリート・ポエトリー(視覚詩)に関わった、新国誠一という詩人の作品。世界的な詩の運動体でありながら、新国は日本語の漢字と言うものにこだわった。2008年には国立国際美術館で回顧展が開かれている。
俳句の世界でも、高柳重信が視覚的な俳句を作っていると聞く。こうした、いままで当たり前だと思われてきた概念を捨てて、新たな概念で表現活動をすることは言葉にとっても人間にとっても必要なことである。俳句を含めた詩は、自然を謳う時代から人間を謳う時代へと移ることが次の時代の土壌をつくることであると自覚してもよいのではないか。季語に話を戻せば、無季という句の選択は、世界を広げるひとつの鍵ではないかと考えたい。
■たこつぼ化を考える
幸い、というべきか雑誌「ユリイカ」2011年10月号の「現代俳句の新しい波」という特集には、私が以上に述べ感じてきたことがほぼ他の俳人たちによって問題視され提示されている。それらを紹介することは目的ではないが、ここでは作家の長嶋有や西加奈子が句を載せ、同じく作家である川上弘美も句作の経験を鼎談で語っているという事実が、新たな俳句の展開をもたらしていると期待したいところである。
朝寒やフレーク浸る乳の色 (高柳克弘)
白雲と林檎とバスの時刻表 (神野沙希)
あの子ですエッフェル塔を盗んだのは (千野帽子)
おそらく、60歳代以上が圧倒的多数を占めると言われる俳句の作り手たちの眼には、これらの明るすぎる俳句の世界に戸惑いと拒絶を感じるかもしれない。私にしても、20年前、30年前には、年輩の3、4人の詩人から、「あなたの詩はどうも(詩の正統?と)違うようだ」とか、間接的には「私の先生は<こんな書き方をしてはいけない>と言われました」と伝えられた経験がある。今から思えば苦笑ものだが、現代詩の世界でも自分の考えている枠組み、書き方から外れると拒絶反応を示す人たちがいたのだ。
俳句人口300万とか600万とか、1000万とか言われる、現代詩からみたらとてつもない層の広がりのある詩の表現分野。現代詩の世界からも、句の世界に流入する人が増えている。だがそれとて、たこつぼ化という問題は必然だろう。聞くところによると「あれをしてはいけない、これもいけない」という“禁じ手”“作法”は呆れるほど多いらしい。結社と宗匠のある世界は、入るときは、裃を付けないといけないのか、と妄想するほどだ。これらの、いわゆる“たこつぼ”を揺らすのは相当な力が必要だ。
前述の「ユリイカ」で角川春樹は俳句を、「盆栽俳句」「半径50センチの身辺(を詠んだもの)」という言いかたをしている。高年齢層では変えるのは容易ではないだろう。だが、「俳句甲子園」から出てきたような若い作り手たちなら可能だろう。現代詩の世界でも、私もかつて「身辺50センチの世界」と呼んだことがあるように、その大半は日常詩である。そこから出ていきたくても今さらどうしたら出ていけるかわからない、という状態である。平凡な結論になるが、若い、柔軟な感性が世界を変える。これはどの世界でも共通だろう。たこつぼは、揺らしても、水が枯れないと中からでてこない。地震が起きても変わりそうもない日本人の世界観(俳句観)は、10代、20代から変えていくしかないか、と思われる。web媒体である「詩客」の存在意義は大きい。
■時間について
古本屋で見つけた、『現代俳句』楠本憲吉著(学燈文庫)はなぜか出版年が入っていない。奥付には著者の検印が押してあるので、古い本には違いない。昭和30年かそこらだろうか。そこには正岡子規から橋本多佳子まで37名、錚々たる俳人の句が載っている。
数々の名句である。そこに一定の視点、言うまでもなく「自然」という視点があることに気が付いた。その自然からの視点は、時間の流れも少なく“瞬間”を切り取ったものがほとんどである。
山肌の虚空日わたる冬至かな (飯田蛇笏)
ひとつの物なり現象が止まっている。もちろん書かれていない過去の時間は流れている。しかしながら書き写された現象時間は止まっているように思える。これが伝統俳句というものなのだろうか。それでも、37人の俳人(小説家も)のなかには、違った時間感覚のある2、3の俳人のいることが見えてきた。漱石はその一人である。
菫程な小さき人に生れたし (夏目漱石)
これを瞬間の感慨と捉える人は多いに違いない。表現される時間には二種類ある。一つは眼の前を流れる(感覚で捉える)線的な時間。もう一つは、蓄積された地層のような、全体で感じる非線的な時間である。漱石の句には、非線的な時間の重なりを感じる。高浜虚子や山口誓子にも時間の重なりや流れを感じる。
私の直観による時間概念は、なにも新しいことではない。が俳句は目の前の瞬間を切り取るものであるという“写生の常識”は、子規以来連綿と続いている。こうした歳時記風俳句は、俳句の世界では伝統に則ったやり方であり、疑う人は少ないという。自分たちの日常をそのように記録することに異論を唱えるわけではないが、一方で書かれた時間が流れたり跳んだりすることで内容(時間の広がり)はずいぶんと豊かになるのではないかと思ったりする。
Fall 田村隆一
落ちる
水の音 木の葉
葉は土に 土の色に
やがては帰って行くだろう 鰯雲の
旅人はコートのえりをたてて
ぼくらの戸口を通りすぎる
「時が過ぎるのではない
人が過ぎるのだ」
ぼくらの人生では
日は夜に
ぼくらの魂もまた夕焼けにふるえながら
地平線に落ちてゆくべきなのに
落ちる 人と鳥と小動物たちは
眠りの世界に
(詩集『新年の手紙』より)
現代詩の世界で、時間を表現した一例である。もちろん手練れの詩人である田村隆一の作品であることを強調しなければならないが。
■季語のこと
時間概念は、歳時記風俳句として記録するおおかたの俳句には自覚が薄いのではないかと想像するが、反論もでてくるだろう。そうした時間と並行して考えるのは、季語のことである。現代詩の世界からみると、季語の存在は不思議でもある。
海に出て木枯帰るところなし (山口誓子)
なるほど、季語によって17音の中に厖大な「時間の累積」が生じる(先ほどの「時間の広がり」とは別の意味で)。われわれが古来感じてきた感覚が一語で時間を飛び越える。それによって「自然のなかの普遍的なうつくしさ」(鷹羽狩行)を感じられる、一種の象徴の力であろう。
だが一方で、この感覚は人間にとって本当に普遍だろうか、と思わざるを得ない。言葉が、古典的な意味から現代的な意味と感覚に移るように、古い感覚の上には新しい感覚が積み重なる。またそれが言葉の、われわれの感覚を新鮮に保つ醍醐味でもある。人間は古い感覚層に安住したがる生き物だ。季語とはわれわれの感覚を試す装置かもしれない。
しんしんと肺碧きまで海の旅 (篠原鳳作)
無季俳句は、歳時記俳句にたいして生まれた必然だったかもしれない。自由律俳句もそうだが、現代詩の観点からみると共感するところ大である。もちろん現代詩にしても「おじや風現代詩」(飯島耕一)と揶揄されるように、戦後60年以上もたてば風化、陳腐化していることは否めない。どの分野にも対立する構図、あるいは並行して派生する疑似関係の構図があるものだ。先ほどの無季俳句、自由律俳句であり、現代詩の分野でいえば、次のような作品がある。
石 石 石
秋
唇
船 船
扉 扉
扉 蠅
蠅
(連作[7]法隆寺)
これは、戦後の前衛詩運動の一つ、コンクリート・ポエトリー(視覚詩)に関わった、新国誠一という詩人の作品。世界的な詩の運動体でありながら、新国は日本語の漢字と言うものにこだわった。2008年には国立国際美術館で回顧展が開かれている。
俳句の世界でも、高柳重信が視覚的な俳句を作っていると聞く。こうした、いままで当たり前だと思われてきた概念を捨てて、新たな概念で表現活動をすることは言葉にとっても人間にとっても必要なことである。俳句を含めた詩は、自然を謳う時代から人間を謳う時代へと移ることが次の時代の土壌をつくることであると自覚してもよいのではないか。季語に話を戻せば、無季という句の選択は、世界を広げるひとつの鍵ではないかと考えたい。
■たこつぼ化を考える
幸い、というべきか雑誌「ユリイカ」2011年10月号の「現代俳句の新しい波」という特集には、私が以上に述べ感じてきたことがほぼ他の俳人たちによって問題視され提示されている。それらを紹介することは目的ではないが、ここでは作家の長嶋有や西加奈子が句を載せ、同じく作家である川上弘美も句作の経験を鼎談で語っているという事実が、新たな俳句の展開をもたらしていると期待したいところである。
朝寒やフレーク浸る乳の色 (高柳克弘)
白雲と林檎とバスの時刻表 (神野沙希)
あの子ですエッフェル塔を盗んだのは (千野帽子)
(以上「ユリイカ」2011年10月号から)
おそらく、60歳代以上が圧倒的多数を占めると言われる俳句の作り手たちの眼には、これらの明るすぎる俳句の世界に戸惑いと拒絶を感じるかもしれない。私にしても、20年前、30年前には、年輩の3、4人の詩人から、「あなたの詩はどうも(詩の正統?と)違うようだ」とか、間接的には「私の先生は<こんな書き方をしてはいけない>と言われました」と伝えられた経験がある。今から思えば苦笑ものだが、現代詩の世界でも自分の考えている枠組み、書き方から外れると拒絶反応を示す人たちがいたのだ。
俳句人口300万とか600万とか、1000万とか言われる、現代詩からみたらとてつもない層の広がりのある詩の表現分野。現代詩の世界からも、句の世界に流入する人が増えている。だがそれとて、たこつぼ化という問題は必然だろう。聞くところによると「あれをしてはいけない、これもいけない」という“禁じ手”“作法”は呆れるほど多いらしい。結社と宗匠のある世界は、入るときは、裃を付けないといけないのか、と妄想するほどだ。これらの、いわゆる“たこつぼ”を揺らすのは相当な力が必要だ。
前述の「ユリイカ」で角川春樹は俳句を、「盆栽俳句」「半径50センチの身辺(を詠んだもの)」という言いかたをしている。高年齢層では変えるのは容易ではないだろう。だが、「俳句甲子園」から出てきたような若い作り手たちなら可能だろう。現代詩の世界でも、私もかつて「身辺50センチの世界」と呼んだことがあるように、その大半は日常詩である。そこから出ていきたくても今さらどうしたら出ていけるかわからない、という状態である。平凡な結論になるが、若い、柔軟な感性が世界を変える。これはどの世界でも共通だろう。たこつぼは、揺らしても、水が枯れないと中からでてこない。地震が起きても変わりそうもない日本人の世界観(俳句観)は、10代、20代から変えていくしかないか、と思われる。web媒体である「詩客」の存在意義は大きい。
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